米国合衆国海軍東インド艦隊(USA East India Squadron)の第五代司令官のジェームズ・ビドル最先任大佐が徳川幕府との通商交渉を断念して帰国してから7年後の1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、米国海軍東インド艦隊の第10代司令官のマシュー・カルブレース・ペリー最先任大佐が率いる大型の黒船四隻浦賀沖に到来して錨泊します。

 

4隻の黒船が来航しただけで、浦賀と江戸を慌てて早馬で行き来する奉行所の役人を揶揄した有名な狂歌がありますね。「太平のねむりを醒ます上喜撰たった四はいで夜も眠れず」。(下写真)

 

4隻の黒船を眺める庶民と幕府の早馬 WEBより拝借

 

右往左往する幕府役人を直接表現で揶揄することを避けた庶民が、「蒸気船・四隻」を宇治の高級茶「上喜撰・四杯」に喩えて詠んだ狂歌は、米国東インド艦隊の4隻を蒸気船と思っていたことが分かりますね。しかし実際には、風力と蒸気のハイブリッドで航走する側輪駆動蒸気艦は2隻だけで、他の2隻は帆走艦でした。黒船四隻を遠望した庶民の目には、四隻とも黒煙を吐く蒸気船に見えたようですね。(狂歌の作者は庶民ではなく、幕閣だとする説もあるようですが・・・)

 

本日のブログは、第一回目の黒船来航の時にペリー司令官が率いていた四隻の艦船・サスケハナ号ミシシッピ号プリマス号、サラトガ号がどの様な類の艦船だったのかについて書いてみたいと思います。

 

旗艦サスケハナ号 フリゲート艦 側輪駆動蒸気機関搭載艦

先ずはペリー司令官が座乗していた旗艦のサスケハナ号です。サスケハナと声に出して読むと日本語的響きがありますが、その由来は、アメリカ大陸の先住民族であるサスケ族の言葉で「サスケ族の広く深い川」を意味するそうです。

 

浦賀に来航する約3年前の1850年4月に竣工したサスケハナ号は、1841年に就役した先輩艦ミシシッピ号を上まわる世界最大級の側輪駆動蒸気機関搭載のフリゲート艦でした。現在の巡洋艦に近い艦種だったと思われます。(下写真)

 

旗艦サスケハナ号(側輪駆動蒸気機関搭載) WEBより拝借

載貨重量頓数:2,450頓、排水量頓数3,824トン?、全長:78.33m、全幅:13.7m、喫水:6.25m、乗員:300人、蒸気機関、最大速力10ノット、兵装:150ポンド前装填ライフル砲2基、22.9cmダルグレン式前装填滑腔砲12基、7.62cm前装填ライフル砲1基、進水:1850年4月

 

<サスケハナ号の船体構造>

船体の基本構造は木造ですが、肋骨部分と左舷と右舷の側面部分は鉄材で補強されていました。艦体内部の構造は四層甲板
になっていて、上甲板には食料となるヤギやトリの畜舎と大砲があり、二層目の甲板には司令長官室と乗組員の居住室があり、三層目の甲板には乗組員の食糧庫、最下層甲板には燃料となる石炭庫と水タンクが配置してありました。
 

旗艦サスケハナ号の内部配置絵図 所蔵:船の科学館
 
<サスケハナ号の蒸気機関室>

最下層甲板から最上甲板を貫く船体中央部分の機関室には、大きな斜導式シリンダーが据え置かれていました。資料によるとシリンダー直径178cm、ピストンストローク3.05mとありますので、シリンダー内に大人2名~3名が入って点検作業できるサイズのピストンだったことが分かります。

 

<サスケハナ号の蒸気機関のシステム>

蒸気機関の駆動方法は、石炭を燃やして汽缶内の水から発生する蒸気をシリンダー内のピストンに与えて往復運動を起こし、その力を外輪車の駆動軸に与えて回転運動に変えて左舷と右舷の直径9.45mの外輪車を12回転/1分で回し、外輪車の水かき板で海水をかいて推進する仕組みでした。

