ご拝見いただきありがとうございます。


龍馬伝 「命の値段」 

多くの見どころの一つでした。


武術に優れ江戸に出て
その腕を一層磨き
師範代を務めるまでになる。
ところがある晩、
酒を飲んでの帰り道に拾った
金時計を酔った勢いで一緒にいた友人と
共謀し時計屋に売ってしまい窮地に追い込まれる。
龍馬の助けを得て江戸を脱出。

東北各地を流れ回った末、
函館に落ち着く。
そこでは持ち前の剣術の腕が功をなし、
それがきっかけとなって道場を開くと
町の名士たちとも親交を持つようになる。

宮司の沢辺悌之助に請われて娘の婿養子となり
以後、沢辺姓を名乗る。

既に開港していた函館にはロシア帝国の
領事館があり附属聖堂の管轄司祭として
来日していたロシア正教会のニコライ神父
(ニコライ大主教)は日本宣教の機会を窺いつつ
日本の古典文学や歴史を研究していた。
領事館員の中に子弟に日本の武術を学ばせたいという者がいて
その指南役となり領事館に出入りするようになった


東京・駿河台にあるニコライ堂。
建立に山本琢磨も協力しました。
時計事件後、放浪の末に山本琢磨は、
函館でロシア聖教伝道のために来日していたニコライ神父と出会います。
過激な攘夷派の志士だった山本琢磨は、神父の崇高な教えに感銘を受け、
自ら刀を捨てました。
各地での布教活動に貢献し、ニコライ堂の建立にかかわった山本琢磨
波乱に満ちた80年の生涯でした。


ニコライ堂へ
JR「御茶ノ水」下車、徒歩2分
東京メトロ千代田線「新御茶ノ水」下車、徒歩2分



東京散歩へようこそ

当時、土佐藩の若者は浜川砲台に配置され
土佐藩品川下屋敷から浜川砲台へ通った。
立会川沿いの土佐藩品川下屋敷跡と浜川砲台跡を結ぶ道は
現在も商店街として残っている。


龍馬伝 第5回「黒船と剣」 あらすじ


1854年ペリーが浦賀に再来航を受け幕府は各藩に江戸湾の警備を命じた。

龍馬も品川沿岸の警備に駆り出される
龍馬は浦賀沖に停泊している黒船を見るために陣を抜け出す。
浦賀への道中、桂小五郎と出会い、二人は黒船を間近に目撃することになる。
刀では敵わない圧倒的な西洋文明の力を見せつけられ、
龍馬は剣術修行を続けることに疑問を抱き始める。

幕府が諸藩に異国への対応について意見を求める。
土佐では武市半平太や弥太郎が藩へ意見書を提出し、
武市は評価される。

剣術修行を続けるべきか思い悩んだ龍馬は桂を訪ねる。
桂も黒船に対して日本のとるべき道を考え悩んでいた。

浜川砲台跡への行きかた

上野恩賜公園 の見どころ


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西郷隆盛銅像

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西郷隆盛と龍馬も1864年に出会ったと

伝えられています。
龍馬は初めて西郷と会った時の感想を、師の勝海舟に次のように語りました。


「西郷というやつは、わからぬやつでした。釣り鐘に例えると、
小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし、バカなら大きなバカで、
利口なら大きな利口だろうと思います。ただ、その鐘をつく撞木が小さかったのが残念でした」

西郷を「釣り鐘」に、龍馬自身を撞木(しゅもく)に例えている。
いかにも坂本龍馬の言葉であると言えそうです。
 
龍馬は土佐藩を脱藩していた一介の浪人です。
対して西郷は薩摩藩を代表する人物です。
大藩の重臣であれば
浪人の龍馬の言葉に簡単に耳を貸すことはなかったことでしょう。

しかし、西郷は龍馬の言葉をすんなりと受け入れました。
これは西郷が龍馬に対し、絶大なる信頼感を持っていたからです。
こうして1866年1月、薩長同盟が締結されました。
最初の出会いから一年余りで
二人は薩長同盟という大仕事を成し遂げたのです。


いよいよ幕府と薩長が戦争になった際
妻を西郷家に預けておけば、
自分は何の心配も無しに働くことが出来る
と手紙で姉に述べている。

いかに龍馬も西郷のことを信頼していたのかが、よく分かると思います。
西郷と龍馬二人は厚い信頼感によって固く結ばれ
幕末という激動の時代を生き抜いたのです。

今日も暖かかったですね!


