『やじの心得-毒はユーモアで隠そう-』
2006年1月24日 東京新聞夕刊「スポーツが呼んでいる」
近所の商店街でメガネを買った。
その店のオリジナルのフレームは、独創的デザインで熱烈なファンを獲得しているらしく、すべて同一のデザイナーの名が表示してある。
こちらは「普通」を求めていたから、年配の従業員につい注文をつけてしまう。
「どれも派手で。もっとシンプルなやつないですかね」。
従業員は少し落胆したように「ああ派手ですか」と言った。
もしや。胸の名札を見るとデザイナーと同じ珍しい姓が記されている。
しまった。この地味な人物は、少しも地味でないフレームの作者その人だった。
さて、数カ月前の気まずい出来事を思い出したのは、次のニュースに接したからだ。
「米プロバスケットボール、NBAのコミッショナー事務局は19日、ニックスのアントニオ・デービスに5試合の出場停止処分を科した。
デービスは18日の敵地でのブルズ戦で、客席に入り込んでファンともめ、退場処分となった。
どうやらデービスは「客席にいた妻が、ほかの男性ファンから触られているように見えた」らしい。
これに対して22歳の男性は「やじを飛ばしたら、女性が顔を殴ろうとしたのでかわしただけ。その女性がデービス夫人とは知らなかった」と反論している。
各種報道によると、観客の男性は、デービスの妻の一列後方に座っていた。
頭上に「夫の悪口」が繰り返されれば、妻が感情を害しても不思議はあるまい。
また妻の周辺にトラブルの気配が生じたら、夫が思わず駆け寄るのも理解できる。
さらには、やじを飛ばす者が、眼前に当事者の愛妻が座っていると想像できないのも当然である。
アントニオ・デービスは、慈善活動の実績を表彰された経験もあり「いいやつ」で通っている。
同情論は強い。なるほど悪意はあるまい。
ただし、個人的には「やじって、注意され、誤解された男」への同情を禁じえない。
安くないチケットを手に入れ、いよいよ観戦。ゲームの展開その他によっては、好みでない選手について皮肉まじりを口にする権利くらい認められるべきだろう。
「くれぐれも発言には気をつけろ。君の前の席には選手のワイフが座っているかもしれない」
そんなこと言われたらスポーツ観戦の楽しみは奪われてしまう。
人間だもの、普通に生きていれば、たまの「気まずさ」くらい仕方ないさ。
やじ。
スポーツ文化の重要な一部である。
差別と結びつかなければ多少の毒は許される。
もちろん最良なのは「ユーモア」だ。
いつか後楽園ホールのボクシングで聞いた。
前座のゴングが鳴る。
でも若いボクサーはどちらも緊張して手が出ない。
ぎこちなく真剣な時間。
角のない闘牛はにらみ合う。
不意に客席から声が飛んだ。
「いいなあ。何となくいいなあ」
青春の純情へのそこはかとない敬意のようなものが感じられた。
あれは傑作だった。
このごろはスポーツの報道にも法律用語がちりばめられる。
先のNBAの件を伝える記事にも、早速「弁護人」は登場していた。
そのうち冗談抜きに「やじの規制」も始まりかねない。
スタジアムで、牛より遅い野球選手を「のろま」と呼んだら訴えられる時代…。
やじる側は、ユーモアで怒りをかわし、身を守るほかない。
『順風サントリーのボス-初さい配白星-』
2006年9月5日 東京新聞夕刊「スポーツが呼んでいる」
これほど「ボス」の二文字のしっくりくる人物も珍しい。
怒らずに弟子を震え上がらせ、甘い文句を口にすることなく感激を与える。
ラグビーのトップリーグ、サントリー・サンゴリアスは、開幕節の3日、神戸製鋼コベルコスティラーズを31-10で破った。
大学を出たばかりの新人5人を起用して、意地の抵抗に苦しみながら最後は堂々と突き放す。
昨季6位のチームはシーズンの最初に「シーズンの最後には少なくとも頂点の近辺にいる」と確信させた。
ボス、清宮克幸新監督は、試合後に言った。
「順風に航海が始まった感じ」。
自身の描いた海図に間違いはない。