 

完全帆走の時は、抵抗を最小にするためにフロートを取り外す事になっていたようですが、実際の運用では、汽走と帆走を同時に併用して航海することが常態化していたようですね。

 

<日本式帆船の千石船(弁才船)とサスケハナ号(蒸気艦)の大きさ比較>

室町時代末期から江戸時代初期には、東南アジア等の外洋航海に耐えられる商船の2500石積(載貨頓数375トン)の木造帆船(御朱印船)が建造されていたのですが(下写真)・・・1635年(寛永12年)の武家諸法度の制定により、500石積以上の外洋航海用の大型木造帆船の建造が禁止されていました。

 

2500石積(載貨頓数375トン)の御朱印船

 

しかし江戸時代後期になると、内航海運の経済発展のために500石船から千石船の木造帆船(載貨重量頓数150トン~200トン)の建造が許可されるようになっていたのですが・・・それでも千石船の12倍から16倍も大きい黒船が蒸気と風力のハイブリッドで航走するのを見た浦賀の人々の驚天動地は、想像して余りありますね。(下絵図)

 

江戸末期最大の千石船とサスケハナ号の比較 WEBより拝借

 

二番艦:初代ミシシッピ号 フリゲート艦  側輪駆動蒸気機関搭載艦

二隻目の黒船のフリゲート艦は、1841年12月就役の初代のミシシッピ号です。米国ミネソタ州を源流としてメキシコ湾に注ぐ米国で二番目に長いミシシッピ川が艦名の由来です。(下写真)

 

就役当時の初代ミシシッピ号は、世界最大級側輪駆動蒸気機関を搭載したフリゲート艦でしたが、1850年4月に竣工したサスケハナ号にトップの位置を譲っています。

 

初代ミシシッピ号(側輪駆動蒸気機関搭載)出典:横浜開港資料館
全長68.58m、幅12m、喫水5.8m、積載重量頓数1,692頓、排水量頓数3,220頓、蒸気機関、速力8ノット、兵装:10インチペクサン砲2門、8インチペクサン砲8門、乗員:260人

 

余談ですが、フィラデルフィア海軍工廠で初代ミシシッピ号の造船を監督したのは、後に米国海軍東インド艦隊の第10代司令官となるマシュー・C・ペリーでした。

 

日本の歴史教科書では日本を開国したペリーとして知られていますが、米国内ではペリーが蒸気艦の建造監督者であった事から、 ❝Father of the Steam Navy❞(蒸気艦を海軍に導入した父) として高く評価されているそうです。更に郵便事業に蒸気艦を導入した人物としても名高いようですね。

 

三番艦:プリマス号 シップ型帆走スループ艦

三隻目の黒船は、米国海軍地中海艦隊から東インド艦隊に配属されたシップ型帆走スループ艦のプリマス号です。浦賀の庶民は、帆走艦のプリマス号も蒸気船だと思っていたようですね。(下写真)

 

プリマウス号がシップ型帆走艦と呼ばれる所以は、蒸気軍艦が出現する以前の主流だった3本マストの全てに横帆を張った帆走艦のことを「シップ型」と呼んでいたことから来ています。シップ型のプリマウス号は、浦賀から米国に戻った2年後の1855年(安政2年)に第一線から退いて海軍兵士を育成する練習艦となりますが、1861年に火災で焼失しています。

 

シップ型帆走スループ艦 プリマス号 WEBより拝借

全長44.96m、型幅11.61m、深さ5.23m、積載頓数989頓、大砲22門、乗員210人、武装:口径8インチの鋳鉄製前装滑腔砲4門と32ポンドの鋳鉄製前装滑腔砲18門、就役1844年

 

プリマウス号の艦艇分類の「スループ」とは、現在の分類で表現すれば「護衛艦」らしいのですが、大型の蒸気機関搭載艦が増えるにつれて、プリマス号のような帆走式スループ艦は、その役割を失って姿を消して行くことになります。

