前回ブログでは、1846年5月、米国捕鯨船フランクリン号の乗員に採用された中濱萬次郞(英名:John mung)が米国東海岸のマサーセッツ州ニューベッドフォードを出帆してから、大西洋➡南米➡太平洋➡インド洋➡大西洋を経て1849年9月にニューベッドフォードに帰港するまでの約3年4ヶ月(1,220日)におよぶ地球一周の長期航海について書きましたが・・・
本日のブログは、時計の針を13年先に進めて、1862年1月3日~1862年4月11日に幕府が咸臨丸で行った小笠原諸島実地踏査の時点から書き起こしたいと思います。時間のジャンプが大きくて困惑されるかもしれませんが、何卒ご容赦ください。
小笠原実地調査団の主目的は、①小笠原諸島父島に定住して独自のコミュニティを築いている欧米系島民とポリネシア系島民の70名に対して、「小笠原諸島は幕府の領土」であることを周知徹底すること。 ②先住外国系島民の詳細な戸籍調査を実施。 ③先住外国島民に対する日本人入植予定者との共生の根回し。 ④小笠原海域の島々の真景図(地図)作成。⑤島内の植生・生物・水産資源の学術調査 ⑥小笠原諸島における近代捕鯨の導入検証・・・等によって小笠原諸島開拓の足掛かりを築くことでした。
1862年、父島二見湾に到着した咸臨丸と107名の幕府調査団 AIによる作画
老中 兼 外国奉行の安藤信正の命令によって編成された107名の小笠原実地調査団(団長:水野忠徳)の英語通詞 兼 海事技術員として参加した中濱萬次郞の役割は、幕府調査団に警戒心を抱く70名の先住外国人(米国人、英国人、イタリア人、デンマーク人、ポリネシア人)に対して、上記①~③のミッションを英語で懇切丁寧に説明して了承を得ることでしたが・・・その経緯は、2026年4月6日と4月24日の拙ブログで書きましたので割愛します。
小笠原諸島が日本領土である事を先住外国人に説く萬次郞 AIによる作画
本日のブログでは、中濱萬次郞が海事技術員として主導的な役割を果たした上記⑥の「小笠原諸島での近代捕鯨の導入検証」に的を絞って進めたいと思います。
中濱萬次郞(英名:John mung)が米国の外洋大型捕鯨帆船のジョンホーランド号(1842年)とフランクリン号(1847年)の水夫をしていた時に立ち寄った小笠原諸島父島二見湾には、70名の先住外国人が定住し、父島に寄港する欧米諸国の捕鯨船に薪水や食材を提供する商売を営んでいました。
当時の小笠原父島の欧米捕鯨船の補給基地 AIによる作画
その後萬次郞(英名:John mung)が、死罪覚悟で日本帰国を目指して琉球の摩文仁海岸に強行上陸して捕縛されたのは、彼がフランクリン号を下船してから4年後の1851年でした。
琉球で捕らえられた萬次郞は、薩摩藩主(島津斉彬)➡長崎奉行(牧志摩守義制)➡土佐藩執政(吉田東洋)による尋問を受けるも、誰からも例外なく萬次郞の貴重な経験と知識、そして彼の誠実な人柄が称えられ、必ずや日本の未来を切り拓く逸材であるとする書状が老中首座 阿部正弘のもとへ逐一届いていました。
萬次郞を褒め称える長崎奉行(牧志摩守義制)の書状 AIによる作画
家柄と関係なく能力重視の人材登用を進めていた老中首座 阿部正弘は、土佐藩で足軽以下の定小者に登用されていた中濱萬次郞を江戸に召喚。彼が米国で得た知識、経験、考えを聴くために、1853年9月から江戸城内本丸中奥の御用部屋や阿部正弘の内幸町の私邸で複数回に亘って聴聞会を開催。その場には、大学頭 林復齋、勘定奉行 川路聖謨、海岸防禦御用掛の江川太郎左衛門(英龍)を含む幕府重臣も列座していました。
老中首座と重臣に海外事情を報告する中濱萬次郞 AIによる作画
聴聞会の席に於いて中濱萬次郞は、小笠原諸島が先住外国系島民と多くの欧米捕鯨帆船によって実効支配されている実情を説明。日本も近代的捕鯨船の保有と基地を構え、欧米列強と互角に競争することを老中首座 阿部正弘と重臣に具申します。
老中首座 阿部正弘は、能力・経験・識見をそなえた中濱萬次郞を「器能抜群なり」と褒め称え、1853年12月7日、将軍直属の旗本(手附御普請役各)として超法規的登用を行い、幕府海防最高責任者江川太郎左衛門の配下とします。
手附御普請役各の御用お書付を受領する中濱萬次郞 AIによる作画
「手附御普請役」とは、本来ならば幕府の城郭や治水等の土木工事を担う下級官僚職ですが、中濱萬次郞に与えられた「手附御普請役格」とは、「御普請役と同じ扶持(給与)を与える」という意味合いの便宜上のポストであり、実際の仕事は、英語の翻訳と国家機密に関わる専門知識の提供、航海術の指導、測量術、造船指導等々でした。