背中をスッと風が押せば、あとは目的地へ着ける。
そんなニュアンスだった。
およそジャーナリストたる者、万事に疑ってかかるのが鉄則である。
そのことを分かっていて、なお「監督キヨミヤ」についてのわがペンは全面肯定へ走りがちだ。
もちろん人格、個性のすべてを知るわけもなく、「全面肯定」とはラグビーのコーチ(監督)としての能力のことである。
どう懐疑の念を振り絞っても、実際に優秀で、たちまち結果は伴うのだから。
初の指導経験ながら母校の早稲田大学を率いて5シーズンで3度の大学日本一の実績を残した。
日本A代表が惨敗したニュージーランド学生代表にも快勝。
本年2月の日本選手権では、トヨタ自動車ヴェルプリッツを破って「学生がトップリーグ上位をやっつける」という「生態系の破壊」を成し遂げた。
いわば満を持しての古巣サントリー監督就任である。
「あの人が教えて弱くなるわけないじゃないですか」。
これはサントリーでなくトップリーグの別のクラブ所属選手のつぶやき。
そしてサンゴリアスは弱くなるはずもなく強くなった。
清宮イズムの根幹には「ラグビーというゲームを見抜く眼力」がある。
試合の構造を分解して「どこで勝つのか」を明確にする。
ここで上回って、こう球と人が動けば必ずトライを奪える。
あらゆる「なんとなく」を取り除き、ラグビーをいわば「必然のゲーム」と定める。
しかし、それだけでなく人間の感情といった「目に見えぬ要素」の価値も熟知している。
腹のすわった「勝負魂」も頼もしい。いけない。
まだ礼賛を始めてしまった…。
「選手がいいですもん。強くなりますよ」
監督就任以来、この言葉を幾度か聞いた。
「早稲田とは違いますよ」とも。
一般受験での浪人経験者も少なくない大学チームと、その大学から俊英これでもかと集うサントリーでは個々のアスリートとしての素質がまるで違う。
当然であるが、この当たり前を言い切る指導者は少ない。
外から眺めればサントリーと大差ない人材を擁しているのに「もっと選手を」という思考に陥りがちだ。
選手がいいですもん。
簡単な言い回しで、自分の退路(言い訳)を断ち切っている。
「楽しい。わくわくしている」。サントリーの新監督がトップリーグに多大な刺激を与えているのは確かだ。
有言実行。順風また順風。
それだけでは面白くないから、ぜひ他チームから人気者に立ちはだかる「悪役」の登場を待ちたい。
もっとも清宮克幸、39歳、悪役もこなせる風ぼうなのがまた憎いのであるが。
2006年9月5日 東京新聞夕刊「スポーツが呼んでいる」
これほど「ボス」の二文字のしっくりくる人物も珍しい。
怒らずに弟子を震え上がらせ、甘い文句を口にすることなく感激を与える。
ラグビーのトップリーグ、サントリー・サンゴリアスは、開幕節の3日、神戸製鋼コベルコスティラーズを31-10で破った。
大学を出たばかりの新人5人を起用して、意地の抵抗に苦しみながら最後は堂々と突き放す。
昨季6位のチームはシーズンの最初に「シーズンの最後には少なくとも頂点の近辺にいる」と確信させた。
ボス、清宮克幸新監督は、試合後に言った。
「順風に航海が始まった感じ」。
自身の描いた海図に間違いはない。
背中をスッと風が押せば、あとは目的地へ着ける。
そんなニュアンスだった。
およそジャーナリストたる者、万事に疑ってかかるのが鉄則である。
そのことを分かっていて、なお「監督キヨミヤ」についてのわがペンは全面肯定へ走りがちだ。
もちろん人格、個性のすべてを知るわけもなく、「全面肯定」とはラグビーのコーチ(監督)としての能力のことである。
どう懐疑の念を振り絞っても、実際に優秀で、たちまち結果は伴うのだから。
初の指導経験ながら母校の早稲田大学を率いて5シーズンで3度の大学日本一の実績を残した。
日本A代表が惨敗したニュージーランド学生代表にも快勝。
本年2月の日本選手権では、トヨタ自動車ヴェルプリッツを破って「学生がトップリーグ上位をやっつける」という「生態系の破壊」を成し遂げた。
