F9の雑記帳 -75ページ目

『遠藤周作短篇名作選』




 遠藤周作『遠藤周作短篇名作選』(講談社文芸文庫)を読みました。
 大学生の頃、遠藤周作のエッセイ数冊と『深い河』等のキリスト教に絡んだ本を何冊か読んでいた(ただし、中間小説はほとんど読んでいません。)ので(?)、この本も刊行当時に買っていたのですが、この本も長い間「積ん読」状態にしてしまっていたのを、先日本の山を切り崩して引っ張り出し、やっとの事で読んだ次第です。
 以下に感想(めいたもの)を書いておきます。
・「シラノ・ド・ベルジュラック」:フランスに留学していた“私”が、フランス語を習っていたウイ先生のアパートの部屋で見つけたシラノ・ド・ベルジュラック自身の手記の複写を中心に物語が進むのですが、手記が本物ならウイ先生に真実の姿を隠す権利があるのか、書物としての『シラノ・ド・ベルジュラック』よりも“生きている”(29頁)と主張する“私”と、事実であったとしても「事実は文学と何の関係もない」(29頁)とするウイ先生の立場の違いが個人的には印象に残りました。そして、ウイ先生に関するある事実が書かれた後、一人の酔っぱらいが私にぶつかった後叫んだ「ああ、生活なんて詰らねえなあ」(30頁)と言う言葉も胸に残りました。
・「パロディ」:主人公の妻に対する結婚後二年半の思いが書かれているのですが、妻の精神的・肉体的変化及びそれに対する主人公の思い(この小説では“秘密”としてあります。)が(僕は結婚をした事もないのに)胸に迫ってきて、複雑な気持ちになりました。男性は女性の変化についていけないものかもしれない…。そして、読み終えてタイトルも秀逸だなあと思いました。
・「イヤな奴」:戦争中、キリスト教のある団体が信者の子弟のために作った寮に下宿している主人公の江木が、団体の行事として行われるハンセン氏病の病院愛生園へ(他の下宿仲間と一緒に)訪問した際の出来事を中心に物語が進むのですが、現実主義的な飯島や博愛主義で理想主義的な大園等、個性がはっきりした登場人物が配置されている事もあり、(オロオロしたり、衝動的に行動しようとした)江木の行動や心理が十分理解できました。同じ状況下なら、僕も“イヤな奴”になるだろうと思われてなりません。しかし、最後の場面で物凄く悲しくなりました。ああ、ハンセン氏病患者の台詞、「お行きなさい、触れませんから。」(78頁)読んでいて、泣いてしまいそうでした。
・「あまりに碧い空」:人が死ぬと言う事に対して、戦争を経験している人は、戦後の自由な中で生きている人々と違う感覚を持っているのだと言う事を(小説の中ではありますが)改めて思い知らされた気がしました。主人公の記憶の中にあるテニスコートにいた少女。主人公に去来する嫌悪感…。
・「その前日」:主人公の三度目の肺の手術の前日の出来事と、(キリスト教弾圧の最後となった)浦上四番崩れの際の(僕は調べていないのでよく分かりませんが、恐らく架空なんだと思います。)藤五郎と言う男の姿が交互に描写されていくのですが、踏絵云々の内容も含んでいるので、読んでいて神の赦しについて考えてしまいました。もっとも、男女が呻きながら抱き合う事と、(踏絵の)銅板のキリストの顔と人間の肉が触れ合う事に「不思議な相似がある」(116頁)なんて、僕は考えも及ばないのですが。
・「四十歳の男」:遠藤周作のエッセイに出てくる、三度目の肺の手術の前に飼い始めた九官鳥が、手術が終わった後死ぬと言うエピソードが元になっている話ですが、途中で遠藤周作の一部を投影させている主人公能勢と妻の従妹の康子の不倫、中絶と言う展開がある事で、エッセイとは別の角度の光が当たり、(最後の能勢の「いや、ちがう。」(148頁)の台詞も含めて)別の意味が出ているのだなと思いました。贖罪…。
