1853年7月14日に浦賀に隣接する久里浜に上陸した米国東インド艦隊のペリー司令官は、米国大統領の開国と通商を求める国書を幕府に手渡し、その返答を受け取るため来年5月に戻って来る事を通告して琉球に向けて出帆した事を前回ブログで書きました。

 

ところがその事実を察知したロシア国極東艦隊司令官のプチャーチン海軍中将は、旗艦パルラーダ号ボストーク号、オリバーツ号、メンシコフ公号の四隻を率いて、ペリー司令官が久里浜を去って約一ケ月後の1853年8月22日に長崎港に入港。長崎奉行の大澤豊後守北方領土の国境協定修好通商条約締結を要求します

 

長崎奉行の大澤豊後守は、プチャーチン海軍中将との六回におよぶ交渉で、もし他国と修好通商条約を結ぶ時にはロシア国とも条約を結ぶことを約束するも、択捉島は日本領土なので交渉の対象外であること、樺太の国境問題は実地調査の必要性を主張して交渉がスタートしたのですが・・・ロシアと英仏両国のクリミア戦争の激化により、プチャーチン海軍中将は、不本意ながら長崎を発って一旦帰国することになります。

 

ロシア国極東艦隊プチャーチン司令官の旗艦パルラーダ号 WEBより拝借

戦闘用木造帆船、長さ53m、幅13m、建造1832年、大砲装備

 

プチャーチン海軍中将の長崎入港を知った米国東インド艦隊のペリー司令官は、第二回目の江戸湾行きの予定を3ヶ月早めて新編成の艦隊九隻を率いて清国を出帆。

 

1854年2月13日(嘉永7年1月16日)から1854年3月15日(嘉永7年2月17日)にかけて江戸湾内の小柴村(現・横浜市金沢区)の沖合に順次到着した米国東インド艦隊の九隻は、横一列に碇泊して幕府を牽制威圧(下絵図)。さらに江戸城が遠望できる羽田沖まで侵入したりして幕府方を慄かせます。

 

小柴村沖で横一列に碇泊して牽制威圧する九隻のペリー艦隊

艦隊編成:蒸気フリゲート艦3隻(ポーハタン号、サスケハナ号、ミシシッピ号)、帆走スループ艦3隻(マセドニアン号、バンダリア号、サラトガ号)、帆走武装補給艦3隻(サザンプトン号、レキシントン号、サプライ号)の九隻

 

小柴村の沖合に到着したペリー司令官は、自分が座乗していた旗艦サスケハナ号(1850年4月建造)から今回の新編隊に加えていた最新&最大で最後の蒸気外輪船となるポーハタン号(1852年9月就役)に移乗して旗艦とします。ポーハタン号の艦名は、英国人の入植者に民族浄化されたアメリカインディアンのポウハタン族に由来するそうです。(下絵図)

   

なおポーハタン号以降に新造される軍艦は、それまでの蒸気外輪方式から船尾スクリュープロペラ推進方式となり、船舶推進システムの新たなる時代を迎えることになります。

 

旗艦ポーハタン号(蒸気外輪フリゲート艦) WEBより拝借

排水量3,765英トン,頓数2,415英トン、長さ77.32 m、幅14m、喫水5.64m、蒸気機関1,500hp、速力11ノット、乗員289人、兵装11インチ ダールグレン滑腔砲1門、9インチ ダールグレン滑腔砲 10門、12ポンド砲 5門、就役1852年9月2日

 

小柴村沖沖合に錨泊するペリー司令官に対して、幕府は第1回目の応接場所の久里浜に戻るように何度も促しますが、ペリー司令官は江戸に近い場所を応接場所にすることを主張して引き下がりません。さらに日本近海には約50隻の米国軍艦が既に待機しているとか、20日以内に100隻の軍艦を呼び寄せることもできると脅しをかけます。

 

万策尽きた幕府は、第2回目の会見場所として神奈川宿から四キロ南側の半農半漁の戸数90戸の横浜村を提案。ペリー司令官も幕府の提案を受けて横浜村沖合へ九隻の艦隊を移動させて碇泊します。(下絵図)

 

横浜村沖合に碇泊するペリー艦隊の九隻 WEBより拝借

 

横浜村を第2回目の応接所として決定した幕府は、前年の第1回目の会談で設置していた久里浜の応接所を突貫作業で解体して横浜村へ持ち込み、1854年3月6日に木造平屋五棟(100畳)の移築を終えます。(下写真)

 

久里浜から横浜村へ解体移築された応接所 WEBより拝借

 

第1回日米条約交渉会議 

艦隊の随行画家ハイネが描いた作画によって第1回目の日米和親条約の交渉の様子を覗き見してみましょう。

 

随行画家 ウィリアム・ハイネ

 

<1854年3月8日>(嘉永7年2月10日)午後

武蔵国横浜村の沖合に碇泊する米国東インド艦隊が55発の礼砲を発射するなか、端艇(バッティラ)に分乗した大礼服姿のペリー司令官、士官35名、武装水兵の211名が横浜村に上陸して応接所に向かいます。

 

