子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -18ページ目

 

 

沖縄の戦地より妻へ

陸軍中尉 渡辺研一 命 29歳

昭和20年5月27日(「英霊の言乃葉」靖国神社より)

 

「まだお便りする機会は幾度かありましょう。しかし、時機はいよいよ迫りつつあります。

 

それが何時であるかはもとより、予測することはできませんが、おそらくは、あなた達の予想外の速さでやって参りましょう。

 

その時の来ない中に、言うべき事は言っておきたいと思います。しかし、いざペンを取ってみると今更ながら申すことのないのに気がつきます。

 

今の私は強くあらねばなりません。寂しい、悲しいというような感情を振り捨てて与えられた使命に進まなければならぬ立場にあるのです。

 

ただ、一切を忘れて戦って戦って戦い抜きたいと思います。不惜身命、生きる事はもちろん、死ぬことすらも忘れて戦いたいと念じております。

 

南海の一孤島に朽ち果てる身とは考えずに、祖国の周囲に屍の砦を築くつもりでおります。

 

何時かはあなた達の上に光栄の平和の日が訪れてくることと思います。

 

その日になって私の身をもって尽くしたいささかの苦労を思いやってくだされば、私たちは、それで本望です。

 

愛する日本、その国に住む愛する人々、その為に吾等は死んでいくのだと考える事は、真実愉しいものです。

 

運命があなたにとっての良き夫足ることを許さなかった私としては、そう考える事によって、あなたへの幾分の義務を果たし得たような安らかさへ覚えます。

 

一度戦端が開かれれば、一切の手段をつくし最善の道を歩むつもりです。

 

万一のことがあった際、たとえ、一切の状況が不明でもあなたの夫はこのような気持ちで死んでいった事だけは、

 

そうして最後まで、あなたの幸福を祈っていた事だけは、覚えていていただきたいと思います。

 

その後、体調は相変わらず、すこぶる好調です。いつもながらご自愛を祈ります。」

 

参考図書

「英霊の言乃葉」靖国神社

 

参考動画

知覧鎮魂の賦(俺は、君のためにこそ死にに行く より)

 

 

 

韓国では、日本の軍艦島において、多くの朝鮮人が強制連行されて奴隷同様に労働させられた、と訴えています。

 

実は、朝鮮人労働者は、日本の大卒以上の賃金ももらい、朝鮮へ仕送りまでしていました。

 

また、嫌で逃げたければほとんど自由に逃げることもでき、自由労働者として日本各地に住み続けていました。

 

さらに内地人(日本人)と同様の居住環境で生活していました。

 

韓国の児童用絵本には次のように描かれています。

 

「戦争を引き起こして狂気の沙汰であった日本は、朝鮮半島から幼い少年達まで強制的に日本に連行した。

 

目的地も告げられずに連れて行かれた先は軍艦島であり、千mの地下に潜って毎日12時間働かされた。

 

12歳の少年は鉄格子のおりに監禁されて犬のエサよりひどいおにぎりを食べさせられた上、むち打たれながら作業現場に連行された。」(「軍艦島ー恥ずかしい世界文化遺産」)

 

戦時中の内地(日本本土)の炭鉱には、青壮年の朝鮮人しか働いていなかったので、12歳の少年が強制的に働かされた事実はありませんでした。

 

昭和15年の日本の主要な鉱山四十六箇所の平均月額は、以下の通りとなります。

 

賃金:71円95銭(100%)

貯蓄:13円37銭(18.6%)

朝鮮への仕送り:24円84銭(34.5%)

食費:15円24銭(21.2%)

差額:18円50銭(25.7%)

(「半島人労務者に関する調査報告」日本鉱山協会編 昭和15年)

 

実際の賃金は、この金額に各種手当がついており、150円から180円であったようです。

 

当時の巡査の初任給は月45円、事務系大学卒初任給が月75円、上等兵以下の兵隊の俸給が月10円弱の時代でした。

(「朝鮮人強制連行はあったのか」岡田邦宏著 2003年)

 

賃金から貯蓄、朝鮮への仕送り、食費が差し引かれて手取りで、毎月18円50銭も残りました。

 

では、朝鮮人労働者と内地人(日本人)労働者との間で賃金格差があったのでしょうか?

 

「朝鮮人労働者の処置については、できうる限り内地人労働者との間に差別なからしむる」

(「朝鮮人労働者内地移住に関する方針」及び「鮮人内地移入斡旋要項」より)

 

具体例として、明治鉱業の赤池炭鉱では以下の通りとなります。

 

採炭夫 4円82銭(朝鮮人)、4円82銭(日本人)

差額 0銭

仕繰人 4円60銭(朝鮮人)、4円80銭(日本人)、

差額 20銭

(昭和20年1月から7月の一日あたりの平均賃金)

 

このように日本人と朝鮮人との間で賃金格差はほとんどありませんでした。

 

では、居住環境はどのようであったのでしょうか?

 

北海道の炭鉱では、家族持ちには、1戸あたり8畳から6畳程度の社宅が無償貸与され、日本人と朝鮮人が混住させる場合と、朝鮮人だけの区域を設ける場合がありました。

 

独身者には寮が与えられて、8畳から21畳くらいの部屋に雑魚寝で、一人当たり1畳半から2畳程度の広さがありました。

(「北海道と朝鮮人労働者」朝鮮人強制連行実態調査委員会編 平成11年)

 

これは当時の日本内地の炭鉱の住み込み寮としては、平均的なものでしたし、日本人と朝鮮人の間に格差はありませんでした。

 

逃走はできたのでしょうか?

 

朝鮮人専用住居の周囲に、有刺鉄線が張り巡らされていた事実はなく、監視塔(望楼)が設置されていた事実もありませんでした。

(「北海道と朝鮮人労働者」朝鮮人強制連行実態調査委員会編 平成11年)

 

もし、朝鮮人労働者が逃げようとした場合、監視塔から銃撃される心配もなく、有刺鉄線が張り巡らされていない壁をよじ登って、脱走することも簡単にできました。

 

逃亡者の数は以下の通りです。(昭和16年12月までの累計)

移入者:33,155人

逃亡者:5,700人(17.2%)

うち逃亡発見者:1,304人(22.8%)

うち逃亡未発見者:4,404人(77.2%)

(「特高月報」内務省警保局保安課)

 

移入者のうち17.2% の朝鮮人が逃走し、そのうち77.2%の人が逃走に成功しています。

 

事業主は、雇用関係にある逃走者を連れ戻そうとしましたが、それでも80%近くの人が逃走に成功しているので、それほど、取り締まりは厳しくなかったということになります。

 

また、日本内地には当時、約80万人に及ぶ朝鮮からの移住者が住んでいましたので、この在日朝鮮人たちが、同胞である逃亡者をかくまって世話することは容易にできました。

 

このように、朝鮮半島から労務動員されてきた労働者は、逃走して自由労働者として、日本内地に住み続けることが簡単にできたのです。

 

現在、留学生として、旅費交通費と学費と日本滞在費まで日本国が補償して、中国や半島から日本の大学に来てますが、そのうちのかなりの割合の人たちが、大学から逃亡して行方知れずとなっているそうです。

 

戦時中、炭鉱労働者として日本に来た人々が、逃亡して行方知れずとなり、そのまま、自由労働者として日本内地に滞在していた事実と、状況が似ています。

 

一方、シベリア抑留された日本人兵士達は、どのような労働環境だったのでしょうか?