・「影法師」:小説家である主人公が、彼の人生に影響を与えたかつてキリスト教の司祭だった男に宛てた手紙を書く事で物語が進んでいくのですが、(戦争中の外国人神父の強制疎開の記述を含めて)主人公を強くしようとしたかつての姿と(小説上の)「犬の悲しい眼と同じ眼をする人間になった」(188頁)現在の姿を描いていて、人間はいつでも強者から弱者になりうるのだと言う事について考えさせられました。そんな人物だからこそ、小説に描こうとして苦しまざるを得ないのだな…。
・「母なるもの」:小説家である主人公が、隠れキリシタンの人々の住む地域を訪問した際の出来事を、主人公の母の思い出とともに描く事で物語が進み、主人公の母に対する仕打ちに苛立ったり、隠れキリシタンの人々の住む地域に向かう道中及び地域の描写が興味深かったりしたのですが、(隠れキリシタンの人々の信仰が)「もっとも日本の宗教の本質的なものである、母への思慕に変わってしまったのだ」(233頁)と言う部分と、「母はまた私のそばに灰色の翳のように立っていた」(233頁)と言う部分を読み、信仰については改めて考える必要があるなと思いました。そして、個人的には最後の場面で、やや不穏ではありましたが、救われた思いがしました。
・「巡礼」:幼い頃に洗礼を受けた主人公矢代のテルアビブへの旅及びその前後を書いていて、「聖地巡礼団」と言った人々や八代に西尾と言う神学者が出てきたりするのですが、自身の信仰に疑問を持ち、かつて「一九の膝栗毛に出てくる」(247頁)人間になろうとした主人公の気持ちが、読んでいて何となく分かる様な気がしました。
・「犀鳥」:小説家の語り手が、ある事がきっかけで犀鳥を飼うようになる話なのですが、遠藤周作の子供の頃の飼っていた犬のエピソードや、「四十歳の男」にも出てきた九官鳥のエピソード等(あと、山で猿に詳しい人物と出会い付き合いを始めたりもするのですが…。)を絡ませる事で、もっと単純な話で終わるだろうものが、ある意味散文詩的な味わいを持った小説になったのではないかと感じました。ただ、背教した宣教師と犀鳥が、こんな形で結びつくとは思わなかったです。
・「夫婦の一日」:“若いお手伝いさんの死去、主人公の鼻の手術と続いたので、主人公の妻が占ってもらい、その結果鳥取へ行く事になり…”という話なのですが、キリスト教の信者であるがゆえに、終始不機嫌である主人公と、占い師の言う事を(幼い頃の経験も踏まえてかもしれませんが)素直にやり遂げた妻との対比が読んでいて面白かったです。また、終盤になって主人公に起こる気持ちの変化と妻の笑いも、少し書き方は皮肉めいていますが、印象的でした。
・「授賞式の夜」:文学賞を受けた主人公の受賞パーティーでの様子が中心に書かれているのですが、個人的には主人公の見る夢(縄がよく出てくる)に対しての解釈や彼を診療した医師との対話が興味深かったです。また、終盤になって、主人公のなかなか治まらなかった吐き気の意味が漸く分かりました。自分が変わる事…。
・「天国のいねむり男」:居眠りばかりしている(←そのために、イエスの弟子なのに聖書に名が載っていないと言う)ズボラが、天国から東京にやってきて、東京の様子を見て回るのを中心にして物語は進むのですが、ズボラが友達になろうと声をかけても不審がる子供や、塾に行かないといけない子供達が登場して、現代社会をある程度反映しているなあと思った反面、「今までの話は夢でした〜。」で終わるのはどうなのかなと思いました。まあ、童話(のようなもの)だから仕方ないのかな…。