公園へ行こう!

旧岩崎邸庭園


竣工 1896年(明治29年)
所在地 東京都台東区池之端1-3-45
旧岩崎庭園内


東京散歩へようこそ



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土佐の地下浪人岩崎弥次郎

と美和の長男として生まれた。


地下浪人とは、郷士の株を売ってしまって浪人をしている者のことである。

幼い頃から文才を発揮し藩主の山内豊熈にも漢詩を披露し才を認められる。

学問で身を立てるべく江戸へ遊学し安積艮斎の塾に入塾するが、

弥次郎の酒席での喧嘩により投獄された事を知り帰国。

父の冤罪を訴えたことにより弥太郎も投獄される

獄中で同房の商人から算術や商法を学んだ


出獄後は吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、

後藤象二郎らの知遇を得る。


土佐勤王党の監視や脱藩士の探索などにも従事していた弥太郎は、

吉田東洋が暗殺されるとその犯人の探索を命じられ、

同僚の井上佐一郎と共に大坂へ赴く。

しかし、必要な届出に不備があった事をとがめられ帰国した。


この直後、大坂に残っていた井上は岡田以蔵らによって暗殺され、

弥太郎は一命を取り留めた。

弥太郎は、尊王攘夷派が勢いを増す京都での捕縛業務の困難さから

任務を放棄し、無断帰国したともいわれる。

帰国後、弥太郎は長崎での藩費浪費の責任なども問われ役職を辞した。


1867年後藤象二郎に長崎留守居役に抜擢され、

藩の貿易に従事する。

坂本龍馬が脱藩の罪を許され海援隊が土佐藩の外郭機関となると

隊の経理を担当した。


弥太郎と龍馬は不仲であったとも言われるが、

龍馬と酒を酌み交わす交流があった様子を日記に記している。


明治元年長崎の土佐商会が閉鎖されると

大阪商会に移る。

2年後1869年10月大阪商会は九十九(つくも)商会と改称

弥太郎は海運業に従事する。


廃藩置県後の明治6年に後藤象二郎の肝煎りで土佐藩の負債を肩代わりする

条件で船2隻を入手し海運業を始め、

現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷

に九十九商会を改称した三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)を設立。

三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となる。

この時、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて

三菱のマークを作ったことはつとに有名である。


鎌倉から放射状に複数のルートがあった。


正確なルートが判明しない箇所もあるが、


旧鎌倉街道、鎌倉街道跡などと呼ばれる


道路が現在も各地に残っている。

上道(かみつみち)と呼ばれている道筋は、


この道は「武蔵路」とも呼ばれ、

鎌倉から化粧坂を越えて境川左岸沿いに北上し

瀬谷(横浜市)、原町田・本町田、多磨、武蔵府中(東京都)


堀兼(埼玉県狭山市)を経て入間川に至り、

入間川付近で上野国方面に向かう上道上野線と下野国方面に向かう

上道下野線に分岐する。


高麗川を渡り埼玉県入間郡毛呂山地には

大地に上がる部分をに切り通し(西大久保の切り通し)