 

捕虜の待遇に関するソ連の国内法では、「捕虜のすべての兵士と下士官にとって”労働は義務である”。」

(「捕虜等の労働使役に関する規定」ソ連の国内法)

 

一方、1929年のジュネーブ条約では「捕虜を労働者として”使役することができる”」と規定されています。

(「捕虜の待遇に関するジュネーブ条約」)

 

ジュネーブ条約では、”使役することができる”と規定されているのに対して、ソ連の国内法では、”労働は義務である。”と規定されました。

 

また、ソ連の国内法では、捕虜が生産ノルマを100%達成しなかったら、賃金が支払われないと規定されました。

 

生産ノルマを達成した日本兵捕虜には、次のような報酬を支払うこととされました。

 

重労働の場合

(賃金ー200ルーブル)x85% ただし、月200ルーブルを上限とする。

 

その他の場合

(賃金ー200ルーブル)x70% ただし150ルーブルを上限とする。

 

この200ルーブルは給養費でした。

 

給養費とは、捕虜自身の食費などですが、シベリア抑留の場合、それだけではなく、収容所職員の給料などの収容所維持費なども含まれていました。

 

ソ連の国内法では、「捕虜は、その”給養費を自らの労働で賄う義務がある”。」と規定されています。

 

これに対して、昭和24年(1949年)のジュネーブ条約の第15条では、抑留国の捕虜給養費について次のように規定しています。

 

「捕虜を抑留する国は、”無償で”、捕虜を給養し、及びその健康状態に必要な医療を提供しなければならない。」と。

(「捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーブ条約(第三条約)」)

 

ソ連は、収容所維持費も給養費として捕虜から搾取していたのです。

 

昭和20年12月のチタ地域における、日本人捕虜への平均賃金は、137ルーブルでした。給養費200ルーブルに満たないので、賃金支払いはゼロでした。

(「チタ州における日本人捕虜(1945年〜49年)」セルゲイ・カラショーフ著)

 

昭和20年11月のクラスのヤルスク地方における、シベリア機械工場の日本兵捕虜への平均賃金は、203ルーブルでした。

 

ここから給養費200ルーブルを控除した3ルーブルに、85%または70%をかけると、支払いはほとんどありませんでした。

(「クラスノヤルスク地方における日本人捕虜(1945年〜48年)」マクシム・スピリドーノフ著)

 

このように、ノルマ達成をあおられながら強制的に重労働を強いられた日本兵捕虜ですが、労働に対する対価としての賃金支払いはほとんどありませんでした。

 

日本兵捕虜の方々は、奴隷同様に扱われてきたのです。

 

シベリア抑留者の居住環境はどうだったのでしょうか?

 

ソ連の捕虜に対する訓令には、次のように規定されていました。

 

・収容所は十分な堅牢さと高さ(2、5m以上)のある”有刺鉄線”による囲いまたは、木製か石製の塀で隔離し、また夜間用の投光地点を設ける。

 

・収容所の囲いはよく見通せるように長方形か正方形に作り、内側5mの所に三層で「警告地域」を設ける。

 

・収容所を監視し警備するため立哨用の”監視塔”を作る。

(「捕虜の給養方法に関する訓令」昭和16年)

 

監視塔では自動小銃を構えた警備兵が24時間体制で立哨しており、捕虜が立ち入り禁止区域に入っただけで、銃撃しました。

 

このように、有刺鉄線や監視塔を設けるなど、ソ連は日本兵捕虜の方々を、”囚人”として扱いました。

 

住居は、バラック小屋の木造平屋建てか幕張(テント)でした。極寒のシベリアでは、拷問に近い環境でした。

 

1畳に2、3人が頭と足を交互にすし詰め状態で寝ていました。また、あまりにも寒いので靴を履いたままで寝ていました。

 

衛生環境は劣悪だったので、シラミと南京虫が繁殖して、腸チフスや赤痢など伝染病にかかって多くの日本兵が死にました。

 

シベリア抑留者は、逃走可能だったのでしょうか?

 

飢餓、極寒、重労働の三重苦から逃れようと脱走を試みた日本兵捕虜の方々もいました。

 

ハバロフスク地方だけで、昭和20年から24年までの5年間で693人が逃走して、うち675人が捕獲されてしまいました。

 

ハバロフスクには、15万人に上る日本兵が捕虜として抑留されていたので、逃走者は1%以下でした。また捕獲率は97.4%ですので、ほとんどの逃亡者が捕まってしまいました。

 

逃亡して捕獲されてしまった日本兵のほとんどは、その場で射殺されてしまいました。

 

捕獲されなかったわずかの日本兵も、一般の日本人が住んでいないようなシベリアの極寒の地で、死亡してしまったのでしょう。

 

日本兵捕虜が逃走すると、自動小銃で武装した追跡隊が派遣されました。逃走者を追跡するのは、収容所の警備兵だけではなく、地元の共産党員などで作られた協力隊でした。

 

よって、地元の民家に助けを求めることは自殺行為となりました。

 

「逃走者の捜索は捕獲するまでやめない」という徹底した捕獲の指示が出されていましたので、日本兵の逃走者のほとんどは、捕まってしまいました。

 

シベリア抑留された日本兵は、”強制的”にシベリア各地の収容所に連行されていきました。

 

有刺鉄線で囲まれ、監視塔で機関銃を持った兵士に24時間監視された中、衛生状態も最悪な環境で、腸チフスと飢えと寒さと重労働に耐えて生き抜いていきました。

 

その多くは、給料をもらうことなく、十分な食料も与えられずに、”奴隷扱い”で重労働をしてきたのです。

 

生きる希望も持てずに。

 

これに対して、朝鮮から内地(日本本土)に来た労働者は、民間企業からの募集や官斡旋を利用した計画的な渡航であり、また、ブローカー(手配業者)などからの勧誘によるものでした。

 

その多くは、田舎の農村から都会への憧れや、よりよい待遇を求めての自発的な転職活動など経済的な理由でした。

 

給料も十分与えられ、朝鮮半島の故郷に送金もでき、住まいも内地人(日本人)と同等であり、逃げたければほとんど自由に逃げて、日本各地で自由労働者として生きていくことができました。

 

参考図書

「軍艦島 朝鮮人は強制労働のウソ」長勢了治著 Will11月号

 

 

 

 

100歳を超えても、水泳で世界記録を続けているおばあちゃんがいます。

 

彼女は、水泳のマスターズ世界大会でメダルをたくさんもらい、世界記録も量産しているのです。

 

彼女の名前は長岡三重子さん。

 

23歳で山口県田布施町の長岡家に嫁ぎ、53歳の時にご主人が亡くなりました。そして、長岡家の家業である藁工品の卸業を継ぐこととなりました。

 

彼女は商売をしたことがなかったのですが、一念発起して、経理や在庫管理など、常に損失を出さないように緊張の毎日を過ごして、会社を切り盛りしてきました。

 

未亡人となってからは、二人の息子さんが、時々、彼女の様子を伺いに実家に顔を出してくれました。

 

55歳から古典芸能である能楽の稽古を始めるようになり、厳しい修行ののち、神戸の上田能楽堂にて「羽衣」という演目で能を舞いました。

 

人間国宝級の人たちが20人もいる中、素人の彼女が舞台で見事に舞うことができました。

 

87歳で耳の具合が悪くなったので、30年以上続けてきた能楽の世界から足を洗いました。

 

生きる希望を失った彼女を後押しするかのように、長男からの強い勧めで、水泳を始めることにしました。

 

始めは、膝を悪くしたので、そのリハビリ目的でした。しかし、88歳の時にニュージランドで行われたマスターズ世界大会に参加。そこで、なんと銅メダルをもらいました。

 

そして、2年後の90歳のときに参加したイタリア大会では、銀メダルを3個ももらいました。

 

それだけでもすごいと思うのですが、彼女はそれだけでは満足しませんでした。

 

次は、金メダルを取りたいと望むようになったのです。そして、通っている水泳教室の社長に頼んで、専属コーチをしてもらうようになりました。

 

そこから、金メダルを目標とした本格的な水泳訓練が始まりました。

 

長岡三重子さん、91歳からの挑戦でした。

 

92歳のときに行われたサンフランシスコ大会では、背泳ぎ200メートルで、念願の金メダルをもらうことができました。

 

94歳で、200m背泳ぎで世界記録を更新。95歳の時に、得意の背泳ぎだけではなく、平泳ぎにも挑戦。

 

95歳からの平泳ぎの挑戦は、股関節を痛めてしまう恐れがあったので、コーチは及び腰でした。しかし、彼女の強い意思に根負けして、平泳ぎの指導を始めました。

 

96歳の時に参加したスエーデン大会では、平泳ぎで金メダルをもらうことができました。この大会では合計で5個の金メダルをもらいました。

 

水泳競技には、短水路(25mプール)と長水路(50mプール)で、それぞれ50m、100m、200m、400m、800m、1500mの自由形と、50m、100m、200mの平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライがあります。(短水路は25mも)

 

年齢も、18歳から始まり、85歳から89歳、90歳から94歳、95歳から99歳、100歳以上、と5歳ごとに区切られています。

 

平成26年7月31日、長岡さんは100歳の白寿となりました。そして、翌年の平成27年4月に松山で行われた短水路1500メートル自由形で、世界記録を樹立。

 

100歳を超えた長岡さんは、合計25個の世界記録保持者となりました。

 

彼女の健康で長生きの秘訣はなんなのでしょうか?

