F9の雑記帳 -23ページ目

「七月三十一日晴れ」





 今村夏子「七月三十一日晴れ」(『新潮』2024年10月号所収)を読みました。
 この小説には、紀伊水道に面する港町で60年前から営業している観光ホテル「花海峡」に三十三年勤務している主人公の小山康代と、花海峡に正社員として採用されて(彼女と同じ)従業員用アパートに住む事になった藤野ありさの二人の日常が、小山康代の若かりし頃の楽しかった幾つかの思い出や藤野ありさの元彼氏が彼女を追って騒動になる事態その他を絡めて書かれているのですが、小説の中での出来事は本当に大変そうで心はそれなりに動いたものの、最初から最後まで妙に安心して読み終える事が出来たなと感じました。
 そして、小説の序盤では他人と口を利かなかったのに、最後には(花海峡の次期社長になると言う)あきら専務と付き合っているところを小山康代に目撃されてしまう藤野ありさは何だか凄いなと思いました…。

『親切の人類史』





 マイケル・E・マカロー『親切の人類史 ヒトはいかにして利他の心を獲得したか』(的場知之訳、みすず書房)を読みました。
 先日近所の図書館で見つけ、本の題名に惹かれて借りてきて読み始めたのですが、進化や利他行動に関するいくつかの理論を検討する第一章から第六章までは自分自身の知識のなさを痛感させられ、読み進めるのが少し苦しかったです。
 ああ、ダーウィンは本当に偉大だな…。
 ですが、「人類が途方もない苦しみに直面した七つの局面」(153頁)と「困窮する他者に対する私達の態度に起こった大革命の数々」(153頁)を論じる(「孤児の時代」「思いやりの時代」「予防の時代」「第一次貧困啓蒙時代」「人道主義のビッグバン」「第二次貧困啓蒙時代」「成果(インパクト)の時代」とそれぞれ題された)第七章から第十三章はどの章も読んでいて面白く内容に納得させられっぱなしで、(本来なら自分に怒るべきなのでしょうが)先の第一章から第六章までよりも読み進めるのが若干楽でホッとしました。
 そして、「理性が導き出す思いやりの理由」と題された第十四章は「さまざまな知見を、他人への親切に関するひとつの首尾一貫した説明へとより上げるため」(345頁)の章なのにも関わらず今までの読書経験が生きたのでしょうか、先の第七章から第十三章を読んだ時と同様に読んでいて面白く、終盤の“他者への思いやりの未来”の部分で「この先わたしたちの思いやりの能力がどんな試練に直面するかを、ある程度推測することができる」(366頁)と書かれている試練の数々の言及には見事に納得させられてしまいました。
 ああ、(この賞の内容と直接に関係する訳ではないので何だか恐縮ですが)「理性の力は、みんなで考えれば、もっと強くなる」(357頁)し、「個人の生活のなかでも公共空間に置いても、わたしたちが重要と考えることがらについて、論理的思考と議論を歓迎する環境を維持することが重要なのだ」(372頁)な…。

『イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ』



 レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ『イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ』(望月哲男訳、光文社古典新訳文庫)を読みました。
 この本に収められた2篇の小説はどちらもその内容が身に迫ってきて、読み終えて「(僕には)今が読むべき時期だったのかもしれないな」と思いました。
 以下、それぞれの小説に関する感想(めいたもの)を書いておきます。

・「イワン・イリイチの死」:いくら控訴院判事イワン・イリイチにモデルがいたり、作者の死生観が盛り込まれていたとしても、第2章以降の彼の死に向かう過程の描写は迫力があり、死の瞬間が近づくにつれ生への懐疑が強まっていく部分等、読んでいる途中で何度となく頷いたり声を上げてしまいました。ああ、死を迎える人の心理は(その変遷も含めて)この小説での描写が一番近いのかもしれないですね…。あと、個人的には台所番のゲラーシムのイワン・イリイチに対する優しさと、(それとはあまりに対照的な)イワン・イリイチの妻であるプラスコーヴィヤ夫人の夫に対する思考や態度が比較的強く印象に残りました。

・「クロイツェル・ソナタ」:汽車の中で地主で貴族の男が語る嫉妬から妻を刺し殺してしまった話は、僕は語り手が組み立てて(彼の中で)ある意味普遍化した思想の内容や話自体の内容等により終始僕を圧倒しましたが、読んでいる途中で「イワン・イリイチの死」を思い出してしまい、状況等は違うとは言え)死がテーマだから似ている部分があっても仕方ないのかなと思いました。しかし、聞き手の男も語り手のエネルギーを受け止めた上で軽く質問までしているのだから、相当忍耐力があるんだな…。あと、巻末の解説(345頁)を読んで、僕もこの小説をチェーホフと同じ感じで読んだ(「読みながら『そのとおり』とか『ばかな』とか叫び出すのをやっとのことでこらえていた」)のを知り安心しました(?)。