歴史はリキッド!?

 

 ① 歴史というもの

 

 

 実家から、ウツギの写真が送られてきました。初夏の兆しが見えるころ、段々と虫の鳴く声や鳥のさえずりが耳を惹きつけるのです。この時期になると、昨年経験した教育実習を思い出す。嫌だった。指導教諭が嫌だった。実習に行くという後輩に会うとどこか、嫌な気持ちになってくる。

 

 教育実習では日本史を担当し、大化改新の周辺を教えました。私の教え方(偉そう)はとにかく教科書ベース。そしてたまに副教材と言うあまりに典型的な授業。生徒たちにとっては退屈だったと思います。反省しています。

 

 その中で、いつも疑問に思っていたことは、タイトルにもあるように、歴史の正体についてでした。どうしても教科書ベースの「歴史」では、どこか「すでに定まったもの」というイメージを生徒に安易に与えてしまう可能性があるのではないか、と。「硬質の、カチコチした変わらない普遍的なもの」と、思ってしまうのではないか。そう、常々危惧していました(ではなんで、あんなにつまらない授業をしてしまったのか)。

 

 当然ですが、歴史とは常に変容します。それは過去の事実は変わらないにしても、それを捉える現在の我々の立ち位置が、変わるからです。一昔前は、それこそ歴史と言えば、男性のもの。そこに女性や子供、ましては性的マイノリティーなど存在していなかったのです。もちろん、過去に女性や子供、性的マイノリティーはいましたよ。ただ歴史という舞台の上では常に男性がメインアクターだったのです。過去の事実を採集して、一つの歴史を描く歴史家の価値観が、歴史には大きく反映されるからです。

 

 時代が進むにつて、女性の復権、子供の誕生、性的マイノリティーへの理解増進など大きなターニングポイントが世界を覆うようになってくる。それは先進国か発展途上国でかなりの差があるにせよ。そういう価値観は新たな歴史家を生みます。お産椅子の形態の変容を、女性史の観点から叙述した長谷川まゆ帆(本音を言えば、あまり女性史家に詳しくないのです。私の唯一知っている歴史家)や『〈子供〉の誕生』を叙述したフィリップ・アリエスらは時代の寵児といえるでしょう。さらに個人的なおすすめとしてはエドワード・サイードの『オリエンタリズム』は読むべきでしょう。などなど、数えきれないほどの優秀な研究者らが新たな視点で歴史を編み始めたのです。そして今まで日の目を浴びなかった歴史が続々と発掘され、新たな歴史が生み出されてきた。そう、歴史は以前とはかなり違うものになった。

 

 

 ② 歴史の容れ物

 

 歴史は、言ってみれば、リキッドのようなもの。リキッドは容器に合わせるように様々な形に変容する。ポットならポット、鍋なら鍋、花瓶なら花瓶、といったように。歴史もそうなのです。どの容れ物に入れるかで、歴史はいかようにも変容する。その歴史に影響を及ぼすのは、肝心の容れ物。この場合、歴史認識になるでしょう。「男中心だ」という認識を持つ歴史家のもとでは、それに見合った歴史が叙述される。「いや、女性や子供に焦点を」と考える歴史家のもとでは、それに見合ったものが出来上がる。そう、歴史とは、往々にして現代の産物だったのです。

 

 ただ、現在の歴史家の多くは、歴史認識について何も考えていない。それはあまりに狭隘であると思うのです。歴史家は所詮、歴史認識の掌の上で転がされるにすぎないものになってしまう。「自分はどういう歴史認識を持っていて、そして何に焦点を当てるのか、その必要性は?」と、歴史家は常に現代と格闘しながら生きていかなければならないと思うのです。

 

 お堅い話の後に、

(愛犬:力丸、11歳)