 

彼女は、「目標を持つことが大事」と言います。

 

記録を達成する喜びが、次の動機付けにもなっているようです。

 

また、長男の献身的なサポートを受けていますが、大会で記録更新したりメダル獲得した時の長男の喜ぶ姿が、彼女の生きがいにもなっているようです。

 

100歳過ぎても、寝たきりでも介護を受けることもなく元気で水泳を続けている、長岡三重子さん。

 

しかも、リハビリのための水泳ではなく、世界記録を更新し続けているのです。

 

彼女は、100歳を過ぎても介護保険をもらう側ではなく、保険料を払う側にいます。

 

また、長男のサポートといってもそれは”介護”や”介助”ではなく、親子で目標に挑戦しつづける”成長”のためのサポートになります。

 

彼女は言います。

 

「苦は楽のため、辛いのは良い薬。

楽ばかりしていると、ろくなことはない。」と。

 

足腰が弱くなったからとか、歳をとったからといって隠居や引退することなく、いつまでも挑戦し続けることで、生きる喜びや希望、そして健康までも維持することができているのだな、と思いました。

 

参考図書

「気と骨」平成28年4月号 倫理研究所

 

 

 

 

 

キリストは、約2000年前、ユダヤ人により迫害を受け、十字架にはりつけにされて処刑されてしまいました。

 

その時、ユダヤ人が言いました。「あれを見よ、人を救って己を救えない者よ」

 

キリストは、多くの病人を奇跡的に救ったかもしれないが、キリスト自身は救われないで、十字架にはりつけられて処刑されているではないか、とユダヤ人たちは軽蔑して笑い者にしたのです。

 

昭和16年12月8日以降、日本は、白人から長い間、奴隷扱いを受けていたアジア諸国を救うために戦いました。

 

戦いが終わり、日本は、侵略国としての汚名を着せられて、指導者たちは戦争犯罪人として処刑されてしまいました。

 

それはまるで、キリストが約2000年前に、多くの病人を救った後、十字架に磔処刑されて、笑い者にされたように。

 

日本が連合国から処刑されていた時期、アジア諸国では何が起きていたのでしょうか?

 

昭和16年12月8日から1年間、日本軍は南方戦線で、欧米列強諸国に対して連戦連勝でした。

 

自分たちの目の前で、自分たちと同じ黄色民族が絶対的支配権力を持っていた白人を蹴散らしていったのを目撃して、驚嘆しました。

 

「我々有色民族は、いつまでも白人民族に絶対服従している必要はない。我々有色民族も立ち上がろう」と。

 

アジアの人々は、西欧民族と同じように尊ぶべき人権や神性が、自己の内部に宿っていることを自覚するようになったのです。

 

そして、植民地支配からの独立戦争を起こして、次々と独立していきました。その流れは、アフリカにも及び、アジア諸国と同様に次々と独立していったのです。

 

大正元年(1912年)の初め、フランスの画家であるコルニリエ氏のアトリエに、18歳の少女レイヌがモデルとして通っていました。

 

心霊現象に興味があったレイヌは、画家のコルニリエ氏に対して、心霊現象を体験したいと希望したので、様々な実験を繰り返していきました。そしていつの間にか、その少女は様々な霊示ができるようになりました。

 

ある交霊会(霊との交流)において、催眠状態になったレイヌに高級霊が次のような霊示をしました。

(大正2年(1913年)2月17日霊示)

 

「流血と破壊とを喜ぶ熱狂した精神波動は、ヨーロッパよりアジアへと広がっていく。

 

白人種の足かせに繋がれていた東洋諸国は反乱を企てるーインド支那(アジア大陸の東南部)、アンナン(ベトナム中部)、トンキン、英国領インド、

 

これら属国となっていた諸国民の反乱は、すでに自国のことに忙殺されて、疲労しているヨーロッパ諸国にとって、恐るべき敵となる。

 

長い間、その誇りを傷つけられて、間断なくその奥底の感情を踏みにじられていた多数のアジア人種にとっては、好機逸すべからずと決起の感情を煽り立てられる。

 

臥薪嘗胆(将来の成功を期して、長い間苦労する)して、アジア諸国民が待っていた機会が来る。好機到来! 全支那は決起する。

 

目にて目を補い、歯には歯を償わんとする正義の復讐の発作によって、支那はヨーロッパへと殺到する。

 

何らの警告もあらかじめなる示威運動もない。西洋貿易が彼らに供給した完全な武器は、この戦いにはほとんど価値を有しない。

 

彼らは無数の肉弾によってひた押しに押し寄せて来る。彼らは敵地を席巻(片っ端から侵略)する。

 

支那は全ヨーロッパを掃討する。ともかく彼らは何れにせよ、全ヨーロッパを震駭せしめる。

 

白色人種が奪っていた全領土を彼らは取り返す。その奪還は完全である。報復心は満足する。

 

アフリカにも擾乱が起こる。アメリカにもまた。」と。

 

現象界における事件というものは、現実に起きる前に”念の世界”において、事件の映画フィルムができていて、その映画フィルムが、現実世界に映画のスクリーン上に上映されるように、映し出されていきます。

 

そんなの馬鹿馬鹿しくて信じられない、オカルト話である、と思われたあなたは普通の人です。ご心配ございません。参考程度に聞き流していただければ、幸いです。

 

このように霊界においてはすでに、大正2年(1913年)2月時点で、アジアとアフリカ諸国が独立するということが見えていたのですが、

 

それを現象界において実現するためには、どうしても一度、有色民族が白色民族を叩きのめす必要がありました。

 

その使命を担ったのが日本だったのです。

 

有色民族の劣等感を吹き飛ばして、民族独立の精神を養うためには、同じ有色民族の手で、白色民族を駆逐する必要がありました。

 

日本は、その使命を与えられた国であり、ほとんどのアジアとアフリカ諸国を植民地支配して、絶対的支配者として君臨していた白人を駆除していき、その使命を果たしたのです。

 

「生長の家」の創始者である谷口雅春氏は、昭和35年8月15日、戦没者慰霊祭のときに次のような言葉をおくりました。

 

「この人類進化の宇宙周期の完了に際して、白色人種と同様に「神の子」なりとの自覚を得て独立すべき宇宙プログラムを現象界に実現する時機いたり。

 

その偉大なる犠牲的役割を演じて自己の生命を捧げて、人類進化に道を開きたるが、あの大東亜戦争において戦死されたる日本軍の将兵たちなり。

 

今上天皇陛下(当時の昭和天皇)が、平和愛好の御心にて、あの大東亜戦争の開始を反対の意思を示されたにもかかわらず、戦争を抑止することを得ず。

 

誠にもって、あの戦争が人類進化の過程として道を開くべき宇宙的プログラムにして何の国民がか犠牲となって、

 