手附御普請役各に補任された中濱萬次郞は、江川太郎左衛門(英龍)の江戸本所亀沢(現:墨田区)の役宅内の長屋に居住し、幕府の外交方英語通詞 兼 外交顧問 兼 海事技術顧問として勤めながら、江川太郎左衛門の江川塾(本所亀沢と芝新銭座)の指導役も率先して担っていました。
江川太郎左衛門と海外事情を語り合う中濱萬次郞 AIによる作画
1857年5月4日、幕府の公式教育機関の軍艦教授所の教授に抜擢され、1860年2月4日からは、米国サンフランシスコに向う咸臨丸の英語通詞 兼 海事技術員として太平洋往復に尽力。帰国後の1860年5月14日に軍艦教授所 教授に復職しています。
軍艦教授所で航海術を講義する中濱萬次郞教授 AIによる作画
江川塾と軍艦教授所で中濱萬次郞から米国事情、英語、航海術、測量術、造船、近代捕鯨の講義に耳を傾けた人々の中には、勝麟太郎(軍艦教授所の筆頭教授)、桂小五郎(木戸孝允)、大鳥圭介(幕府陸軍歩兵奉行)、榎本武揚(幕府海軍総裁)細川潤次郎(法学者)、箕作麟祥(民法学者)、福地源一郎(新聞主筆)、福沢諭吉、幕府艦船の士官等々、日本の近代化に尽くした多くの人材がいました。
江戸芝新銭座の江川家の教場( 砲術調練場)の跡地は、1868年(慶應4年=明治元年)に江川家から譲り受けた福沢諭吉が、当時の元号の「慶應」を冠した「慶應義塾」を開設しています。
話を老中首座 阿部正弘と中濱萬次郞の時代に戻しましょう。
老中首座 阿部正弘が中濱萬次郞の熱望する「小笠原諸島での近代的捕鯨産業の導入提案」を受け入れた背景には、1854年の日米条約締結交渉の場で、幕府全権大使 林大学頭(復齋)に対して米国東インド艦隊 ペリー司令官が言い放った「小笠原諸島は、既に購入済なので米国領である」という驚くべき発言が影響していたのではないでしょうか。
1854年の日米和親条約締結交渉の場でのペリー司令官の発言 AIによる作画
「小笠原諸島は米国が占領・購入したので既に米国領である」
実はペリー東インド艦隊司令官は、第一回日本遠征艦隊(1853年7月8日〜7月17日)の四隻が琉球王国の那覇沖に集結するまでの待ち時間を利用して、1853年6月14日〜6月18日にかけて外輪蒸気艦サスケハナ号(旗艦)と帆走艦サラトガの二艦だけで小笠原諸島父島(Peel Island Bonin Islands)を訪れ、米国艦隊専用の補給倉庫の敷地(418,064㎡)を購入していたのです。
ペリー司令官は、既成事実化を進めるために、父島の住民代表の Mr.Nathaniel Savory (米国人)を米国海軍の正規委託管理人とし、艦隊のジョン・スミス水夫を駐在員として父島に配置。さらに近隣の母島に出向いて米国領有宣言の標識鈑を立てて小笠原諸島の拠点化を着々と進めていたのです。
小笠原諸島母島に米国領有宣言鈑を立てるペリー艦隊士官 AIによる作画
老中首座 阿部正弘は、中濱萬次郞が熱く語る「欧米の捕鯨帆船が自由に鯨を捕獲している小笠原諸島に日本人を入植させて日本捕鯨産業の基地を構築したい」を聴いて、日本の海防強化と経済的利権を守ることに繋がるとして強い興味を抱いたと思われます。
しかし攘夷を唱える水戸藩(徳川斉昭)によって「米国の手先の中濱萬次郞が誘導している」と警戒されて萬次郞の提案は宙ぶらりん状態となり、1857年の老中首座 阿部正弘の急死(39歳)によって中濱萬次郞の計画は完全に消えたかに見えたのですが・・・
阿部正弘の後任となった老中首座 久世広周と老中 安藤信正(外国御用取扱)は、初代外国奉行の水野忠徳を団長とする107名の小笠原諸島調査隊を乗せた咸臨丸の派遣(1862年1月4日〜1862年4月中旬)を決行します。
安藤信正から小笠原諸島調査団長を命じられる水野忠徳 AIによる作画
提案者の中濱萬次郞も小笠原諸島調査隊の外務方英語通訳 兼 案内役 兼 海事技術者として同行。旧知の先住外国島民の代表者Mr.Nathaniel Savory (米国人)に英語で日本領であることを宣言し、先住外国島民の財産所有権と希望者の日本帰化も認めることを約束した経緯は、前回の拙ブログで既述しました。
旧交を温める萬次郞と住民代表のMr.Nathaniel Savory AIによる作画
次回以降のブログでは、中濱萬次郞が小笠原諸島父島を日本初の近代式捕鯨基地とするために、現地外国島民の代表者 Mr.Nathaniel Savory の協力を得て第一歩を踏み出したことについて書きたいと思います。












