前回の粗筋
日米修好通商条約の調印や将軍継嗣問題をめぐって幕府内が大混乱していた1858年6月4日(安政5年4月23日)、大老 井伊直弼(第13代彦根藩藩主)の登場によって時代の様相が一変。世に言う「安政の大獄」の始まりです。
1858年8月2日、日米修好通商条約の調印を断行した大老 井伊直弼は、それまで外交交渉を主導していた老中 堀田正睦に違勅調印の咎(スケープゴート)を負わせて罷免。続いて1858年10月3日、勘定奉行 川路聖謨を閑職の大奥担当に左遷した後に蟄居から隠居に追い込み、両名を幕政の世界から追放してしまいます。
中濱満次郎の恩師 第36代江川太郎左衛門(英龍)の急逝、そして有力な後ろ盾だった老中首座 阿部正広の急逝に続き、庇護者であった老中 堀田政睦と勘定奉行 川路聖謨も追放されたことにより、頼るべき光を失ってしまった中濱萬次郞は、まさに激動の幕末の渦中で四面楚歌の窮地に追い込まれてしまったかに見えたのですが・・・ここから予期せぬ逆転劇が始まります。
1859年6月18日(安政6年5月18日)、外国奉行と勘定奉行を兼務していた水野忠徳は、本格的な米国式捕鯨事業を小笠原諸島近海(基地:父島)や蝦夷地近海(箱館:基地)で試験的に実施するために、中濱満次郎を「鯨魚御用」(捕鯨総監督)に任命します。此の人事には幕府最高責任者の大老 井伊直弼も関わっていたと思います。
水野忠徳から鯨魚御用に任用される中濱満次郎 Google AIによる作画
大老 井伊直弼の米国式捕鯨導入計画に対する見解は、「西洋式の大型捕鯨船で外洋の荒海に出ることによって、近代的航海術と乗船経験は、必ずや我が国の海防能力の強化となり、それがそのまま近い将来の日本海軍の基盤となって我が国の国防力の強化に繋がるとの観点から積極的に評価していたと思われます。
中濱萬次郞の強力な後見者であった老中 堀田政睦と勘定奉行 川路聖謨が殆ど同時に大老 井伊直弼によって政治の舞台から追放された後も、中濱萬次郞が捕鯨計画を継続できたのは、彼が政治的存在ではなく、国益にかなう極めて希少性の高い専門知識を身につけた普請役各(専門性の高い技術屋)と目されていたからだろうと思います。
普請役各として鯨魚御用の仕事に精励する中濱満次郎 作画:Google AI
鯨魚御用(捕鯨総監督)を命じられた中濱萬次郞は、自分が船長をしている「君沢型壱番船」を江戸石川島造船所に入渠して米国式捕鯨船仕様の艤装を施し、外洋での米国式捕鯨漁と最新の天文航海術や運用術を習得できる日本初の捕鯨船を兼ねた小型練習船(総噸数約70トン)に改造します。
日本初の捕鯨船を兼ねた航海練習船「君沢型壱番船」 作画:Gemini AI
米国式捕鯨仕様とは、①鯨を追いかけるためのクリンカー張りの手漕ぎの専用小型ボートを舷側に搭載。② 鯨を突取る手銛(harpoon)や頑丈な捕鯨ロープの装備。③当時の最先端の米国式捕鯨銃(harpoon gun)の採用。④米国式捕鯨船の最大の特徴である捕獲した鯨から得る脂肪等を船上で煮て「鯨油」にする煉瓦造りの土台+鉄製の搾油釜+煙突がフルセットになった船上搾油装置(tryworks)。⑤鯨油を保管する木樽(oil cask)等々の装備と器具です。
米国式捕鯨船の船上搾油設備装置(tryworks) 作画:Gemini AI
小笠原海域の捕鯨実習航海に向かう君沢型壱番船の乗組員(20名~30名程度)の多くは、幕府の軍艦教授所(後の軍艦操練所)で学ぶエリート意識の高い伝習生(武士)と長崎海軍伝習所を卒業して間もない教授方でした。伝習生も教授方も座学中心の優等生ばかりで、荒海での航海経験は無きに等しい面々ばかりでした。