大東亜及びアフリカ民族の自覚促進に貢献する宇宙的必須の使命を果たす必要ありたるが故なり」

(「大東亜戦争無縁戦没者英霊に捧ぐる辞」谷口雅春氏 昭和35年8月15日)

 

(ちなみに「生長の家」3代目は、大東亜戦争を、総体として肯定的に評価しないと結論されています。)

 

また、大正2年(1913年)2月17日のレイヌの霊示には、「支那(中国共産党)が、全ヨーロッパを制圧する」とあります。これはまだ現実のものとなっていません。

 

チベット、ウイグル、ベトナム、フィリピン、南沙諸島などを侵略して、さらに世界に君臨する野望をもつ中国共産党。

 

その中国共産党が、全ヨーロッパを制圧する時代も、もしかしたら実現してしまうかもしれません。

 

参考図書

「生命の実相 第9巻霊界編」谷口雅春著 

「真理 第4巻」谷口雅春著

「古事記と現代の予言」谷口雅春著

月刊「谷口雅春先生を学ぶ」臨時増刊号

 

 

 

 

 

宗教法人の”生長の家”は、反左翼団体から左翼エコ団体へと変貌していきました。

 

なぜ、そのような現象が起きてしまったのでしょうか?

 

昭和5年(1930年)、生長の家を創始された谷口雅春氏。

 

谷口雅春氏の基本思想は、「神と神の作られた完全な存在のみが実在である」(唯神実相哲学)という教えであり、人間は神の子であり、「本来、肉体はない、物質はない」といった唯心論を説かれました。

 

唯物論を説く共産思想と敵対し、右翼宗教団体とレッテルを貼られたりしました。

 

最盛期は、公称330万人の信徒数がいた大教団でしたが、現在では、その6分の1まで減少しています。これはあくまで、公称ですので、実数はさらに少ないと思われます。

 

なぜ、ここまで信徒数が激減してしまったのでしょうか?

 

初代、谷口雅春氏の死後、谷口清超氏が法燈を継承しますが、その清超氏から、法燈を継承されたと言われている、3代目の谷口雅宣氏。

 

3代目の谷口雅宣氏の代になり、生長の家は、祖父である初代の谷口雅春氏の右翼的思想とは、真逆の左翼環境保護団体となってしまいました。

 

3代目の谷口雅宣氏は、大東亜戦争は侵略戦争であったという歴史認識を主張されています。

 

また、日本は非武装中立であるべきであり、そうすれば、外国からの侵略を受けることはないという、かつての社会党の主張を支持しています。

 

もし、仮に中国共産党が日本を支配するようになったとしても、それは、現在の日本が米国の軍事的傘下に入り、守ってもらっているのと同様、米国からの庇護が中国共産党に変わっただけであるので、何の問題もない、と主張されています。

 

日本は、自衛隊を持たず、敵対的に戦闘をしないで、初めから白旗を上げて降参すれば、中国共産党や北朝鮮は、日本を攻撃しないだろうとも主張されています。

 

また、3代目の谷口雅宣氏は朝日新聞を購読しており、信徒にも勧めています。

 

そして、”生長の家には神はいない、朝日新聞の社説こそ神である”、というような内容のことも言っています。

 

完全に唯物論者であり、自虐史観の歴史認識を持った方です。

 

3代目の谷口雅宣氏は、祖父である谷口雅春氏を戦争犯罪人であるとレッテル貼りして、谷口雅春氏が大東亜戦争を肯定的に書かれた書籍を、片っ端から絶版にしています。

 

また、3代目の谷口雅宣氏は、初代の谷口雅春氏の説かれた真理を信じている古くからの信奉者を、”原理主義者”とレッテル貼りをして、排除しています。

 

その理由は、宗教は時代とともに変化していくものである。初代の思想は、東西冷戦時代のものであり、冷戦終結後の現代には通用しない古いものであるからその役割は終わった、という理由です。

 

そうすると、キリスト教や仏教を信仰している人たちはどうなるのでしょうか?

 

このような現状を知り、初代、谷口雅春氏は、霊言で、次のように語りました。

「原理主義と言われるのは納得がいきませんな。生長の家の教義というのは99%が、私の教えで成り立っている。雅宣は悪魔と魂の契約を交わしたと言わざるを得ない。」と。(2016年6月21日)

 

霊言とは、あの世の霊存在の言葉を語り下ろす現象のこと。霊媒現象(トランス状態になって意識を失い、霊が一方的に喋る現象)とは異なり、青森のイタコとも異なります。

 

3代目の谷口雅宣氏は、炭素(CO2)ゼロ運動を積極的に行っています。そのため、東京の原宿にあった生長の家の本部を解体して、山梨県の北杜市に移転しました。

 

実は、これは炭素(CO2)ゼロ運動の目的ではなく、原宿という立地がとても居心地の悪い場所であったため、移転したのが事実のようです。

 

原宿周辺には、乃木希典を祀っている乃木神社、東郷平八郎を祀っている東郷神社、明治天皇を祀っている明治神宮、明治維新で活躍した人などが多く祀られている青山霊園など、どちらかというと右翼的な人が多く祀られている地域となります。

 

左翼環境保護団体を主催している谷口雅宣氏にとっては、とても居心地の悪い立地条件でした。

 

谷口雅宣氏を指導して居る指導霊は、社会党の浅沼稲次郎氏です。

 

浅沼稲次郎氏は、社会党の書記長や委員長を歴任し、1960年安保闘争を指導中、日比谷公会堂にて暗殺された方です。

 

そして、「反戦、平和、非暴力」を主張されていましたが、生長の家など右翼団体を壊滅しようと画策していました。

 

彼は、すでにこの世にはいませんが、谷口雅宣氏を霊界から指導しているようです。

 

(このような話を信じられなくて大丈夫です。馬鹿馬鹿しいと感じたあなたは普通の方です。オカルト的な話として流していただいて構いません。)

 

右翼は危険な暗殺集団であり、イスラム原理主義と同じだから、壊滅させないとダメだ、と主張されています。

 

3代目の谷口雅宣氏は、戦前の国粋主義を主張したり、皇居の前で日の丸の旗を振ったりするような生長の家は、カッコ悪いと思っていました。

 

しかし、誰も後を継がないので仕方なく後を継いだという感じでした。

 

祖父である谷口雅春氏に対する反骨心の空きをついて、浅沼稲次郎氏の霊は、3代目の谷口雅宣氏の心にうまく入り込んで行ったのでしょう。

 

安倍首相を支持している宗教団体や右翼団体を切り崩していく、そして野党連合してかつての社会党を復活させて、2大政党制を実現する、というのが、浅沼稲次郎氏の霊の目的のようです。

 

初代の谷口雅春氏の教えを徹底的に否定する、3代目の谷口雅宣氏。宗教団体で正式に法燈を受けた後継者とはとても思えない言動を展開しています。

 

それは、まるで、生長の家を解体することが目的のようにも見えます。

 

実は、3代目の谷口雅宣氏は、生長の家など右翼団体を壊滅させて、旧社会党の復活を企む指導霊に導かれていたので、左翼環境保護団体として変貌していきました。

 

参考図書

「谷口雅宣のスピリテュアル分析」大川隆法 幸福の科学出版

「谷口雅春に政治思想の今を問う」大川隆法 幸福の科学出版

月刊「谷口雅春先生を学ぶ」

 

 

 

あなたは、生きたままの人間を拘束して焼き殺す情景を想像できるでしょうか?

