前回のブログでは、中濱万次郎の「大失敗の航海」をご紹介しました。
1859年夏、幕府が建造した日本初の小型西洋式帆船「君沢型壱番船(70トン)」の船長 中濱万次郎は、小笠原諸島海域での日本初となる米国式捕鯨の試験航海に乗り出します。
しかし伊豆諸島南端辺りで猛烈な大時化に遭遇。軍艦教授所の教授と教習生の殆どが重度の船酔いで倒れて操船不能に陥ります。船長の中濱萬次郞は、沈没の危機を避けて下田港へ引き返すほかありませんでした。
↑↓ 難破寸前の君沢型壱番船 作画:Gemini AI

しかし試験航海に大失敗した中濱満次郎は、幕府から咎められる事もなく、軍艦教授所の教授として復職しました。万次郎が処分を受けなかったのは、試験航海を許可した勘定奉行の水野忠徳が「猛烈な嵐から一人の犠牲者も出さずに生還できたのは、中濱万次郎の卓越した操船技術によるものだ」と評価したためでした。
1860年1月中頃、駐日弁理公使(初代米国総領事)タウンゼント ハリスは、日米修好通商条約の批准書交換のために幕府の遣米使節団を米国ワシントンに派遣することを大老 井伊直弼に提案。幕府使節団の渡米のために米国海軍東インド艦隊所属の蒸気フリゲート艦ポーハタン号(排水量3825噸)を迎船として提供することを申し入れします。
WEB写真をGemini AI で彩色
大老 井伊直弼は、駐日弁理公使タウンゼント ハリスの提案を受けて、外国奉行 兼 神奈川奉行に着任したばかりの新見正興を正使とする使節団77名をポーハタン号で派遣するることを決定します。
幕府使節 副使 村垣範正、正使 新見正興、監察 小栗忠順 WEB写真をAIで彩色
タウンゼント ハリスは、日米修好通商条約調印の交渉相手だった堀田正睦(老中首座)と岩瀬忠震(目付・外交事務責任者)の派遣を強く希望したのですが、両名は安政の大獄によって罷免・蟄居・隠居となり幕府使節団から排除されたことを知って怒り心頭だったことが伝わっています。
さらに大老 井伊直弼は、日本の操艦技術を米国に見せつけるために、日本人だけで運行する咸臨丸をポーハタン号の随行護衛艦としてサンフランシスコへ派遣することを決定。咸臨丸提督に軍艦奉行の木村摂津守喜毅、艦長格に軍艦教授所の教授筆頭 勝麟太郎(海舟)を任命します。
咸臨丸の提督を命じられた 木村摂津守喜毅は、軍艦教授所 教授方の中濱萬次郞を英語通詞 兼 海事技術者(航海士)として咸臨丸に乗艦させることを大老 井伊直弼に強く願い出て許可されます。捕鯨の試験航海で大失敗して失意の淵に沈んでいた中濱万次郎にとっては、願ってもない好機だったろうと思います。
WEB写真をベースにしてGemini AIでカラー写真化
日本人だけで運行する咸臨丸の派遣を知ったタウンゼント ハリスは、「沿岸を航行する地乗り航法(地文航法)レベルの日本人が、未経験の星や数式を扱う外洋航法(天体観測航法)をすれば遭難間違いなしとして猛反対します。
タウンゼント ハリスに言われるまでもなく、日本人乗員だけで広大な太平洋を航海することに危機感を抱いていた咸臨丸艦長 木村摂津守喜毅は、米国へ帰国する便船を待っていた米国海軍のブルック大尉と部下の10名を水先案内役として咸臨丸に同乗させることを、前もって大老 井伊直弼に願い出て許可を受けていました。
咸臨丸に同乗したブルック海軍大尉と部下10名 作画:Gemini AI
1860年3月17日、米国サンフランシスコを目指して江戸品川を出帆した咸臨丸(排水量625噸)は、最短距離となる大圏航路(北回り航路)を選択したのですが・・・ブルック大尉の航海日誌によると、サンフランシスコまでの往路日数41日間の中で天気晴朗だったのは4日間だけだったことがわかっています。
ブルック大尉の右腕として咸臨丸で働いた中濱萬次郞 作画:Gemini AI
その後の咸臨丸の航海は、北太平洋の低気圧に巻き込まれて壮絶な航海となります。その凄まじさは、捕鯨試験航海で沈没の危機に瀕した沢型壱番船(70噸弱)が被った波浪よりも数倍以上の凄まじい大時化でした。
大荒れの大圏航路で波浪に揉まれる咸臨丸 WEB写真をAIで修正加工
猛り狂う怒濤に遭遇した咸臨丸の日本人乗員96名(提督、艦長格、士官、瀬戸内出身の水主、幕府外交方の役人、医師、従者)は、立場を問わず重度の船酔いと恐怖に苛まれ、職務を果たせる者など皆無という窮地に陥ります。
中濱萬次郞の脳裏には、かって捕鯨の試験航海で大失敗を喫した君沢型壱番船(70噸弱)の惨状が脳裏に蘇ったのではないでしょうか。

船酔いと恐怖で職務を果たせない日本人乗員 作画:Gemini AI