いわば満を持しての古巣サントリー監督就任である。
「あの人が教えて弱くなるわけないじゃないですか」。
これはサントリーでなくトップリーグの別のクラブ所属選手のつぶやき。
そしてサンゴリアスは弱くなるはずもなく強くなった。
清宮イズムの根幹には「ラグビーというゲームを見抜く眼力」がある。
試合の構造を分解して「どこで勝つのか」を明確にする。
ここで上回って、こう球と人が動けば必ずトライを奪える。
あらゆる「なんとなく」を取り除き、ラグビーをいわば「必然のゲーム」と定める。
しかし、それだけでなく人間の感情といった「目に見えぬ要素」の価値も熟知している。
腹のすわった「勝負魂」も頼もしい。いけない。
まだ礼賛を始めてしまった…。
「選手がいいですもん。強くなりますよ」
監督就任以来、この言葉を幾度か聞いた。
「早稲田とは違いますよ」とも。
一般受験での浪人経験者も少なくない大学チームと、その大学から俊英これでもかと集うサントリーでは個々のアスリートとしての素質がまるで違う。
当然であるが、この当たり前を言い切る指導者は少ない。
外から眺めればサントリーと大差ない人材を擁しているのに「もっと選手を」という思考に陥りがちだ。
選手がいいですもん。
簡単な言い回しで、自分の退路(言い訳)を断ち切っている。
「楽しい。わくわくしている」。サントリーの新監督がトップリーグに多大な刺激を与えているのは確かだ。
有言実行。順風また順風。
それだけでは面白くないから、ぜひ他チームから人気者に立ちはだかる「悪役」の登場を待ちたい。
もっとも清宮克幸、39歳、悪役もこなせる風ぼうなのがまた憎いのであるが。
『終戦記念日-熱狂、スポーツの特権に-』
2005年8月16日 東京新聞夕刊「スポーツが呼んでいる」
政治家は「わかりやすい」を最高の美徳であるかのように語る。
語るのでなく単語を発する。
内と外。敵と味方。成功者と失敗者。
あっけないほどの二分法はまかり通る。
乱雑な争いをこしらえて人々の熱狂を誘う。
公共性を自負する民放テレビは、ニュースでは、オカルト商法にまゆをひそめてみせるのに、ほかの番組なら「先祖の霊が」というたぐいの自称霊能者も大歓迎である。
ここでも実証不能も「あなたはこうだ」式の断定が受ける。
ある種の熱狂だと思う。
8月15日正午、本年も、高校野球大会の続く甲子園球場で黙とうが行われた。
数日前に読んだ『八月十五日の神話-終戦記念日のメディア学』(佐藤卓己著=ちくま新書)で、甲子園球場での「英霊に対する黙とう」は敗戦より前の1938年に始まっていると知った。
スポーツライターとしては瞬間的に次のように感じた。
スポーツの熱狂の場で、いわば政治の熱狂のための死が長らく追悼されてきた。
本来、二つの「熱」は相いれないはずなのに。
スポーツは愛国心の親友ではない。
もちろんスポーツには、日常ではつかまえにくい「国家への帰属意識」を束ねる力がある。
自分の生まれ育った国代表を応援するのは極めて自然な欲求だ。
そこに付け込み、古今に独裁者がスポーツを利用しようと試みた例はいくつもある。
しかし、スポーツの歓喜はナショナリズムの枠を意図せず越える。
「何があろうとも大好きな野球とともに生きたい」。
そんな気持ちはすでに潜在意識の領域かも知れず、場合によっては国家より、仕事より、大声では明かせないが家族よりも、大きな存在になりうる。
それくらい野球も、サッカーも、ラグビーでも何でも、人間の内面の充実をもたらすのである。
60年前の9月23日。
「玉音放送」から1カ月強、京都大学農学部グラウンドでは、さっそく戦後初のラグビーの試合が実現した。
関西倶楽部対三高。事前の告知なしに「3000人の観客が集まった」との記録がある。
早大OB西野綱三氏の感想が残されている。
「何年かぶりで見る自由闊達(かったつ)な試合に感激、抑圧されていた人間関係が一気にこみあげて「ワアッ」と驚くような大歓声となってこだまし、自由と平和が来たという喜びが雪どけの水のように奔流したようであった」(東大部史より)。
