みなさん、こんにちは。
城本クリニック横浜院院長 野中大樹です。
続きです。
合格発表までは少し不安な気持ちで過ごしましたが、晴れて合格通知を受け取った時は達成感と安堵感がものすごかったですね。
もうあの浪人生活を送らなくて済むんだという思いが強かったように覚えています。
人生で一番勉強した一年間でしたね、50になっても。
医師国家試験や形成外科専門医試験でもかなり勉強しましたが、点数さえ取れれば合格する試験であり、他人との競争ではない点で受験より安心感はありましたから。
あとは、浪人時代は身分がはっきりしていないというところも不安な点でありました。
「学生」なんだけど「高校生」でもなく「大学生」でもなく、一体何なんだという、何となく社会から隔絶された感覚になってましたもん。
ようやく「大学生」と名乗っていいんだという喜びが大きかったです。
しかも「医大生」
島根でしたがそこはとてつもない喜びでした。
医学を学びたくて一年間勉強頑張ってきたので、それが六年間学べるという喜びが大きかったですね。
ですので、医学部での最初の授業の「医療〇〇」とか「医学〇〇」とかいう授業には喜んで出てました。
「医学部に入ったんだ〜」と思える瞬間でしたね。
あとはそれなりに大学生活も楽しみましたよ。
授業を途中で抜けてご飯食べに行ったり、2年生になると車も持つようになったからドライブに行ったり。
試験前はコピー機の前に長蛇の列ができ、持ってない資料を持ってる友達にコピーを頼んだりしてひたすら資料集め。
当時はコンビニがなく、あるとすれば午後10時に閉まるオレンジハウスくらいでしたので、10時前にはオレンジハウスに人だかり(笑)
なんとか試験をクリアして、そのあとみんなで宅飲み。
我々の時代はお店に行って飲むということはほとんどなく、お酒とお菓子を友達の家に持ち寄ってそこでみんなで集まってワイワイ騒ぐという時代でした。
行くのは当然車。お酒がなくなったら、あまり酔ってない人が運転してお酒を買いに行くという、なんとも緩い時代でした。
下手したら、次の日の朝の授業は友達の家から行くということもやってましたね、低学年の頃は。
だけど、後期入試でギリギリで入った私ですが、試験の成績は自分で言うのもなんですがそこまで悪くなかったです。
2年の頃かな?解剖学のラテン語のテストで100点を取った4人のうちの一人に入りましたから。
あれは誇らしかったですねぇ。
解剖学はとにかく楽しかったです。
人体の名前を覚えるのなんて楽しくて楽しくてしょうがなかった。
全ての組織に名前があるんだという感動と、まさにこういう勉強がやりたかったんだという喜び。
その知識は今でもとても役に立っています。
出雲は、同学年で一人を除く全員が車を所有していました。
その一人の女子も、同級生の彼氏が車を持っていてずっと一緒に生活していたようですのでほぼ所有していると同じでしょう(笑)
それくらい、車がないと不便な場所でしたね。
まあ都会の医学部生からは考えられないことかと思います。
あとは、山陰も実は意外と雪降って積もるんですよね。
ですので、毎シーズンスタッドレスタイヤに取り替えて、スキーなんかに行く時には途中でチェーンを付けたりすることなんてことは日常でした。
医大生の家の前にタイヤが4本積んであるのは当たり前の光景でした。
私の頃は3年の春から解剖実習が始まりました。
ですので3年生はあまり部活に参加できません。
解剖実習は結構遅くまでやってましたし、その後の口頭試問や試験に備えての勉強もやってましたので、なかなか5時に集まっての部活ができませんでした。
ですが、あれもものすごくいい勉強をさせてもらいました。
医学部に入らないとあんなふうにご遺体を解剖できませんもんね。
実際に教科書で見てる2次元の知識を、3次元的に理解できる、とてもありがたい講義でした。
だけどそれでドロップアウトした同級生もいました。
やっぱり100人いれば一人はダメな人もいるんだなと思いましたね。
私は全然平気でしたけど。
次に続く