異国からの違法帰国者として薩摩藩邸内の一室で47日間に及ぶ初歩的取り調べを終えた萬次郞ら三人は、薩摩藩による特段の処置を受けることなく、幕府直轄領の長崎奉行所公式尋問を受けるために海路で長崎奉行所立山役所へ護送されることになります。

 

長崎奉行所立山役所の職掌範囲は、長崎直轄領内の行政関連、外交関連、貿易統制関連などですが、海外からの日本人漂流民の送還や帰還の取り調べ業務も含まれていました。

 

1851年10月24日夕方、薩摩藩から長崎に護送された海外帰還者の萬次郞ら三人は、長崎奉行所立山役所内の武士、僧侶、神官、医師、海外漂流民の未決囚を収容する「揚がり屋」に入れられ、翌日から禁令の日本人漂流民の海外帰還者としての司法審判を受けることになります。

 

長崎奉行所立山役所(現:長崎歴史文化博物館周辺) WEBより拝借

 

萬次郞の後日談によると、米国から持ち帰った英文書籍、書付類、砂金銀、鉄砲、弾丸、火薬、船具、八分木、異国の骰子、デニムのジャケットとパンツ、カーボーイハットなど全て没収されたようです。

 

しかし没収された砂金銀は、その代価として日本銀を与えられ、没収された英文書籍は、自由に借りだして読むことが出来たと語っています。

 

さらに長崎奉行所の公的記録には、萬次郞等三人は、囚われの身であるにも拘わらず、奉行所の許可を得て、長崎市内の神社(金比羅山、祇園社、伊勢宮、松森社)や仏教寺院(大音寺、大光寺、崇福寺、清水寺、大徳寺)を何度も参詣して息抜きをしていた事が記されています。

 

金比羅神宮からの長崎市内の眺 (WEBより拝借)

 

特に海上守護の神様(航海の安全と漁業の守護神)を祀る金比羅神社には、拘禁中に5回も通って祈願しています。俺たちは断じてキリスト教徒ではなく、神道の信徒でもあるという示威行為だったのかもしれませんね。

 

何れにしても長崎奉行所の萬次郞ら三人に対する待遇は、随分と寛大な処遇のように見えるのですが・・・これは薩摩藩主 島津斉彬長崎奉行の牧志摩守義制に宛てた萬次郞に関する送り状の内容が効を奏したのではないでしょうか。

 

萬次郞が儀、利発にして覇気あり。将来必ずやお国のために役立つ人材であるがゆえ、決して粗相に取り扱われぬように・・・云々(以下省略)

 

 

とは言っても萬次郞ら三人に対する長崎奉行所での実際の吟味は、薩摩藩のように藩邸内の一室という賓客的対応ではなく、御白州の砂利に敷かれた筵に座らされて、1635年(寛永12年)発令の「寛永禁令」の違反容疑者として、約10ヶ月間で18回に及ぶ厳しい尋問を受けることになります。

 

長崎奉行所立山役所の御白州での尋問 (WEBよリ拝借)

 

寛永12年の「禁令」には幾つかの罰則がありますが、萬次郞ら三人に該当する嫌疑は下記の三項目に絞られると思います。有罪となれば「死罪」の判決が下る犯罪と言えます。

 

①日本船の海外渡航禁止異国え日本の船これを遣すの儀、堅く停止の事)

②日本人の海外渡航禁止日本人異国え遣し申す間敷候。若忍び候て乗渡る者ハ死罪

③日本人海外出国者の帰国禁止異国え渡り住宅仕り之有る日本人来り候ハゞ死罪

 

上記項目の他にも、江戸幕府が1613年に発令したキリスト教禁止令に従って、キリスト信者と非信者を即座に判別する方式として長崎奉行所が1628年から導入しているキリスト像やマリア像を足で踏みつける「踏絵」も萬次郞ら三人に対して行われています。

 

 

長崎奉行所でのキリスト教聖画像の踏み絵

 

萬次郞ら三人に対する長崎奉行所での18回にもおよぶ尋問内容の公式記録は、長崎奉行犯科帳内の「嘉永四年 亥二番唐船ヨリ送来候漂流日本人一件」に詳録されています。

 

それによると萬次郞は、漂流の経緯、米国で学んだ英語、航海術、西洋文化、自由と民主主義などの知識と価値観、米国捕鯨帆船の副船長として職業経験、帰国に至った経緯などを包み隠さず率直に述べているのですが・・・

 

長崎奉行所犯科帳 (WEBより拝借)

 

執拗に吟味された「キリスト教徒ではないか?」の尋問には、「我ら三人とも、外国逗留中邪宗門等学び候儀は勿論、右体の儀被勧候儀無之。如何と心付候儀も毛頭無御座候」と完全否定しています。

 

萬次郞自身は、米国マサーセッツ州で親代わりの捕鯨船長の家族と共に生活していた初級・中級学校時代には、キリスト教のユニテリアン教会に通っていたのですが、それについては完黙しています。

 

ユニテリアン教会とは、伝統的な主流派のキリスト教の三位一体説を否定し、神の唯一性を強調するユニテリアン主義に基づくキリスト教一派なので、キリスト教主流派からは、正統なキリスト教ではないと見做されていたようですが・・・そのような詳細を長崎奉行や与力に語ることは身を危うくするだけなので・・・只管に「我らは一向宗徒であります。」と明確に言い切っています。

 

長崎奉行所での約10ヶ月間の拘留で18回に及ぶ取り調べを受けた萬次郞ら三人に対する尋問記録が記された「長崎奉行犯科帳第134冊事件番号57」の最終判決には次のように明記されています。

 

「彼国ニ而切支丹宗門勧ニ逢候儀無之、疑敷筋も不相聞間、無構国元江差帰ス条難有存へし、尤土佐守領分より外猥ニ住居いたす間敷」

 

翻訳:「外国に於いてキリスト教を勧められる事もなく、疑わしいところもないので"お構いなし"として土佐国へ帰すのでありがたく思え。但し土佐藩より外に住むことは禁止する。

 

つまり萬次郞、伝蔵・五右衛門の三人は、キリスト教徒になっておらず、帰国を強く望んでいる事が確認されたので無罪放免とする。但し住居場所は土佐藩内に限定するとの判決が下されたのです。

 

長崎奉行の牧志摩守義制は、萬次郞ら三人の判決に際して、幕府老中首座の阿部正弘に対して「萬次郞儀、頗る英邁で怜悧にして国家の用となるべき ものなり」と絶賛する報告書を提出しているのですが、これが後に萬次郞が江戸幕府に召喚される要因となります。

 

当時の土佐藩は、幕府直轄領の長崎に藩邸を持っていなかったので、長崎奉行所は、1852年8月8日に土佐藩御用達商人の西川三次郞に萬次郞ら三人の身体を引き渡します。予め連絡を受けていた土佐藩から13人の役人、医師二名、萬次郞の故郷中浜村の代表一名、伝蔵と五右衛門の故郷宇佐浦組頭一名の総勢17名が萬次郞ら三人引き取りのために長崎に到着していました。

 

1852年8月10日、萬次郞ら三人と迎えの17名を含む総勢20名の一行は陸路で出発。長州藩の下関から瀬戸内海を2日間航海して伊予松山藩三津浜へ到着 。ここから陸路で松山を経て8月25日土佐藩に到着しています。琉球上陸から既に19ヶ月が経過していました。

 

土佐到着後のことは次回にしたいと思います。