 

昭和43年7月12日、東京都足立区の綾瀬駅付近にて、26歳(当時)の女性を婦女暴行(レイプ)したのち、生きたまま焼き殺すという事件がありました。

 

被害者の久美子さんは、創価学会の会員であり熱心に信心して学会の活動をしていました。

 

彼女は、会社から帰宅途中、自宅の最寄り駅である綾瀬駅を下車して歩いていたところ、顔見知りの男が通りました。

 

「こんばんは」と彼女が声をかけると、その男は彼女の腹部を一撃して、気を失いかけた彼女を抱きかかえるようにして、近くの工事現場の草むらに連れていき、婦女暴行(レイプ)しました。

 

失神した彼女を前にして、男は証拠隠滅を図るために、彼女を生きたまま焼き殺すことにしました。

 

工事用の厚板を彼女の上に乗せ、近所から灯油を運んできて板の上からまいて火をつけました。

 

彼女は、「熱い、熱いからやめて!」と悲鳴をあげましたが、身動きも出来ずに、彼女の体が生きたまま焼かれていきました。

 

助かりたい、生きたいと願う生への欲求が、悲鳴となって口から出ました。

 

次第に、彼女の悲鳴も止まり、息絶えました。

 

男は、その後、何食わぬ顔でアパートに帰り、勤行し題目を唱えました。その男も創価学会の会員だったのです。

(以上、事件の展開はフィクション)

 

その後、足立区の清掃職員であった小野悦男(当時38歳)が別件で逮捕されましたが、容疑不十分で釈放されました。

 

創価学会では、当時属していた日蓮正宗の御本尊には、「願いとして叶わざるものなし」という絶大な力を持ったご本尊であり、

 

この本尊を信じて、朝晩、勤行をし、創価学会の組織活動を真面目に行えば、計り知れない功徳が得られると教えています。

 

変毒為薬と言って、自分い取って不利益なことが起きても、結果的にはそれが有利な現実に置き換えられる。

 

また、転重軽受と言って、重大な災いを受けるべきはずが、軽い災禍で済ますことができると、創価学会では教えています。

 

被害者は、このような創価学会の教えを真面目に実践してきた、模範的な女子会員でした。

 

「創価学会の批判をしてはいけない」「創価学会を疑うことが御本尊への誹謗である」と創価学会では教えています。

 

では一体なぜ、彼女は、このような悲惨な殺され方を受けなければならなかったのでしょうか?

 

この疑問に対して、創価学会は次のように解答しました。

 

「彼女は、確かに真面目な創価学会会員でした。しかし、彼女が小学生の頃、彼女は創価学会の信心に反対して、御本尊様を燃やしたことがあります。

 

今度のことは、その時の罰の現象です。

 

彼女が御本尊様を燃やした時、御本尊さまはさぞ熱かったことでしょう。さぞ苦しかったことでしょう。

 

御本尊様にした時と同じ熱さと苦しみを、彼女は味わって死んだわけであり、御本尊様の力の偉大さを、まざまざと見せつけられた出来事です。

 

みなさんも、決して御本尊様にご不敬することなく、信心一途に励んで行かなければなりません。」と。

 

創価学会の御本尊様の天罰が、同じ創価学会員の男を通して、彼女に与えられたというのでしょうか?

 

御本尊を焼いたら、その天罰のために、創価学会員の手により、生きたまま焼き殺されるというのが、創価学会の教えなのでしょうか?

 

それが本当に創価学会が属していた日蓮正宗の教えなのでしょうか?

 

被害者の久美子さんの母親は、遺骨の前で次のように語りました。

 

「それでは、久美子があまりにもかわいそうでなりません。事実、久美子が創価学会の御本尊さまをモヤhしたというなら、なんと言われても仕方がありませんが、

 

久美子は創価学会の御本尊様を燃やすどころか、小学生の頃、御本尊様を手にしたことさえありません。

 

家庭の事情で、久美子は祖父の家で育ったのですが、祖父の家では創価学会を信仰していませんでした。

 

創価学会に入って、一生懸命やっていた久美子の死を、創価学会自身が鞭打つとは、久美子が真面目に信じていただけに惨めでなりません。」と。

 

創価学会は、組織を守るために、事実を捏造して宣伝したのでしょう。また、創価学会は、会員の死を天罰だと踏みにじるカルト教団なのでしょう。

 

参考図書

「これが創価学会だ」植村左内著

 

 

日本は、米国の属国であり51番目の州である、とよく揶揄されます。

 

しかし、戦後、一人だけ日本の独立を目指して活動した政治家がいました。

 

それは田中角栄氏です。

 

田中角栄元首相は、現役時代、米国の石油メジャーに依存しない、日本のエネルギー資源の獲得に力を入れていきました。

 

昭和48年(1973年)第一次オイルショックの際、田中角栄は次のように語りました。

 

「日本は、無資源国だ。太平洋戦争は、なぜ起こったのか。日本包囲網(ABCD)がしかれ、石油の供給がストップされた。

 

このままじゃ半年ももたないということで、無理矢理、戦争に引き込まれていったのだ、そのことを忘れてはいけない。

 

無資源国の日本は、資源外交を積極的にやらねばならんのだ」と。

 

中国共産党との国交正常化を実現しましたが、この目的は石油資源の獲得にありました。

 

中国大陸には、サウジアラビアに匹敵するほどの石油の埋蔵量があると、当時の国連機関は推定していました。

 

昭和48年、中国共産党は、日本に石油を輸出しました。中国共産党にとって、共産国以外への石油の輸出は初めてのことでした。

 

昭和48年(1973年)9月末、田中角栄氏は、ヨーロッパ諸国へ外遊に出かけました。

 

フランスのポンピドー大統領との会談で、原子力発電のためのウランの濃縮加工工場の共同経営。イギリスのヒース首相との会談で、北海油田の共同開発。ドイツのブラント首相との会談で、原子力発電の共同開発。

 

ロシアのブレジネフ書記長との会談で、チュメニ油田の開発などについて話し合い、原子力と石油の資源外交を行いました。

 

ブラジルではアマゾン開発の名目で原子力開発について、オーストラリアのホイットラム首相とは、ウラン共同開発について話し会いました。

 

アジアの石油資源大国インドネシアにも訪問。首都ジャカルタでは、世界一の石油大国サウジアラビアの高官と日本、インドネシア間の資源協約を結ぶ下地交渉に乗り出そうとしていた。

 

ところが、激しい反日暴動に見舞われ、田中角栄はホテルから一歩も出られない事態に見舞われてしまいました。

 

(この暴動は、CIAが仕組んだと噂されています。)

 

このような田中角栄氏の行動に対して、米国は警戒心を持ちました。

 

「田中角栄は、予期せぬ結末を招く。田中は、アメリカに依存しない。」

(米国国務省電信機密文書)

 

キッシンジャー大統領補佐官(当時)が来日し、田中角栄に次のようにいいました。

 

「日本が、独自に資源問題の解決を図るべきではない」と要求し、

 

「日本の行動は、同盟国への裏切り行為である」と脅迫してきました。

 

米国は、日本を自国のコントロール下に置いておきたかったのです。

 

米国からの脅迫にも屈せず、田中角栄氏は、我が信じる道を突き進んで行きました。

 

しかし、昭和49年(1974年)10月9日、立花隆氏の書いた「田中角栄研究―その金脈と人脈」という記事が掲載された「文藝春秋」11月号が発売。

 

この記事が発端となり、金脈問題で田中角栄氏が追い詰められて行きました。

 

昭和49年10月22日、外国特派員協会(FCCJ)の主催する昼食会に参加。

 

田中首相がスピーチした後、記者2人が、翌月に予定された米大統領の訪日などについて質問。

 

次に、ロサンゼルス・タイムズ東京支局長(当時)のサム・ジェームソン氏が次のように質問しました。

 

「米国では上院がロックフェラー副大統領候補の個人財産を調査中です。

 

首相は、政治家に自分の財産についての説明を求めることが日本でも適当だと考えるか。不適当ならなぜか。

 

適当だと思うなら、”文藝春秋の記事”にコメントしてくれますか」

 

これに対して、田中首相は「この種の記事で、政治への信頼に影響があるとすれば残念なことだ」「記事で、個人の経済活動と公の政治活動が混交されていることは納得いかない」と答えました。