ブルック大尉の航海日誌によれば、この大時化の危機を乗り越えてサンフランシスコへ到着できたのは、ブルック大尉の部下10人と唯一の日本人 中濱萬次郞だったことが分かっています。その時の日本人乗組員の惨めな顛末については、すでに過去の拙ブログで投稿済ですので此処では割愛します。
咸臨丸の往路航海を担った米国人11人と中濱萬次郞 作画:Gemini AI
サンフランシスコに到着したブルック大尉は、米国人11人と中濱萬次郞が必死で操船した事実を一言も語りませんでした。それどころか、日本人乗員の名誉を慮って、「航海を成功させたのは日本人である」と語り、米国新聞は「日本人による初の太平洋横断の壮挙!」と書き立てて大絶賛します。
後日談ですが、ブルック大尉は、太平洋往路を記録した自分の航海日誌の公開を、自分の没後50年間封印することを家族に厳命していました。
その結果、咸臨丸の往路航海を実際に担ったのが米国海軍の11人と日本人は中濱萬次郞だけだったという事実が明らかになったのは、咸臨丸の太平洋横断および日米修好通商百周年の節目にあたる1960年(昭和35年)でした。
ブルック大尉の遺族によって公開された航海日誌 作画:Gemini AI
井伊直弼の暗殺(1860年3月24日)により幕政の最高権力者となった老中 安藤信正(磐城平藩主)は、欧米諸国との間で領有権が曖昧になっていた小笠原諸島(英名:Bonin Islands)の実効支配を急ぐよう、軍艦奉行の木村摂津守喜毅に命令。
1861年12月、木村摂津守喜毅は、外国奉行の水野忠徳を団長とする100余名の小笠原諸島調査団を、咸臨丸で現地へ派遣することを決定。調査団の目的は、1⃣父島に定住していた欧米・ポリネシア系住民(約70名)に小笠原諸島が日本領であることを通達 2⃣小笠原諸島の詳細な測量と海図作成 3⃣現地での殖産事業として米国式捕鯨の可能性を検証することでした。
木村摂津守喜毅と水野忠徳は、父島に定住する外国人住民70名へ幕府の統治と規則を受け入れさせるため、現地リーダーの米国人 ナサニエル・セボリーと英語で直接対話できる「唯一無二の存在」として中濱萬次郞を指名します。
小笠原諸島調査団一行は、咸臨丸で品川沖を1862年1月4日に出港。同年3月20日に品川沖合に帰港。中濱萬次郞が小笠原諸島で果たした業績については、過去の拙ブログで投稿済ですので此処では割愛します。
父島の日本領有権を先住外国人に説明する中濱萬次郞 作画:Gemini AI
咸臨丸が小笠原諸島調査を終えて品川沖に戻ってから一ヶ月後、老中首座 安藤信正(磐城平藩主)配下の水野筑後守忠徳(外国奉行 )と小栗上野介忠順(勘定奉行)は、小笠原諸島の実効支配を促進する具体策として、小笠原諸島への物資補給および父島近海での米国式捕鯨の実施を決定。江戸から小笠原への物資補給航路開拓と米国式捕鯨事業の推進責任者に任命されたのは、日本の捕鯨パイオニアとして期待されていた中濱萬次郞でした。
小笠原諸島の開拓に向け、幕府勘定所と中濱萬次郞は、越後の廻船問屋 平野廉蔵が洋銀1万ドルで購入していた「壹番丸」(旧名:Eleanor号)を借り上げます。Eleanor号とは、横帆2枚と縦帆1枚を備えたフルリグドシップ型の英国で建造された貨物帆船でした。
英国製の貨物帆船 エレノア号 総噸数 200噸(復元) 作画:Gemini AI
余談ですが、英国の貨物帆船「Eleanor号」には有名な歴史的エピソードがあります。米国独立革命の契機となった「ボストン茶会事件」です。ボストン港に停泊していた「Eleanor号」を含む英国東インド会社の3隻が米国人に急襲され、積み荷のお茶342箱が海へ投げ捨てられる事件が勃発。
この事態に激怒した英国政府は、対抗措置として植民地ボストンの自治権を剥奪。これに反発した米国側との対立が一気に深まり、1775年のアメリカ独立戦争開戦へとつながったことを、歴史の教科書で習ったことを思い出しました。
英国船の積み荷の茶箱を海に投げ捨てる米国人 WEB写真を拝借
話を本筋に戻します。
外国奉行の水野筑後守忠徳と勘定奉行の小栗上野介忠順から「壹番丸」の船長に任命された中濱萬次郎は、小笠原・父島近海での本格的な捕鯨実習に先立ち、1862年4月に小笠原諸島への物資補給航海を開始しました。これは、外洋の波濤に慣れていない日本人乗組員の訓練も兼ねたものでした。
その後1862年12月から捕鯨事業を見据えた外洋訓練を数回にわたり実施。翌1863年5月14日、愈々父島近海での米国式捕鯨の実習航海に向けて、品川沖を出港しました。
その首尾については、次回で触れたいと思います。