伝習生や教授の技術レベルを思うと、江戸品川から遙か1,000km先の小笠原諸島に航海することは、極めて難易度の高い航海だったのですが・・・1859年夏、船長の中濱萬次郞は、日の丸と徳川幕府の船を示す白地に黒の一本線の大中黒旗を船尾に掲げて江戸品川から小笠原諸島海域へ向けて出帆します。
江戸品川から小笠原諸島海域へ出帆する君沢型壱番船 作画:Gemini AI
品川を出港して伊豆諸島海域を通過するまでは順調な航海でしたが、八丈島付近に至ると激しい暴風に遭遇。横揺れと縦揺れを絶え間なく繰り返す木造船体は、次第に波浪の衝撃に耐えかねて彼方此方から浸水が始まり、遂には波浪を船尾から受ける危険な状態に陥ります。
激しい波浪に苛まれる君沢型壱番船 作画:Gemini AI
外洋の荒波を初めて経験した伝習生や教授方の多くは、酷い船酔いとなって嘔吐を繰り返して胃液も吐きつくし、足腰の力も抜けて甲板上に這いつくばって体力を喪失。辛うじて頑張っている数人の教授方の危険回避の指示にも全く対応出来ない壊滅的状況に追い込まれます。
酷い船酔いで甲板上に蹲る伝習生 作画:Gemini AI
船体の耐久性と伝習生の危機的状況から、このまま航海を続行すると全員の命が失われると判断した船長の中濱萬次郞は、小笠原海域への航海を断念して下田港へ引き返す苦渋の決断をします。
中濱萬次郞が航海中止を判断した緯度・経度の記述は定かではないのですが、海洋学者の研究によれば、「江戸品川から約250km〜400kmの南の海上」だったと推測されているようです。江戸から小笠原諸島まで約1000kmですので、その半分にも到達していなかったことになります。
品川~小笠原諸島父島の距離と引き返し位置 WEBをPower Pointで改訂
間に合わせで建造された日本製の木造小型西洋式帆船「ヘダ号」(70噸弱)を改造した「捕鯨練習船・君沢型壱番船」で、軍艦教授所の伝習生(武士)に西洋航海術と帆船操縦術を実地で教えながら小笠原諸島へ向かい、現地で近代捕鯨を開拓するという中濱萬次郞の壮大な目論みは、船体の強度不足、伝習生の未熟な技術、教授方の経験不足、そして船長 中濱萬次郞の読みの浅さも相まって大失敗という苦い現実を突きつけられてしまいました。
中濱萬次郞は、この時の失敗を次のように記述しています。
① 伝習生の教育が「座学偏重」で「実地訓練不足」。②教授方も伝習生も洋式帆船の操船技術未熟。③荒天時の迅速な縮帆作業の訓練不足により主帆や船体が激しく損傷。④伝習生も教授方も酷い船酔いで作業遂行不能。⑤結果として、船長の萬次郞が一人で操舵するという異常事態に陥って完全に指揮命令系統が崩壊。
大失敗をした中濱萬次郞は、水野忠徳(外国奉行 兼 勘定奉行)に対して、将来の優秀な海軍兵育成と捕鯨乗組員を育成するには、まず荒海に耐えられる大型の米国式大型帆船を購入し、軍艦教授所の伝習生(武士)だけでなく民間人も加えて、危険な荒海に何度も船を出して実地訓練を重ねることによって最強の乗組員を育成する以外に道はないと計画の続行を申し述べます。
水野忠徳への失敗報告と計画続行を願い出る中濱万次郎 作画:Gemini AI
水野忠徳(外国奉行 兼 勘定奉行)は、大老 井伊直弼の了解を得て、中濱萬次郞の大型の米国帆船の購入検討と小笠原諸島における捕鯨計画の練り直しと続行を許可します。
次回に続きます。









