外国奉行・水野忠徳を団長とする咸臨丸による小笠原諸島調査団(107名)に海事技術員兼英語通訳として参加した中濱萬次郞の仕事ぶりを書こうと思いますが、その前に咸臨丸が約3ヶ月に亘って航海した小笠原諸島周辺のマップをご覧ください。
咸臨丸が航海した小笠原諸島海域 (WEBの絵図を加工)
【往路】江戸品川発 (862年1月3日)➡下田寄港 (862年1月4日)➡江戸品川から約1000km離れた父島列島と母島列島の西沖を通過➡小笠原諸島南端の北硫黄島➡硫黄島➡南硫黄島の火山列島を時計回りに周航➡ 1862年1月18日に父島二見港上陸➡1862年2月10日に父島から50km離れた母島上陸➡その後父島に戻っています。
【帰路】1862年3月28日に父島二見湾出港➡伊豆諸島南部の鳥島沖通過➡1862年4月2日に伊豆諸島の八丈島に寄港して小笠原諸島への入植を勧誘➡1862年4月11日に江戸品川沖に帰港しています。
伊豆諸島南端近くの鳥島は、1841年2月4日に萬次郞(14歳)が漂着して143日間生き延びた後に米国捕鯨船ジョンハウランド号に救出されて命拾いした無人のアホウドリの繁殖地ですが、この時は立ち寄っていません。
幕府絵師 宮本元道が描いた「母島沖村於テ夷女舞踏之図」
現在の旭山(海抜267m)(旧名:旗立山)と二見湾
それにしても、父島二見湾に上陸して直ぐに父島山頂に「日本総船印」(日章旗)を立てて日本国の領有権を宣言するとは電光石火の早業ですね。外交交渉では先手必勝が有効手段とは言えども、直接的影響を被ることになる先住外国系島民70名の驚き、恐怖、敵愾心はさぞかし大きかったのではないでしょうか。
先住外国系島民との直接交渉を英語で行う中濱萬次郞は、如何にしてこの難しい状況を乗り越えたのでしょうか。
小笠原諸島の先住欧米系島民とポリネシア系島民
中濱萬次郞は、難問山積の交渉の場でのやりとりばかりでなく、先住外国系島民との心の交流を図るセレモニーを積極的に開催したとの記録が残っています。
それ以外にもスコットランド民謡の「Auld Lang Syne」(蛍の光の原曲)、英国人作詞家と米国人作曲家が共作した「Home, Sweet Home」(埴生の宿の原曲)、そして1814年の米英戦争中の「マクヘンリー砦の防衛」で翻った星条旗に感激して作詞された「マクヘンリー砦の防衛」を原典とする「The Star-Spangled Banner」(後のアメリカ国歌 星条旗の原曲)もお気に入りの曲だったとの記述を何かで読んだことがありました。
“The Star-Spangled Banner”(アメリカ国歌 星条旗の原曲)
父島二見湾に上陸して直ぐに父島山頂で「日本総船印」(日章旗)を立てて日本国の領有権を宣言した日本側の振る舞いに対して、最初は強い反発心を抱いていた先住外国系島民も、中濱萬次郞の流暢な英語と懇切丁寧な説得が効を奏し、やがて耳を傾ける姿勢に変化していったようです。
調査団長の水野忠徳と中濱萬次郞は、外国系島民の代表である米国人のナサニエル・セイヴァリーと配下の島民に対して、一方的に日本の領有権を押しつけるのではなく、外国系島民の現状維持を原則として、彼らの島内での居住権、敷地権、田畑の所有権の全てを認めることを約束し、日本の法律のもとで日本からの移民者と共生しながら島での生活を豊かにしようと呼びかけます。
小笠原諸島の集会所前に並ぶ欧米系とポリネシア系島民
小笠原諸島の父島と母島における外国系島民と幕府調査団の交流や島々の様相を描いた幕府絵師 宮本元道の描いた真景図(絵図)は、今も国立公文書館や国会図書館等で保存されています。
そして中濱萬次郞や幕府測量方によって作成された小笠原諸島の緯度と経度の測定値、島々の地形と湾内の測量、島名や地名の命名等の詳細な記録資料は、その後の小笠原諸島の領有権をめぐる欧米諸国との交渉において、日本の領有権を有利にする決定的材料として効を奏する事になります。
1827年(文政10年)に小笠原諸島の父島洲崎に上陸した英国海軍ブロッサム号のビーチー艦長が国王ジョージ4世の名において英国の領有権を宣言する銅板を大木に打ち付け、父島をピール島、母島をベイリー島と命名した過去の事実を踏まえて、英国の領有権を強硬に主張すべきとする英国人政治家もいたようですが・・・
英国海軍の調査艦ブロッサム号 WEBより拝借