 

続いて他の特派員から「国民に報告するのか?」「記事は正しいのか?」といった質問が相つぎました。

 

ジェームソン氏は、「まるで、私の質問を発端に、あちこちで花火が上がったような状況だった。

 

田中氏のことは人間として好きだったが、私は記者としてすべき質問をした。

 

その結果、日本の政治を変えてしまった。本来なら、日本人記者が果たすべき役割だったのに。誰かに利用された気分だ。」と語りました。

 

(この質問の流れを裏で操っていたのは、CIAではないかという説もあります。)

 

当初、文藝春秋の立花隆氏の記事は、ほとんど注目されていませんでした。

 

しかし、この外国特派員協会(FCCJ)での質問で、田中角栄氏の金脈問題が、国内外を巻き込んだ大きな問題へと発展して行きました。

 

昭和49年11月26日、「私個人の問題で、世間の誤解を招いたことは公人として不明、不徳のいたすところ」「私は国政の最高責任者として政治的、道義的責任を痛感しております」と声明文を発表。

 

昭和49年12月9日、内閣総辞職。

 

たった一つの月刊誌の記事により、絶大な人気と権力を持っていた田中角栄氏は、失脚することとなったのです。

 

日本が、独自の外交によりエネルギー資源の獲得することに対して、頑ななまでに抵抗した米国。

 

その首謀者である田中角栄を失脚させて、米国の石油メジャーの支配下に、日本を屈服させようとした米国。

 

それはまるで、大東亜戦争前夜のABCD包囲網の再現のようでした。

 

ABCD包囲網とは、アメリカ(A)、イギリス(B)、中国(C)、オランダ(D)の4カ国による、日本への石油を禁輸するという、日本に対する経済封鎖。国際法においては、経済封鎖は宣戦布告と同じ意味であります。

 

当時の日本は、石油のほとんどを米国に依存していました。

 

石油問題は、安全保障問題であり戦争へと繋がる非常に重要な国防政策でもあります。

 

環境保護のために脱原発を主張される方々もいますが、かつて日本のエネルギーの3割を占めていた原子力発電の代わりに、現在では火力発電所が補っています。

 

そのため、二酸化炭素(CO2)を大量に排出し続けています。

 

そして、平成9年、京都において、CO2など温室効果ガスの削減率を定めましたが(京都議定書)、日本は、その目標値を達成することが大幅に遅れてしまっています。

 

また、火力発電所を動かすために、大量の石油を輸入しています。

 

そして、大量の石油を輸入するために、毎日100億円以上のお金が外国に流れています。50年以上に渡り貿易収支で黒字を維持していた日本は、原発事故以来、毎年の貿易収支は赤字に転落しています。

 

果たして、このことは日本の安全保障上、良いことなのでしょうか?

 

田中角栄氏は、首相を退陣後も政界に絶大な影響力を保持し続けました。

(闇将軍)

 

米国は、退陣後も闇将軍として君臨し続ける田中角栄氏を、よく思っていませんでした。

 

田中角栄氏の後任首相は、椎名副総裁(当時)の裁定により、公選ではなく話し合いで選ばれました。(椎名裁定)

 

福田赳夫氏や大平氏が次期首相候補でしたが、公選ではその二人を抑えて首相となることはできなかった、三木武夫氏が棚ぼたで首相に選ばれました。

 

ちなみに、日本の防衛費をGNPの1%以下に抑制する政策(防衛費1%枠)が、閣議決定されたのは、三木内閣の時でした。

 

三木武夫首相は、政治評論家の藤原弘達氏によく電話相談して、助言を受けていました。

(テレフォン首相)

 

三木武夫氏が首相となって1年ほど経過した昭和50年暮れのある日、電話相談してきた三木首相に、藤原氏が言いました。

 

藤原氏「首相をどのくらいやりたいんですか?」

 

三木首相「せめて3年はやりたいな。やれるチャンスは人生に二度とない。この天与のチャンスに全力投球したいんだ。」

 

藤原氏「3年は無理だぜ。どう考えてもあと1年しか持たないでしょう。場合によったら半年でゲームセットかもしれん」

 

藤原氏「ところで、三木さん、あなたはロッキードのことをどう思っているかね?」

 

三木首相「ロッキードって、トライスターのこと?」

 

ロッキード社のトライスターその他の販売工作が暴露されたのは、昭和51年2月。

 

三木首相は、ロッキード疑惑について、何もわかっていない様子でした。

 

「この問題は、アメリカで火が可能性がある」、と藤原氏は、三木首相に示唆しました。

 

昭和51年2月、ロッキード疑惑が表面沙汰されたころ、三木氏からの電話相談に対し、藤原氏は、

 

「三木さん、戦後の総理の中で、正しいことをやり、世論が指示すべきことをやって殺された者は一人もいない。本当に殺されてもいいという覚悟があるなら、やりなさいよ」

 

と、田中角栄氏を追求することを後押ししました。

 

その後、三木首相は、このロッキード疑惑に関して田中角栄氏を追及することに、政治生命をかけていきました。

 

この時期の米国首脳人はどのような顔ぶれだったのでしょうか?

 

フォード大統領、キッシンジャー国務長官、石油財閥のドン、ロックフェーラー副大統領、テキサス石油財閥のブッシュCIA長官(のち大統領)。

 

皆、石油利権に深く関わっていた人たちでした。

 

フォード大統領の時代、ホワイトハウス付き記者をしていた文明子氏は、キッシンジャー国務長官に質問しました。

 

「ロッキード事件は、あなたが起こしたのではありませんか?」

 

キッシンジャー氏は答えました。

 

「もちろん、そうだとも。」と

(「朴正煕と金大中 私の見た激動の舞台裏」文明子著)

 

終戦後の日本において、初めて独立したエネルギー外交を展開した田中角栄氏。

 

しかし、田中角栄氏は、米国により2度も殺されてしまいました。

 

参考図書

「角栄、もういいかげんにせんかい」藤原弘達著

動画

「田中角栄 昭和47年、街頭演説」

 

 

 

池田大作名誉会長と歴史家アーノルド・J・トインビー博士との対談とは、何だったのでしょうか?

 

トインビー博士は、池田大作名誉会長に、「あなたをロンドンにご招待し、私たち二人で現在人類の直面する基本的な諸問題について、対談をしたいと希望します。」という内容の手紙を送りました。

 

昭和47年(1972年)5月と昭和48年5月の2回に渡り、ロンドンのトインビー氏の自宅で、池田大作名誉会長と対談しました。

 

対談の内容は、女性、教育、宗教、環境問題、国際情勢など多岐に渡りました。

 

85歳のトインビー氏は次のように語りました。

 

「現代にはびこるエゴイズム(自己中心的)を乗り越えて、「生命尊厳」の思想を啓発していくことが、諸問題の根本的解決の道である」

 

「諸民族の融和、諸宗教の融和に極めて重要な役割を果たすものと思います。おそらく創価学会はこうした対話のいくつかの突破口となれるでしょう」と。

 

のちに「二十一世紀への対話」として出版されました。

 

この対談はトインビー氏の名声を利用した、ノーベル平和賞を受賞するための布石にするためと言われています。

 

トインビーの孫娘であるポーリー女史は次のような手記を、英国紙「ガーデアン」紙に掲載しました。

 

「祖父トインビー氏は、池田大作氏との対談後、間も無く脳梗塞で倒れました。

 

祖父の死後8年経過した時期に、、池田大作氏のロンドン在住の代理人から、私と夫を日本に招待したいと電話が入りました。

 

なぜ、今頃になって祖父を偲んでの日本招待なのか、疑問に思いましたが、日本へ行くことにしました。

 

羽田空港に到着してから、多くの人から出迎えられ、ホテルまで豪華なリムジンで送迎されて歓待されました。

 