 

ちなみに帆走船と蒸気船が入り混じる時代の艦艇区分は、大きい順から「ship of the line」(戦列艦)➡「フリゲート」(巡洋艦)➡「スループ」(護衛艦)➡「コルベット」(哨戒艦艇)と呼ばれていたようです。

 

四番艦:サラトガ号 帆走スループ艦 

四隻目の黒船は、支那海艦隊から東インド艦隊に配属された帆走スループ艦のサラトガ号です。浦賀の庶民はサラトガもまた蒸気船と思っていたようですね。

 

サラトガ号の艦名は、米国独立戦争のサラトガの戦いにちなんで命名された3代目の艦船です。1843年1月に米国海軍アフリカ艦隊に配属され、それ以降は本国艦隊(Home Squadron)➡ブラジル艦隊➡本国艦隊に配属された後に東インド艦隊に配属となり、1853年7月8日(嘉永6年6月3日)と1854年2月に浦賀に来航しています。

帆走スループ艦 サラトガ号 WEBより拝借

全長:45.72m、全幅:10.74m、深さ:4.97m、載貨重量頓数:882トン、大砲シェルガン4門、他18門、乗員:210人、武装:口径8インチの鋳鉄製前装滑腔砲4門と32ポンドの鋳鉄製前装滑腔砲18門、載貨頓数882頓、就役1843年1月

   

浦賀を出帆したサラトガ号は、ハワイ諸島➡南米大陸のホーン岬を経由してボストンに帰還。その後カリブ海➡メキシコ湾➡アフリカ沿岸の任務を終えてから南北戦争に参戦するために米国に帰還。1864年から大西洋岸中部のデラウェア州沖合とカロライナ州沖合で南軍を阻止する海上封鎖作戦に参戦して南軍の武器、弾薬、補給品を鹵獲、橋梁、製塩施設を破壊、多数の南軍捕虜を捕らえる功績をあげています。

 

南北戦争に於ける北軍の海上封鎖作戦

 

南北戦争終結が近付いた1865年4月に任務を解かれたサラトガ号は、大西洋沿岸での哨戒任務に就いていたようですが、1877年5月から米国海軍兵学校の航海練習船となり1888年10月に海軍を退役。その後はペンシルベニア州のフィラデルフィア海事学校の練習船となり、船齢64年を迎えた1907年8月に廃船になっています。

 

米国海軍兵学校(通称:アナポリス)

 

さて1853年7月8日(嘉永6年6月3日)に黒船四隻を率いて浦賀に来航した米国東インド艦隊のマシュー・C・ペリー司令官は、圧倒的な軍事力で恫喝的外交(砲艦外交)を展開し、フィルモア大統領の開国を願う国書を上陸して手渡すことを幕府に迫ります。

 

1853 年7月14日、ペリー司令官の要求に窮した幕府は、浦賀に隣接する久里浜に臨時応接所を設置してィルモア米国大統領の国書を受け取ることにします。(下絵図)

 

久里浜に上陸するペリー司令官と陸戦隊の300人

 

久里浜の臨時応接所で日本の開国を求める米国大統領の国書を受領した浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道から、「将軍 徳川家慶が病床に伏せているので回答に1年間の猶予を欲しい」と懇願されたぺリー司令官は、来年の1854年に幕府の正式回答を受け取りに必ず戻って来ることを通告して会談を終えています。

 

1853 年7月17日、今回の訪日目的を終えたペリー司令官は、江戸城が見える江戸湾奥まで黒船4隻を進入させてこれ見よがしの威嚇をしてから江戸湾を去って沖縄➡上海➡香港へと戻って行きます。

854年2月13日(嘉永7年1月16日)、ペリー司令官は、再び黒船艦隊を率いて江戸湾内に戻って来るのですが、その時の7隻から9隻の艦船については、次回ブログで書くことにしたいと思います。