横浜村沖合には、全乗組員2,000人以上を擁する蒸気外輪フリゲート艦3隻、帆走スループ艦3隻、帆走武装補給艦3隻が横一列に居並んで大砲の砲門を開いています。(下作画)

 

横浜村に上陸するペリー艦隊の乗組員(作画:ウィリアム・ハイネ)

 

横浜村の上陸場所には、ペリー司令官と艦隊乗員を迎える幕府代表の林大学頭(復斉)、浦賀奉行:伊沢美作守、町奉行: 井戸対馬守、目付:鵜殿民部少輔、認役 松崎満太郎(儒者)、オランダ語通詞2名の姿が見えます。先頭の大礼服姿がペリー司令官だと思われます。(下作画)

 

上陸するペリー司令官と乗員を迎える幕府役人(作画:ウィリアム・ハイネ)

 

応接所前にペリー司令官を誘う幕府代表の林大学頭(復斉)、恭しく迎える白い羽織姿の浦賀奉行与力 香山栄左衛門、そして左端には剣付鉄砲を捧げ筒する艦隊儀仗兵の姿が描かれています。(下作画)

 

応接所前でペリーを迎える浦賀奉行与力 香山栄左衛門(作画:ウィリアム・ハイネ)

 

1854年3月8日(嘉永7年2月10日)、日米両国メンバーが金屏風が置かれた応接所内の儀礼場(内座)に集い、第一日目の日米和親条約(神奈川条約)の折衝が始まります。

 

幕府老中の阿部正弘から特命全権大使に任じられた復斎は、林大学頭家の11代当主の儒学者であり、江戸時代の対外関係史料を国別・年代順に配列した350巻の史料集「通航一覧」を編纂した外交歴史に通じた人物でした。(下絵)

 

幕府側特命全権大使:林大学頭 WEBより拝借

 

米国側の代表者名はペリー司令官(最先任大佐)アダムス参謀長兼副官(最先任中佐)、通訳のウイリアムズとポートマン、ペリーの秘書官(ペリーの息子)でした。

 

アダムス参謀長(中佐)は、幕府役人との実務的対応の全てを取り仕切きる重要な役割を担っていたようです。日米和親条約が調印された直後、帆走スループ艦のサラトガ号に乗って米国政府へ報告する為に米国ワシントンへ向けて出帆したのもアダムス参謀長でした。

 

 

左:アダムス参謀長(中佐) 右:ペリー司令官(大佐)

 

幕府へ提示された米国の主要議題は次の8項目でした(下記)。

(1)米国船に燃料(石炭、薪、水)、飲料水、食料、その他欠乏品の供給(2)米国との通商要求(3)寄港地の開港要求(下田、箱館、神奈川、長崎、兵庫、新潟)(4)難破した捕鯨船員の扱いの改善(5)米国領事の駐在認可。(6)外国人居留地の許可。(7)外国人遊歩区域の設定(8)米国への一方的な最恵国待遇の供与。(9)その他関連項目の討議

 

いづれの議題も200年以上も続いている徳川幕府のオランダ、清国、朝鮮以外の「外国封鎖政策」(通称:鎖国)の国法に反する議題ばかりです。


第二回目以降の日米和親条約交渉の応接所で繰り広げられる特命全権大使林大学頭(復斎)と米国東インド艦隊ペリー司令官の丁々発止の遣り取りは、次回ブログで少し触れてみたいと思います。

 

第1回目の日米和親条約交渉の終了後に、横浜村応接所の大広間で幕府主催による饗応の宴が行われています。饗応料理の調理は、幕府御用達の日本橋会席料理茶屋「百川」が2,000両の費用をかけたものだったそうです。

 

幕府主催の日米懇親会(饗応の宴)WEBより拝借

 

「百川」の献立は、儀式膳(乾燥鮑の長爽斗敷紙三方)から始まり、食前酒と肴(サザエ、スルメ、車海老、白魚等々)に続いて「本膳料理」(鯛鰭肉の吸い物、 結び昆布の干肴、豚の煮物、平目の刺身、鮑や貝の膾等)という伝統的日本料理でしたが・・・米国人の反応は如何だったのでしょうか。

 

 

再現料理 幕府の饗応料理の一部 WEBより拝借

幕府側の従者の日記には、饗宴に参加した米国艦隊乗員246人の多くは、刺身料理を嫌って甘味の濃厚な料理ばかりを食べていて、お酒も焼酎や日本酒を嫌って、飲酒用の味醂酒ばかりを飲んでいたとの記述がありました。

日本最古の百科事典「和漢三才図解」(江戸時代中期編纂)には、江戸時代には飲酒用の味醂酒として「美淋酎」が普通に飲まれていたとの記述がありました。(下絵図)


江戸時代の百科事典「和漢三才図解」 WEBより拝借

かくして第一日目の会議の後に開催された饗宴は終わり、米国側の招待者246人は迎えの端艇(バッティラ)に分乗して横浜村沖合に碇泊する九隻の艦隊へと帰艦。

翌日からは、幕府全権の林大学頭(復斎)とペリー司令官による本格的議論が始まることになります。