この組織は、莫大な富と権力と政治力を日本国内に持ち、会員数は1000万人と言われ、400万部に上る新聞(聖教新聞)を発行しています。

 

日本で3番目に大きな政党を持ち、多くの出版物を発行しています。7000人もの大学生が学ぶ創価大学や美術館を持っています。

 

池田氏は、32歳から3代目の会長となりましたが、大田区の海苔やの家で育ちました。

 

再び、ホテルから豪華な黒塗りのリムジンで送迎されて、池田大作氏と面会する時がきました。

 

本部に案内されると、池田夫妻が立っていて、フラッシュと映画の撮影カメラが近づき、白いドレスを着た女性たちが並ぶ列を通って、とても大きな広間に通されました。

 

そこで天気など、たわいもない会話をしました。

 

池田氏の話し方は、傲慢で他に恐怖心を与えるものでした。彼は俗人そのもので崇高さのひとかけらもない人でした。

 

私は、多くの著名な人と会ったことがありますが、池田氏のような絶対的権力者の雰囲気を漂わせた人はいませんでした。

 

彼はおそらく長年に渡り、あらゆる自分の気まぐれを押し通し、すべての命令に従わせ、そしてそれに対する反論や軋轢に触れさせないように守られてきたのでしょう。

 

私は滅多に恐怖心を感じることはないのですが、彼の中にある何かに、私は、体の芯までぞっとさせられる思いがしました。

 

池田氏は、「あまりかたぐるしい話はやめにして、今夜は楽しみましょう」、と命令口調で言いました。

 

私たちは、堪え難いくだらない会話を続けなければならないのかと、憂鬱になりました。

 

池田氏は、「私の使命は、彼(トインビー博士)の作品をすべて全世界の人に読んでもらうようにすることです。協力してくれますね?約束してくれますね?」と言われました。

 

トインビー・池田会談で、まだ出版されていない部分があるので、近いうちに続編が出版される予定であるとか語りました。

 

池田氏が、私たちを日本に招待した目的の一部がわかりました。

 

トインビー博士は、別れ際に私にどんな戒めの言葉を言ったと思いますか?と質問されたので、夫が「それは貪欲であってはならない」と答えました。

 

すると、池田氏の表情が一変して、まるで武士たちを呼び、私たちを追い出すのではないか、と思えるほどの恐怖心を感じました。

 

私たちは、白いドレスを着た女性たちが、お辞儀をして見送る列を通り、リムジンに乗ってホテルに帰りました。

 

ある日、池田氏が、ダラスからサンディエゴまでを巡回旅行した時の、各地のスタディアムで開かれた映画を見せられました。

 

鼓笛隊とバトンガールのメンバーと何千人もの人が”SOKA"

と”PEACE"の人文字を描き、群衆が金切り声にも似た歓声をあげる中、スポットライトに照らし出された池田氏が、「平和」についての演説をしました。

 

いつも「平和」です。

 

人々の心の中に平和を、世界の国々へ平和を、など、創価学会がいつも言っていることです。

 

そして、レーガン大統領からの学会支援メッセージが、スタジアムに流されました。

 

創価学会は、頻繁に広島の原爆の悲惨さを訴える展示会を開きながら、世界中で平和を回って説いていますがmこれは新会員を勧誘する手段として、大いに利用されているようです。

 

私たちが『平和と説いて回りながら、レーガン大統領からの学会支援メッセージを受け入れるのですか?

一体学会は何を考えているのですか?』

 

と質問すると、

 

『レーガン大統領に投票することと創価学会員であることは矛盾しない』、と男性秘書は答えました。

 

『どんな人でも自らを改革していけるのです。レーガン大統領が、私たちにメッセージを送ったことで、彼もまた命の中を変えることができるのです』と付け加えました。

 

帰国する際、創価学会設立記念大会が開かれ、映画で見た時と同様に、6000人の大会合がありました。

 

フィナーレの後、池田氏がスタジアムを一周し、しっかりと予行演習をしてきたと思われる女子グループが、彼の方に体を傾け、金切り声を上げて歓声と賞賛を受けていました。

 

祖父は生前、日本訪問しましたが、その際、池田氏と会ったことはありませんでした。

 

また、祖父の友人たちも、池田氏が対談本で祖父のことを大げさに書き立て、自分のために利用していることに対し、明らかに苦々しく思っています。

 

創価学会は、戦後の混乱期に何かの団体に属し、事故のアイデンティティを得ようとした、上昇志向の強い都会人を集め、急成長した新興宗教の一派です。

 

全く民主主義的な要素のない、階級主義的な組織です。池田氏が絶対的な権力を持った組織です。

 

池田氏が政党である公明党を作ったことにより、彼がこの権力をどのように使っていくのかを警戒する声が聞かれ始めました。

 

その警戒心を解きほぐすために、表向きは党と創価学会は分離されましたが、しかし、党の全ては創価学会員です。

 

公明党は日本の政党で第3党の地位を持っています。中道政党と呼ばれてます。

 

 

また、日本では25年間同一政党(自民党)が政権を握ってきましたが、例えば、田中派の候補者を助け、田中派は創価学会のスキャンダルを揉み消して守ってきました。

 

創価学会と公明党を「ファシスト」と呼ぶと、日本の政治を誤解してしまいます。

 

しかし、頑ななまでに、反民主主義の路線で運営されており、絶対的な服従を要求します。

 

そうした国家主義的な面がある一方、アメリカナイズされた面もあります。

 

平和憲法を維持し、再軍備に反対し、政権をとる野望を持っています。

 

国連では、創価学会は非政府組織(NGO)として認められておりますが、それは池田氏のために大いに利用されています。

 

すなわち、”学会の運動は平和を目指すものだ”、との認識を広め、これが池田氏と世界の要人との会談を容易にしているのです。

 

それゆえ、日本に影響力を持とうと考えている人は、池田氏の力を無視することはできないのです。

 

事実、彼の本には、ここぞとばかりに著名人との写真が、なん百枚と並べられています。

 

英国に帰国後、池田氏の訪問を受けたことがある何人かの人に電話をかけてみました。

 

池田氏の名声を高めるために利用されてしまった、と認めました。

 

つまり、すべての行事が素晴らしいものであったかのように扱われ、記事にされ、そっけない型どおりの会話が、あたかも非常に重要な会話であったかのように、扱われ記事にされた、と。

 

もし、祖父があれほど年老いていなかったならば、また、

もし祖父が池田氏のあの異様な取り巻きと雰囲気の中で会っていたならば、決して池田氏に力を貸すことをしなかったであろうと思います。

 

祖父はあの時、とても弱っていましたし、生来のお人好しで、人を疑うことをしない人でした。」

(”トインビー孫娘ポーリー女史の手記” 英国紙「ガーデアン」紙 昭和59年(1984年)5月19日付)

 

参考

「トインビー・池田対談・21世紀への対話の欺瞞を孫娘が暴く」

 

 

 

昭和31年7月、参議院選挙が行われた際、北海道夕張炭鉱の創価学会員が、学会推薦の候補者に投票。

 

昭和32年(1957年)6月、炭労(日本炭鉱労働組合)は、「統制を乱した」として、学会員の締め出しを図り、公式にも”対決”を決議。

(夕張炭労事件)

 

それまで炭労の候補者に投票していた夕張の創価学会員は、初めて独自の議員に投票しました。

 

この事件は、戦後の創価学会が初めて受けた弾圧事件でした。

 

ある日、創価学会の家族は集まるようにと、婦人部の人たちが、炭労の組合事務所に呼び出されました。

 

組合の幹部が『折伏教典』を手にしながら、次のように圧力をかけました。

 

「創価学会を辞めなかったら、お宅の旦那はクビだ」と。

 

これに対して、ご婦人たちは「選挙は自由」と連呼して圧力に屈しませんでした。

 

当時の炭労は全盛期であり、「昔陸軍、今総評」と言われた時代でした。その「総評」(日本労働組合総評議会)を支えた最強部隊が炭労でした。

 

なぜ炭労が群を抜いて強大だったのでしょうか?