その後のアヘン戦争(1840年~1842年)の勝利により、清国(中国)との有力な貿易拠点となる香港等などの拠点を得たことから、小笠原諸島を領有化する必要性がいつしか消滅してしまいます。
一方米国の動きをみると、米国のフィルモア大統領の親書を携えて日本の浦賀に向っていた米国東印度艦隊を率いるペリー司令官は、その途上の1853年6月14日~6月18日に、小笠原諸島父島の二見湾に立ち寄っています。
ペリー司令官の目的は、米国の遠洋捕鯨帆船の補給基地および清国(中国)に向う米国商船の中継基地の確保でした。ペリー司令官は、小笠原父島のリーダーである米国人ナザニエル・セーヴォレーから石炭貯蔵用の土地を購入し、彼を小笠原諸島の米国植民地政府の責任者に任命しています。
小笠原父島港のペリー来島記念碑 WEBより拝借
さらに米国大統領フィルモア(共和党)と海軍長官に「小笠原諸島を米国の統治下に置くべき」とする「小笠原島報告書」を提出。3年後に刊行された「ペリー艦隊日本遠征記」にも小笠原諸島の統治に関する彼独自の見解を詳述しています。
ペリー艦隊日本遠征記 (英文と和訳本)
しかし第13代大統領フィルモア(共和党)の後任大統領となったピアース大統領(民主党)は、植民地主義反対の方針に則ってペリー司令官の提案を即座に却下します。
日米和親条約によって米国捕鯨船と商船の補給基地として下田港や函館港が確保できるのであれば、小笠原諸島の植民地化は「無用である」との判断だったと思われます。
共和党 フィルモア大統領と民主党 ピアース大統領
英国と米国の動静を鑑みた明治政府(外務卿 寺島宗則)は、1876年10月17日(明治9年)に英国、米国、仏国、独逸(プロシア含む)、露国、オランダ、デンマーク、ベルギー、オーストリア、ペルー、スペインの日本駐在公使と領事に対して、父島列島、母島列島、聟島列島の「島規則」、「港規則」、「税規則」を送付して小笠原諸島の日本領有権を通告します。
その結果12カ国からの異議申し立てがなかったことにより、小笠原諸島の日本領有権が正式に確定し、小笠原諸島の欧米系島民とポリネシア系島民の先住外国人(20戸72人)は、領有化決定から6年後の1882年(明治15年)までの間に順次日本帝国臣民として帰化したと記録されています。(一部のポリネシア系の住人がグアム島に移住したとの説もあり)
日本帝国臣民として帰化した欧米系島民
さらに時代が下って1898年7月24日(明治9年)、日本政府は、小笠原諸島の日本人商人23人がアホウドリの羽毛採集を行っていた小笠原諸島最東端の無人島(南鳥島)を国際法の「無主地先占の法理」に則って日本領土に編入することを閣議決定。一ヶ月後の8月24日の内務省告示によって日本領土(東京府小笠原島庁の所轄)とすることを内外に通告しています。
中濱萬次郞は、南鳥島を日本領土として閣議で決定された5ヶ月後の1898年11月22日(明治9年)にで逝去(71歳)していますが、この閣議決定を生前に知っていたかどうかは定かではありません。
現在の南鳥島は、その排他的経済水域200海里(EEZ)の海底6,000mに眠る世界最大級のレアメタル・レアアースの試掘吸い上げに成功したとして世界的話題になっていますね。
小さな島国の日本(世界61位の領土面積=約377,975 km²)ですが、日本内地の領土面積+日本内地の200海里排他的経済水域(EEZ)+小笠原諸島の200海里のEEZ+最東端の特定離島の「南鳥島」の200海里のEEZ+最南端の特定離島の「沖の鳥島」の200海里のEEZを含めた日本の総保有面積は、447万平方キロメートルとなり、なんと世界第6位の位置づけとなります。
日本の領土+領海+EEZの保持面積=世界第6位 (WEBより拝借)
さらに日本の排他的経済水域(EEZ)は、水深の深い部分が多いために海水の体積(海中空間)の観点からみると、なんと世界第4位になるようです。また最近の大陸棚限界委員会の勧告によれば、約30万平方キロメートルの大陸棚の延長も認められるらしく、これを加えると日本の管轄可能な面積と体積はさらに広がる可能性がありますね。
このようなニュースが彼の世にも届いているとすれば、その端緒となる仕事を担った中濱萬次郞は、きっと草葉の陰で欣喜雀躍しているのではないでしょうか?
次回は、中濱萬次郞が小笠原諸島海域で試みた欧米式捕鯨業について触れてみたいと思います。


