スポーツの根源的な魅力が伝わってくるようだ。
戦後、美男の横綱で人気を博した吉葉山潤之輔は、十両になれるところで応召した。
銃創を含む6度の負傷、腕っぷしに任せて3人で19人の敵を捕らえるなどの武勇伝も打ち立てたが、のちに述べている(『文藝春秋』にみるスポーツ昭和史)。
「思い出すたびに敵味方の呻(うめ)き声が聞こえるような気がする。本当に殺さなくともよい人達を殺した」
吉葉山は、体重109キロで兵隊へ行き、収容生活を経て71キロで復員した。
極度に単純化した戦法、迷いなき突進、弱い相手にも手を抜かぬ冷徹、それらはスポーツの勝負にあっては威力がある。
そこでなら価値を有する。
でも世の中は、もっと複雑で多様で弱々しいところもあったほうがよい。
熱狂よ、スポーツの特権であれ。
2005年8月16日 東京新聞夕刊「スポーツが呼んでいる」
政治家は「わかりやすい」を最高の美徳であるかのように語る。
語るのでなく単語を発する。
内と外。敵と味方。成功者と失敗者。
あっけないほどの二分法はまかり通る。
乱雑な争いをこしらえて人々の熱狂を誘う。
公共性を自負する民放テレビは、ニュースでは、オカルト商法にまゆをひそめてみせるのに、ほかの番組なら「先祖の霊が」というたぐいの自称霊能者も大歓迎である。
ここでも実証不能も「あなたはこうだ」式の断定が受ける。
ある種の熱狂だと思う。
8月15日正午、本年も、高校野球大会の続く甲子園球場で黙とうが行われた。
数日前に読んだ『八月十五日の神話-終戦記念日のメディア学』(佐藤卓己著=ちくま新書)で、甲子園球場での「英霊に対する黙とう」は敗戦より前の1938年に始まっていると知った。
スポーツライターとしては瞬間的に次のように感じた。
スポーツの熱狂の場で、いわば政治の熱狂のための死が長らく追悼されてきた。
本来、二つの「熱」は相いれないはずなのに。
スポーツは愛国心の親友ではない。
もちろんスポーツには、日常ではつかまえにくい「国家への帰属意識」を束ねる力がある。
自分の生まれ育った国代表を応援するのは極めて自然な欲求だ。
そこに付け込み、古今に独裁者がスポーツを利用しようと試みた例はいくつもある。
しかし、スポーツの歓喜はナショナリズムの枠を意図せず越える。
「何があろうとも大好きな野球とともに生きたい」。
そんな気持ちはすでに潜在意識の領域かも知れず、場合によっては国家より、仕事より、大声では明かせないが家族よりも、大きな存在になりうる。
それくらい野球も、サッカーも、ラグビーでも何でも、人間の内面の充実をもたらすのである。
60年前の9月23日。
「玉音放送」から1カ月強、京都大学農学部グラウンドでは、さっそく戦後初のラグビーの試合が実現した。
関西倶楽部対三高。事前の告知なしに「3000人の観客が集まった」との記録がある。
早大OB西野綱三氏の感想が残されている。
「何年かぶりで見る自由闊達(かったつ)な試合に感激、抑圧されていた人間関係が一気にこみあげて「ワアッ」と驚くような大歓声となってこだまし、自由と平和が来たという喜びが雪どけの水のように奔流したようであった」(東大部史より)。
スポーツの根源的な魅力が伝わってくるようだ。
戦後、美男の横綱で人気を博した吉葉山潤之輔は、十両になれるところで応召した。
銃創を含む6度の負傷、腕っぷしに任せて3人で19人の敵を捕らえるなどの武勇伝も打ち立てたが、のちに述べている(『文藝春秋』にみるスポーツ昭和史)。
「思い出すたびに敵味方の呻(うめ)き声が聞こえるような気がする。本当に殺さなくともよい人達を殺した」
吉葉山は、体重109キロで兵隊へ行き、収容生活を経て71キロで復員した。
極度に単純化した戦法、迷いなき突進、弱い相手にも手を抜かぬ冷徹、それらはスポーツの勝負にあっては威力がある。
そこでなら価値を有する。
でも世の中は、もっと複雑で多様で弱々しいところもあったほうがよい。
熱狂よ、スポーツの特権であれ。