 

石炭は「黒いダイヤ」と呼ばれ、国のエネルギー源として全盛時代だったからです。

 

石炭産業の現場を支える炭労が、ストライキを行うと国の基幹産業はストップしてしまいます。

 

そのような時代、炭鉱夫やその家族の生殺与奪(せいさつよだつ)の権限を握っていたのは、炭労でした。

 

炭労と会社は、ユニオンショップ制度により労働協約を結んでいたために、炭労を除名されれば自動的に解雇されることとなりました。

 

全国的な繋がりを持つ炭労から除名されてしまうと、他の炭鉱においても再就職することが困難でした。

 

よって炭労に異議を唱えることは難しく、炭労の推薦する国会議員以外の人に組織的に投票するということは、やりづらい環境でした。

 

そのような環境の中、独自の選挙活動を行なった創価学会員に対して、炭労からの嫌がらせが起きたのです。

 

『労働金庫』の貸出し拒否、炭住長屋の補修遅延などや、『炭婦協』主催の指人形劇の会等で、学会員の子には菓子を配らないなど嫌がらせなどです。

 

昭和32年(1957年)1月、池田大作氏は、夕張市内で行われた創価学会の地区決起集会に参加し、7月1日の札幌大会に出席後、再び夕張に戻り、夕張大会に参加して、夕張地区の学会員を激励しました。

 

そして、6月6日と7月2日、学会の地元青年部が、夕張炭労事務所前をデモ行進しました。

 

一方、炭労は、昭和32年(1957年)6月18日、第10回定期大会で創価学会との対決を決定し、6月27日に創価学会を締め出す指令を出しました。

 

創価学会は、どのような方法で布教活動をしていったのでしょうか?

 

それは、折伏(しゃくぶつ)という方法により行われました。

 

折伏とは、仏教用語であり、悪人・悪法を打ち砕き、迷いを覚まさせることであります。

 

議論などによって破り、自己の誤りを悟らせて、悪人や悪法をくじき、屈服させることであります。

 

複数人で、狙いを定められた人を取り囲み、この折伏(しゃくぶつ)の方法で、勧誘していくのです。

 

中には、ご先祖様を祀る仏壇や過去帳を焼き払うなど、かなり強引なやり方で、学会は、布教活動をして行きました。

 

参考動画

「創価学会」朝日ニュース

 

 

 

 

昭和49年(1974年)4月、創価学会は、日蓮正宗の御本尊である正本堂建立本尊を無許可で模刻(コピー)しました。

 

浅草の赤澤佛具店本店に依頼して、8体の御本尊を板本尊に模刻しました。

 

昭和49年9月2日、宗門(日蓮正宗)と創価学会との連絡会議の席上、池田大作会長より「学会本部安置の紙幅の御本尊様が、年月を経て傷みかひどいので板本尊にしていただきたい」という願いをして、日蓮正宗の日達上人は「いいでしよう」と回答しました。

 

すでに五ヶ月前に模刻していたのですが、池田大作会長は、形式的に許可を願い出たのです。

 

昭和50年1月1日、創価学会本部に模刻された板本尊を安置し、池田大作会長が、導師をして入仏式を行っていた

 

通常、御本尊の御開眼と入仏式は、僧侶の導師によって行うべきであるとされていますが、創価学会はそれを僧侶を呼ばずに行いました。

 

なお、ここでいう「僧侶」とは、日達上人のことをさします。

 

この入仏法要の件が、創価学会の一般会員に知れ渡り、大きな問題と発展して行きました。

 

池田大作会長は、動揺を鎮めるために昭和50年10月23日、当時総監であった早瀬日慈御尊能化を、創価学会本部に呼んで、模刻本尊の入仏法要を行いましたが、残り7体についてはそのまま放置されました。

 

それでも、学会員の動揺鎮まらなかったので、池田大作会長は、模刻本尊の入仏開眼法要の導師を、日達上人に再三にわたりお願い出しました。

 

しかし、日達上人は断固拒否。

 

昭和52年11月7日、創価学会は創立47周年記念法要を執行。

 

この時、再三の願い出もあり、日達上人はやむなく承諾。記念法要の大導師、また模刻本尊の開眼をされた。

 

これによって、創価学会本部に安置された模刻本尊は、日達上人が追認した板本尊となったので、そのまま本部に安置されることになりました。

 

昭和53年9月27日、模刻した他の7体の御本尊は、ヨーロッパやアメリカなどに送っていたので、それを送り戻して、創価学会の中西総務と山崎顧問弁護士が、日蓮正宗の大宣寺に運びました。

 

昭和53年11月7日、創価学会の創立48周年記念登山にて、池田大作会長と代表幹部2000名、全国の教師を大講堂に集めて、御本尊を模刻した罪を認めて、正式に謝罪しました。

(お詫び登山)

 

その後、宗門を金の力で屈服させるか、屈服しない場合は、宗門からの独立の可能性も想定して、着々と布石を打っていきました。

 

いずれにしても軍資金が必要というので、池田氏は学会の財政規模を年々拡大していた。

 

これに伴い、学会員からの寄付金(財務)の金額は年々跳ね上がった。年間一人当たり100万円以上の財務が呼びかけられ、年金生活者からも寄付を搾り取る「狂乱財務」が行われて行きました。

 

池田氏は、「宗門からの独立を考えている。金ができたからだ

」と側近に語りました。

 

平成2年(1990年)11月16日、創価学会インタナショナル(SGI)各支部に向けて行った本部幹部会において、池田大作名誉会長が、宗門批判する内容の講演を行いました。

 

同年12月16日、日蓮正宗は、その内容の真意を確認するために、創価学会へ質問状を送りました。

 

12月19日、創価学会の顧問弁護士である八尋氏は、宗門(日蓮正宗)からの質問状について、

 

「坊さんはとにかく短絡的で理屈好き。今後どうするかはっきり書いてないが、法華講総講頭の辞任を求めて来ることもあり得る。

 

だが、池田名誉会長は強気だ。全面降伏した10年前とは違う。」と宗門への敵意をみなぎらせていました。

 

そして、創価学会は宗門(日蓮正宗)からの質問状を無視しました。

 

法華講とは、総本山大石寺に本部、日蓮正宗各寺院に支部を置く信徒団体であり、総講頭はその代表という意味になります。

 

大石寺の藤本日潤総監らは皆、猊下(法主)の下に結集。

 

猊下(法主)は、「今後、経済的に困るかもしれないが、池田氏とその周辺の幹部を許すわけにはいかない。」と語りました。

 

もし、池田氏を法華講総講頭から罷免したら、宗門と創価学会は全面戦争となる可能性がありました。

 

日蓮正宗の宗務院は、平成3年(1991年)11月28日、創価学会を破門処分しました。

 

本尊模刻事件は、創価学会を大きく揺さぶる大事件でした。日達上人へ謝罪したことも本心からではなく、10年後に復讐することを誓ったものでした。

 

そして、10年後にその怨念を晴らすために宗門との抗争を繰り広げ、ついに宗門(日蓮正宗)から破門を受けました。

 

破門を覚悟の上の抗争でしたので、池田大作名誉会長としては願ったりだったでしょう。

 

この事件に関して、平成2年以降になって、創価学会は、

 

「学会に誤りはなかった」

「模刻事件は、日達上人の失態をかばって学会が罪をかぶったのだ」

 

「お詫び登山での謝罪は、日達上人を守るために宗門(日蓮正宗)が作成した文書を、池田大作先生が読んだだけ」

 

などというデマを学会員に流すようになりました。

 

参考図書

「乱脈経理 創価学会 VS 国税」矢野絢也著

 

動画

「創価学会離反の真相 7 池田大作・御本尊模刻の証拠」