『断髪女中』



 獅子文六『断髪女中 獅子文六短篇集 モダンガール篇』(山崎まどか編、ちくま文庫)を読みました。
 随分長い間“積ん読状態”だったのですが、長篇小説も読む気になれないので、本の山から引っ張り出して、漸く読んだ次第です。収められている16篇の小説はどれも新鮮で面白かったです(特に最後が見事だなと思う小説が多かったです)。
 以下に感想(めいたもの)を書いておきます。
・「断髪女中」:ページを捲ったら最後、グイグイ読み進めてしまった上、「本多さんの家」に来た女中のアケミの理路整然とした話にし方にすっかりやられてしまい、読み終えた後で冒頭に置くに相応しいなと思いました。ただ、理想的すぎる人はそうそういないとは言え、結末はちょっと…。
・「おいらん女中」:後に金融会の大物になった主人公上原英一郎の妻イト子と、大学時代に吉原で馴染みの花魁だったお倉との目に見えない絆に少し胸が熱くなりました。
・「見物女中」:主要な登場人物なのにも関わらず、語り手の妻を亡くした作家の家の女中となった富沢エツ子に腹が立ちました。「働き振りは、素晴らしかった」(67頁)のは確かでしょうが、そんな目的のためだったのか…。
・「竹とマロニエ」:ある洋館を借りたフランス人のアンドレ・シャルパンチエと、家で孫を世話するだけでは物足りず、洋館で女中をすることになったお竹との関係が何だか羨ましかったです。それと同時に、この関係を、極端に肩入れせず適度な距離感で描ける獅子文六も凄いなと思いました。
・「団体旅行」:最初はやや不穏な空気だったのに、正反対の結末を迎えて驚きました。と同時に、“並木平助君、行きたくなかった団体旅行だったけれど、大貫キヨ子さんと出逢えて良かったなあ。”と思えて、嬉しかったです。所詮、食わず嫌いは駄目と言う事ですね…。
・「明治正月噺」:読み終えて、軽くショックでした。最初は「カルタ会の話か…。」と呑気に構えていたら、まさかあの小説に繋がるとは…。
・「探偵女房」:箪笥の下から偶然出てきたお金の出処を、主人公の妻は上手く推理したなと思っていたら、終盤にまるで違う展開が待っていて楽しかったです。ああ、そうきますか…。
・「胡瓜夫人伝」:『キュウリー夫人伝』を読んだ主人公の妻万里子の変貌ぶりに驚かされて、これで終わりかと思っていたら、終盤でドンデン返しが待っているとは…。読み終えて笑ってしまいました。あと、タイトルも内容にマッチしていて楽しかったです。
・「仁術医者」:夫の罹った病気について調べず、勘違いする青木の妻はどうかと思いましたが、主人公の千田医師の青木が罹った病気への対応が何だかおかしくて、面白かったです。確かに、(罹った事ははないですが)お互い愛し合っていないと、罹りやすい病気かもしれない…。
・「愛の陣痛」:とにかく働く「流線型機関車みたいな」(206頁)の様な柏木泰三に対する妻ユリ子の行動が少しも夫に理解されないのが可哀想でしたが、最後の最後で笑ってしまいました。上手い。愛から出た行動、言葉じゃないんかい!
・「遅日」:主人公子ノ助が初恋の相手の(共産党に入党している、20歳以上年上の)赤松英子に会いに行く話なのですが、誤解され目的が果たせず引き下がる子ノ助は純粋だなと思う一方で、予科練で同じ分隊だった若林の現実主義的な態度に少しクラクラしてしまいました。
・「呑気族」:三軒長屋の一軒に外国人の女性についての話ですが、題名通り確かに呑気な人々が出てきたりしはしたものの、後半はシリアスな内容で読んでいて緊張しました。そして、最後は上手いなと思いました。
・「沈黙をどうぞ!」:パリに留学している片井石夫と、彼の借りている下宿の隣室に住んでいる女の、立場が逆転するのが面白かったです。あの女性も、相当寂しかったんだろうな…。
・「谷間の女」:時代時代によって、人の幸せの感じ方が変わると言うのを、改めて考えさせられました。確かに、戦後に結婚した女性と大正時代に結婚した女性とでは、感じ方が違っても無理はないだろうな。ましてや、現在とではなおさら違う…。
・「写真」:結婚もせず、「オールド・ミス」(314頁)になってしまった主人公の尾関ツナ子の行動の描写は読んでいて驚きましたが、最後の「礼拝ということの意味を、ほんとに覚ったのではないでしょうか。」(321頁)と言う言葉が、胸に響きました。
・「待合の新味」:友人が亡くなり、彼の馴染みの芸妓を訪ねて初めて待合に行くと言う、語り手の若き日の思い出を書いていて、待合での出来事も読んでいて面白かったですが、終盤で予想外の展開が待っていて、印象に残りました。

「少女を埋める」



 桜庭一樹「少女を埋める」(『文學界』2021年9月号所収)を読みました。
 まず、主人公の父の死が近くなり、戻った故郷鳥取での日々、そして東京へ戻ってからの日々を描いた私小説で、主人公の母親を中心に描写しているのですが、桜庭一樹の小説を初めて読む人に相応しい小説ではないなと思いました。
 次に、人に見えないところで主人公に暴力を振るい、主人公の見合い相手に「暴力を振るっていた事は絶対に言わないで。嫌われたくないの。」(54頁)と頼む母親と言うのも(他の描写も含めて)凄いなと思いましたし、宮司だと言う主人公の見合い相手もなかなかだし、たまたま乗って連絡先を交換したら、しつこくメールしてくるタクシー運転手等、登場人物の一部がかなり強烈で、読んでいて驚く場面が多かったです。
 まあ、主人公の父親があまり怒らなかったと言う描写にややホッとしたりもしたのですが。
 更に、主人公の考察や主張が読んでいて興味深かったです。故郷、共同体、個別性、そして「共同体は個人の幸福のために!」(72頁)…。