が100m残されてます。


東京散歩へようこそ

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上野線は下野線と分かれてからは

笛吹峠・菅谷(埼玉県比企郡嵐山町)
・児玉(埼玉県本庄市)を経由して上野国に至り、

信濃国に向かう道である。

NHKのブラタモリ見ました。


万世の最上階から見た風景とか
懐かしかったです。


ジャンパラ4の前の少し下にある公園が昔の運河の跡とは知らなかった。


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昭和通りと中央通りを結ぶ小さな道路。

再開発が本格化するまでは

駅と電気街を結ぶ重要な道路でした。


古くから秋葉原を利用する人たちにとっては

馴染みの深い道かもしれません。


最近は開発も進み、景観もかなり様変わりしてきました。

この通りに、橋を思わせる構造物がありました。

ここには以前、橋が架かっていたのです。


東京散歩へようこそ

過去をふりかえらない街、秋葉原なんだって


岩本町方面から昭和通りを左折してすぐの場所に橋の遺跡が残っている。



車での行き方



首都高速都心環状線・神田橋I.C.で降りて本郷通りを500m程北上


小川町交差点右折

→靖国通りを500m直進
→須田町交差点を左折
→中央通りを直進
→200mで秋葉原着。


本町I.C.で降り昭和通りを北上→(上野方面)1000mで秋葉原電気街着。


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千葉周作道場跡は都営地下鉄岩本町A1出口から

靖国通りを首都高速方面に20メートル。

交番ありそこから右斜め後方の

一方通行を20メートルほど進み右手に学校跡地(千桜小学校)

フェンスの向こうに玄武館跡。

フェンスは自由にあけて中をみることができます。



NHK大河ドラマ龍馬伝( 福田靖 脚本)

ドラマでは千葉佐那(貫地谷しおり)は

江戸に剣術修行に来た龍馬と出会い、

しんしに剣に向かう龍馬の姿に思いを寄せていく

しかしドラマは歴史事実に基づいて描かれてますが

あくまでフィクションであります。

ドラマや小説で描かれない部分の龍馬の人生を

振り返りたい。



千葉定吉の二女佐那子は当時16歳、龍馬は18歳で、


入門直後二人は手合わせしたが小太刀免許皆伝の佐那子に

龍馬は歯が立たなかった。


小太刀に優れ、美貌で知られ「千葉の鬼小町」と呼ばれたという。

北辰一刀流桶町千葉道場に学びに来ていた

坂本龍馬と知り合い、後に婚約を交わしたとも

結婚したとも言われてます。


しかし龍馬はしだいに国事に奔走するようになり

活動範囲が西日本になってゆく

佐那子は江戸で龍馬の帰りをじっと待ったが


なかなか会えないばかりか龍馬はお龍と出会いそして結婚。

日本で初めての薩摩の温泉へ新婚旅行へでかけてる。


そのあいだも佐那子は待ち続け、そればかりか

龍馬の暗殺後も彼を想い続け、一生を独身で過ごした。

維新後は学習院女子部に舎監として奉職した後、

千住にて家伝の針灸を生業としてすごした。

佐那子は1896年(明治29年)59歳でひっそり亡くなっている。

いったん東京の谷中霊園に葬られるが


東京散歩へようこそ
東京散歩へようこそ

身寄りがなく無縁仏になるところ、

山梨県の民権運動家として知られる小田切謙明が哀れみ、

小田切家の墓地のある山梨県甲府市朝日5丁目の

日蓮宗妙清山清運寺に納骨されたという。


墓石には『坂本龍馬室』と彫られている。

「室」とは妻のことであります。




東京散歩へようこそ


東京散歩へようこそ


東京散歩へようこそ


早速ですが坂本龍馬のゆかりの地に立ち寄ってみました。


1853年3月、江戸に着いた龍馬は千葉定吉の道場の門を叩いた。
龍馬が宿舎とした土佐鍛治潘橋潘邸は

現在の東京国際フォーラム(有楽町)あたりにあったので土佐潘の多く
の者は千葉定吉の道場へ通った。

のちに龍馬は、千葉定吉の家に住み剣術の稽古に明けくれたと言われています。

定吉は剣術の腕もさることながら経営の才能もあり江戸にの有名道場となる。
玄武州館道場は門人が三千人になり移転した。
当時の屋敷は大名屋敷ほどの広さであったそうです。


龍馬が修業したその道場の跡です。