「今度は今度、今は今」

 

「Perfect Days」、三回目見ました。

 

深谷シネマでは今日以後、上映予定がないため、実質最後の上映になります。

 

同じ映画も短期間に三回も見ると、ちょっとした日常の一つになってしまい、まるで毎朝食べている黒酢もずくのよう。もう上映しないと考えると、今後僕は生きていけるだろうか。

 

そんな不安をよそに、三回目の感想は一回目や二回目とは違うもの。そう、なんだか平山の人生観、そこにようやく立ち入れたよう。

 

では、早速。

 

今日皆様にお話ししたいのは、物語の「転」の部分、そう、平山を訪ねて姪が来る場面。平山らしからぬ多弁な(っていっても、一般的には無口な部類だが)様子で、姪と短い時間を過ごすとき。そんなとき、平山と姪は一緒に自転車に乗りながら、橋を渡る。夕日が川下の方から二人を照らし、姪は平山の自転車の走路を邪魔するように停車し、二人して夕日を眺める。そして二人は、不意に話し始める。

(姪)「あの川をずっと行けば海に行くのかな」

(平山)「うん、そうだよ」

「行ってみようよ」

「また今度ね」

「今度っていつ?」

「今度は今度、今は今」と。

 

その会話の前に、この会話を成立させる大事な前置きがある。それは姪の母親(すなわち平山の兄弟のこと)と住む世界が違うと、姪の母が言っていたことを平山に言うのである。

 

そして、さっきの会話である。これは平山の住む世界と姪がこれまで生活してきた世界に大きな乖離が潜んでいることを意味する。つまり、姪やその母が住んでいる世界は勘定の世界。「今度」と言えば明確な日付が要求され、「今」と言えば具体的な時間が要求される。物を買うときも常に数字の値段が付きまとい、どう安く便利なものを買うのか、そこには高い奢侈品などを尊ぶ世界観がある。明確な数字によって、日々の区切り、値段の区切り、そういったものが存在する世界なのだ。

 

ただ、平山の住む世界は違う。「今度は今度、今は今」という言葉から平山の日々における区切りというものはそこまで顕著ではない。つまり、「今」はまさにこの時を指し、「今度」は「今」の延長であり、そこに明確な区切りはないのである。いわゆる勘定の世界とは違う世界なのである。我々は「何歳までに結婚を」とか「何歳までに子供を」とか「何歳までにこうしたい、ああしたい」と考える。そしてそこから逆算して今どうするべきか、と考える。でも平山の時間には区切りがない。「今」が「今度」であり、「今度」の「今度」なのである。それは一本の線であり、途切れることがないのである。

 

姪にそのことを伝えた平山は、どこかすっきりとした表情をしている。そして虚を衝かれた姪は”おじさん”に心を寄せつつ、二人の世界の断絶に恥ずかしさと諦念を感じ、「今度は今度、今は今」とおどけ始めるのである。きっと、この姪も、平山の世界観にどこか憧憬を感じているのである。

 

映画の宣伝文句、「こんなふうに生きていけたらな」というのは、姪の母親の世界観で生きている我々、そんな世界観で疲弊しきっている者たちの心からの吐露なのである。エッセイストの稲垣えみ子氏が以前、「ある幸せがあるなら、ない幸せがあってっていいじゃない」と言っていたが、平山の生きる世界はまさにそうした世界。あることだけが幸せではない、という世界なのだ。

 

我々の世界はとにもかくにもあることが尊重される世界、お金、恋人、子供、車、家、学歴、名誉、役職、などなど。ないものは自らを恥じ、あるものはないものをないがしろにする。序列化された世界なのである。

 

ない世界は、なんてつつましいのだろう。序列化する必要もなく、みずから卑下することもない。ある世界で生きている我々は、そんな世界に生きることは無理だと思っているかもしれない。でも、それはまるで路傍の花。意外とすぐそこに、そしてこぎれいにたたずんでいるのかもしれない。きっとその花に気づくことができ、そしてその花をきれいだと思えるかどうかなのだ。