池田名誉会長とトインビー博士との会談の真実 | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

池田大作名誉会長と歴史家アーノルド・J・トインビー博士との対談とは、何だったのでしょうか?

 

トインビー博士は、池田大作名誉会長に、「あなたをロンドンにご招待し、私たち二人で現在人類の直面する基本的な諸問題について、対談をしたいと希望します。」という内容の手紙を送りました。

 

昭和47年(1972年)5月と昭和48年5月の2回に渡り、ロンドンのトインビー氏の自宅で、池田大作名誉会長と対談しました。

 

対談の内容は、女性、教育、宗教、環境問題、国際情勢など多岐に渡りました。

 

85歳のトインビー氏は次のように語りました。

 

「現代にはびこるエゴイズム(自己中心的)を乗り越えて、「生命尊厳」の思想を啓発していくことが、諸問題の根本的解決の道である」

 

「諸民族の融和、諸宗教の融和に極めて重要な役割を果たすものと思います。おそらく創価学会はこうした対話のいくつかの突破口となれるでしょう」と。

 

のちに「二十一世紀への対話」として出版されました。

 

この対談はトインビー氏の名声を利用した、ノーベル平和賞を受賞するための布石にするためと言われています。

 

トインビーの孫娘であるポーリー女史は次のような手記を、英国紙「ガーデアン」紙に掲載しました。

 

「祖父トインビー氏は、池田大作氏との対談後、間も無く脳梗塞で倒れました。

 

祖父の死後8年経過した時期に、、池田大作氏のロンドン在住の代理人から、私と夫を日本に招待したいと電話が入りました。

 

なぜ、今頃になって祖父を偲んでの日本招待なのか、疑問に思いましたが、日本へ行くことにしました。

 

羽田空港に到着してから、多くの人から出迎えられ、ホテルまで豪華なリムジンで送迎されて歓待されました。

 

この組織は、莫大な富と権力と政治力を日本国内に持ち、会員数は1000万人と言われ、400万部に上る新聞(聖教新聞)を発行しています。

 

日本で3番目に大きな政党を持ち、多くの出版物を発行しています。7000人もの大学生が学ぶ創価大学や美術館を持っています。

 

池田氏は、32歳から3代目の会長となりましたが、大田区の海苔やの家で育ちました。

 

再び、ホテルから豪華な黒塗りのリムジンで送迎されて、池田大作氏と面会する時がきました。

 

本部に案内されると、池田夫妻が立っていて、フラッシュと映画の撮影カメラが近づき、白いドレスを着た女性たちが並ぶ列を通って、とても大きな広間に通されました。

 

そこで天気など、たわいもない会話をしました。

 

池田氏の話し方は、傲慢で他に恐怖心を与えるものでした。彼は俗人そのもので崇高さのひとかけらもない人でした。

 

私は、多くの著名な人と会ったことがありますが、池田氏のような絶対的権力者の雰囲気を漂わせた人はいませんでした。

 

彼はおそらく長年に渡り、あらゆる自分の気まぐれを押し通し、すべての命令に従わせ、そしてそれに対する反論や軋轢に触れさせないように守られてきたのでしょう。

 

私は滅多に恐怖心を感じることはないのですが、彼の中にある何かに、私は、体の芯までぞっとさせられる思いがしました。

 

池田氏は、「あまりかたぐるしい話はやめにして、今夜は楽しみましょう」、と命令口調で言いました。

 

私たちは、堪え難いくだらない会話を続けなければならないのかと、憂鬱になりました。

 

池田氏は、「私の使命は、彼(トインビー博士)の作品をすべて全世界の人に読んでもらうようにすることです。協力してくれますね?約束してくれますね?」と言われました。

 

トインビー・池田会談で、まだ出版されていない部分があるので、近いうちに続編が出版される予定であるとか語りました。

 

池田氏が、私たちを日本に招待した目的の一部がわかりました。

 

トインビー博士は、別れ際に私にどんな戒めの言葉を言ったと思いますか?と質問されたので、夫が「それは貪欲であってはならない」と答えました。

 

すると、池田氏の表情が一変して、まるで武士たちを呼び、私たちを追い出すのではないか、と思えるほどの恐怖心を感じました。

 

私たちは、白いドレスを着た女性たちが、お辞儀をして見送る列を通り、リムジンに乗ってホテルに帰りました。

 

ある日、池田氏が、ダラスからサンディエゴまでを巡回旅行した時の、各地のスタディアムで開かれた映画を見せられました。

 

