(前回の粗筋)1853年8月1日、老中首座 阿部伊勢守正弘から米国帰りの漂流漁民 萬次郞を江戸へ派遣するように指示を受けた土佐藩主 山内容堂は、土佐藩下級藩士(徒士格)として登用したばかりの萬次郞に江戸行きを命じます。ペリー司令官の率いる米国東印度艦隊の黒船4隻が第二回目の来航を予告して江戸湾を去ってから僅か2週間後の事でした。

 

尊皇攘夷の緊迫した時期でもあり、米国帰りの萬次郞の江戸行きは、土佐藩と幕府役人に守られての窮屈な旅路だったと思われますが、約30日後の8月30日に江戸鍛治屋橋の土佐藩上屋敷に無事到着します。

 

老中首座 阿部正弘が米国➡琉球➡薩摩➡長崎➡土佐に帰国した漂流漁民の萬次郞に強い関心を抱いた最初の切っ掛けは、萬次郞を取り調べた長崎奉行の牧志摩守義制が嘉永5年(1852年)6月に後任の大沢左兵衛基哲へ宛てた申し送り状に記載されていた「萬次郞儀、頗る英邁で怜悧にして国家の用となるべき ものなり」であったことを以前の拙ブログで書きましたが・・・その内容をもう少し現代語訳で詳らかにすると・・・

 

「外国から戻った漂流民は厳しい監視下に置かれます。但し萬次郞については決して粗略に扱うことなく、彼の知識を積極的に活用すべきであります。緊迫した対外情勢の今こそ、萬次郞が持つ英語能力や海外事情の広範な知識や非凡な才能は、"日本の国益にとって不可欠な宝"となります」

 

 

その後萬次郞を土佐から江戸に召喚(招聘?)して聴聞することを老中首座の阿部正弘に強く提言したのは、外交責任者の林大学頭(復齋)、外務官僚の川路左右衛門尉、吟味役格海防政策を担当する江川太郎左衛門、蘭学者の大槻磐渓でした。

 

阿部正弘を含む幕閣の面々は、土佐藩の江戸屋敷に滞在している萬次郞を各自の屋敷に召喚して、彼が10年余の米国生活で得た西洋の科学的知識や最新情報の根源を逐一詳細に時間をかけて問い質します。ところが萬次郞が語る内容のレベルは想像以上に高く、幕閣の繰り出す執拗な質疑に対する応答も丁寧且つ理路整然としていて幕閣の面々を感嘆させます。

 

 

老中首座 阿部正弘(左)  林復齋(大学頭)(右)

 

特に吟味役格を仰せつかっている江川太郎左衛門、萬次郞が10年余に及ぶ米国生活で修得した高等数学、天文航海術、気象学、造船学、西洋船の運用学、海洋測量学、海図制作、砲術学、米国共和政治州(現:米国合衆国)の政治、大統領制、民主主義、米国の産業構成、法律制度、教育制度、地理、歴史、風俗、世界地図と地政学等々の幅広い知識、更に大型外洋捕鯨船の一等航海士(副船長格)として北大西洋、南太平洋、北太平洋を航海した彼の経験を高く評価します。

 

 

江川太郎左衛門(左) 帰国時の萬次郞(右)

 

阿部正弘から洋式軍艦建造の指示を受けていた江川太郎左衛門は、土佐藩上屋敷に逗留している萬次郞を自分の手代として登用し、自分の屋敷内の長屋(墨田区亀沢)に在住させて洋式軍艦建造の研究を共に行いながら、江川塾教授として塾生の教育も担わせたいと阿部正弘に願い出ます。

 

江川太郎左衛門の願望を聴いた阿部正弘は、萬次郞を土佐藩から引き離して幕府直参の旗本に登用するという超法規的対応を画策し、土佐藩江戸留守居役の原半左衛門を役宅に呼びつけます。

 

萬次郎儀、此度御直参被召上候に付、身柄を以速やかに御府内へ差出候様、申渡すものなり。

(萬次郎儀、此度御直参として召し上げられ候に付、身柄を以て速やかに御府内へ差し出すべく、申し渡すものなり。)

 

土佐藩主 山内容堂も阿部正弘からの命令とあっては了承せざるを得ません。かくして萬次郞は、幕府の直参旗本として正式に登用されることになります。

 

直参旗本となった萬次郞の表向きの役職は、最下級の普請役格(工事現場の監督役)でしたが、実際の仕事としては、江川太郎左衛門の江戸屋敷を訪れる首席老中 阿部正弘、林大学頭(復齋)、川路左右衛門尉等の幕閣面々からの諮問に応えたり、江川太郎左衛門の仕事を支援することでした。

 

江川太郎左衛門の江戸屋敷跡(墨田区亀沢)  WEBより拝借

 

江川太郎左衛門の江戸屋敷には、高島流砲術、大砲鋳造の冶金学等を教える「江川塾」、そして英語、海外事情、高等数学、天文学、航海術、」測量術等を教える「中濱塾」が併設されていて、幕末から明治にかけて日本を牽引することになる佐久間象山、橋本左内、木戸孝允、大槻磐渓、大島啓介、榎本武揚、大山巌、福沢諭吉、岩崎弥太郎、西周等の蒼々たる人材が三千人余も訪れたそうです。

 

  

幕府直参 榎本武揚(左) 土佐藩士 岩崎弥太郎(右)

 

歴史資料によっては、萬次郞名字帯刀を許されたのは、幕府の直参旗本に登用された時からとする記述もあるのですが・・・僕としては、萬次郞が土佐藩の徒士格に登用されて名字帯刀を許された時に自ら中濱を以って其姓となした」(1853年1月21日付けの記述)と記載されている土佐藩の公文書巽紀畧」の記録を信頼したいと思います。

 

巽紀畧」 著:河田小龍

 

直参旗本に登用された 中濱萬次郞(普請役格)の年俸は、約25石(切米20俵二人扶持)でした。土佐藩時代の年俸約10石(五石二人扶持)よりも大幅アップとなりました。しかし中級武士の年俸100石と比較すると随分と大きな差がありますね。

 

次回ブログでは、幕府直参旗本となった中濱萬次郞の仕事ぶりを書きたいと思います。