鼓笛隊とバトンガールのメンバーと何千人もの人が”SOKA"

と”PEACE"の人文字を描き、群衆が金切り声にも似た歓声をあげる中、スポットライトに照らし出された池田氏が、「平和」についての演説をしました。

 

いつも「平和」です。

 

人々の心の中に平和を、世界の国々へ平和を、など、創価学会がいつも言っていることです。

 

そして、レーガン大統領からの学会支援メッセージが、スタジアムに流されました。

 

創価学会は、頻繁に広島の原爆の悲惨さを訴える展示会を開きながら、世界中で平和を回って説いていますがmこれは新会員を勧誘する手段として、大いに利用されているようです。

 

私たちが『平和と説いて回りながら、レーガン大統領からの学会支援メッセージを受け入れるのですか?

一体学会は何を考えているのですか?』

 

と質問すると、

 

『レーガン大統領に投票することと創価学会員であることは矛盾しない』、と男性秘書は答えました。

 

『どんな人でも自らを改革していけるのです。レーガン大統領が、私たちにメッセージを送ったことで、彼もまた命の中を変えることができるのです』と付け加えました。

 

帰国する際、創価学会設立記念大会が開かれ、映画で見た時と同様に、6000人の大会合がありました。

 

フィナーレの後、池田氏がスタジアムを一周し、しっかりと予行演習をしてきたと思われる女子グループが、彼の方に体を傾け、金切り声を上げて歓声と賞賛を受けていました。

 

祖父は生前、日本訪問しましたが、その際、池田氏と会ったことはありませんでした。

 

また、祖父の友人たちも、池田氏が対談本で祖父のことを大げさに書き立て、自分のために利用していることに対し、明らかに苦々しく思っています。

 

創価学会は、戦後の混乱期に何かの団体に属し、事故のアイデンティティを得ようとした、上昇志向の強い都会人を集め、急成長した新興宗教の一派です。

 

全く民主主義的な要素のない、階級主義的な組織です。池田氏が絶対的な権力を持った組織です。

 

池田氏が政党である公明党を作ったことにより、彼がこの権力をどのように使っていくのかを警戒する声が聞かれ始めました。

 

その警戒心を解きほぐすために、表向きは党と創価学会は分離されましたが、しかし、党の全ては創価学会員です。

 

公明党は日本の政党で第3党の地位を持っています。中道政党と呼ばれてます。

 

 

また、日本では25年間同一政党(自民党)が政権を握ってきましたが、例えば、田中派の候補者を助け、田中派は創価学会のスキャンダルを揉み消して守ってきました。

 

創価学会と公明党を「ファシスト」と呼ぶと、日本の政治を誤解してしまいます。

 

しかし、頑ななまでに、反民主主義の路線で運営されており、絶対的な服従を要求します。

 

そうした国家主義的な面がある一方、アメリカナイズされた面もあります。

 

平和憲法を維持し、再軍備に反対し、政権をとる野望を持っています。

 

国連では、創価学会は非政府組織(NGO)として認められておりますが、それは池田氏のために大いに利用されています。

 

すなわち、”学会の運動は平和を目指すものだ”、との認識を広め、これが池田氏と世界の要人との会談を容易にしているのです。

 

それゆえ、日本に影響力を持とうと考えている人は、池田氏の力を無視することはできないのです。

 

事実、彼の本には、ここぞとばかりに著名人との写真が、なん百枚と並べられています。

 

英国に帰国後、池田氏の訪問を受けたことがある何人かの人に電話をかけてみました。

 

池田氏の名声を高めるために利用されてしまった、と認めました。

 

つまり、すべての行事が素晴らしいものであったかのように扱われ、記事にされ、そっけない型どおりの会話が、あたかも非常に重要な会話であったかのように、扱われ記事にされた、と。

 

もし、祖父があれほど年老いていなかったならば、また、

もし祖父が池田氏のあの異様な取り巻きと雰囲気の中で会っていたならば、決して池田氏に力を貸すことをしなかったであろうと思います。

 

祖父はあの時、とても弱っていましたし、生来のお人好しで、人を疑うことをしない人でした。」

(”トインビー孫娘ポーリー女史の手記” 英国紙「ガーデアン」紙 昭和59年(1984年)5月19日付)

 

参考

「トインビー・池田対談・21世紀への対話の欺瞞を孫娘が暴く」