1842年5月27日、John Mung(萬次郞)が乗船している米国捕鯨船フランクリン号は、マリアナ諸島海域で抹香鯨の捕鯨をしてから、小笠原諸島の父島二見湾(Port Lloyd Peel Island)に寄港して10日間滞在。父島に定住する外国系島民約30人のリーダーを担う米国人ナサニエル・セーボレーの協力を得て薪水や食材の補給を行うとともに乗組員の休養を行っています。
小笠原諸島父島に碇泊する米国捕鯨船フランクリン号 AIによるイラスト
米国東海岸マサーセッツ州ブラッドフォード出身のナサニエル・セーボレー氏は、元米国捕鯨船の水夫をしていたのですが、1829年にホノルル港で小指失う大怪我をして下船退職。
怪我から回復した彼は、1830年に仲間の白人4人(米国、英国、伊国、デンマーク)と15名のポリネシア人と共に、新天地を求めて小笠原諸島の無人島だった父島( Port Lloyd Peel Island)に渡って定住。仲間と共に父島や母島等の開発に励みます。
父島に上陸したナサニエル セボーレを含む20名 AIによるイラスト
John Mung(萬次郞)は、ナサニエル・セーボレー氏と父島で生涯を通して四回出合うことになるのですが、最初の出合は、鳥島で米国捕鯨船ジョン ハウランド号に救助されて父島に寄港した1842年5月27日。今回(1847年3月)が二回目の出合いとなります。
米国東海岸のマサーセッツ州出身の元捕鯨船乗りのナサニエル・セーボレー氏とマサーセッツ州の小中学校と海事技術専門学校時代を過ごしたJohn Mung(萬次郞)の二人は、二度目の出合いということも相まってすっかり意気投合したようです。
父島の海岸で語り合うセボーレとジョンマン(萬次郞)AIによるイラスト
父島で10日間の補給と休養を終えたフランクリン号は、その後も東南アジア海域で抹香鯨を追いかけて順調な航海を続けていたのですが・・・次第にアイラン デービス船長が意識混濁や現実認識能力喪失の症状が見られるようになり、遂には重症の精神錯乱状態に陥るという事態になります。
船長の補佐役であるアイザック・ エーキン一等航海士は、緊急措置としてスペイン植民地のマニラ港に緊急入港。米国領事館の指示によりデービス船長の入院措置を講じます。
精神錯乱を発生したアイラン デービス船長 AIによるイラスト
アイラン デービス船長の下船により、フランクリン号の新しい船長は、順送り人事のルールに従って、一等航海士のアイザック・ エーキンが昇格。乗員一同から祝福の拍手で迎え入れられます。
新船長のアイザック・エーキンを祝福する乗組員 AIによるイラスト
アイザック・ エーキン新船長は、抹香鯨を捕える小型ボート艇長(Boatheader)の右腕として、最初の銛を鯨に打ち込む銛打ち役と舵手役を担う「Boatsteerer」に、20歳を越えたばかりの萬次郞を抜擢します。

“Boatsteerer”に昇格して乗員から祝福される萬次郞 AIによるイラスト
過去の拙ブログでは、作家 山本一力氏と萬次郞のお孫さんの中濱博氏の記述内容、1⃣船員一同の選挙を実施した。2⃣一等航海士アイザック・ エーキンと一等水夫の萬次郞が同票数だった。その結果として、3⃣年長のエーキンが船長に昇格。萬次郞が一等航海士に就任した。との説に従っていたのですが・・・
その後にフランクリン号の航海日誌に「日本人の萬次郞が小型ボートの花形職種“Boatsteerer”に昇格した」との記述があることが判明しましたので、過去の拙ブログの「萬次郞が一等航海士に昇格した」との記述を訂正することにしました。誠に申し訳ありませんでした。
“Boatsteerer”に昇格したJohn Mung(萬次郞)AIによるイラスト
“Boatsteerer”の仕事は、小型端艇の操手として抹香鯨を探し求め、見つけた抹香鯨に最初の銛を打ち込んでから再び操舵を担当し、最後に鯨にとどめの銛を打ち込む艇長(航海士)にバトンタッチする縁の下の重要な役割です。
日本人として初の“Boatsteerer”に昇格した萬次郞は、荒れる海上でボートの転覆を防ぎながら、年長の白人水夫たちに的確な指示を出して抹香鯨に最初の銛を打ち込み、「捕鯨船最大の目的である抹香鯨の脳油の獲得に大きく貢献した」とフランクリン号の航海日誌に記載されていました。
当時の米国社会には人種差別問題がありましたが、命がけの過酷な長期航海をする捕鯨船上では、卓越した統率力、勇気、航海術の高さ、銛打ちの技術等の実力さえあれば、人種差別に関係なく誰でも順送りに昇進できるルールが守られていたようです。
例えば19世紀に多民族の乗組員を率いて命がけの捕鯨操業で顕著な実績をあげたアフリカ系黒人船長の実例をあげるならば、ジョン&ウィンストロップ号のWilliam T. Shorey船長、そしてインダストリー号のAbsalom Boston船長に関する貴重な歴史資料が残存しています。
話を本筋に戻しましょう。
フランクリン号の新船長アイザック・ エーキンは、1848年1月にマニラを出帆。琉球沖合➡伊豆諸島南端海域➡小笠原諸島海域で捕鯨と採油を行い、1848年10月17日に薪水・食材の補給のためにハワイ王国ホノルルに寄港。
萬次郞は、ホノルルに居残った漂流仲間の四人の一人で現地で結婚して永住を決意している寅右衛門(元櫨係)と5年9か月ぶりの再会を果たします。寅右衛門の話にると、重助(元漁労係)は1846年に病死。元船頭の伝蔵(旧名:筆之丞)と五右衛門(元櫨係)の兄弟は、1846年12月に日本帰国を目指して捕鯨船フロリダⅡ号に乗船してホノルルから出て行ったことを知ります。
ハワイ王国の首都オアフ島ホノルルで補給を終えたフランクリン号は、1848年初頭にホノルル港を出港。南太平洋海域のギルバート諸島(現キリバス)➡スペイン領グアム近海➡蘭領のセラムとクパーンの間のバンダ海➡インド洋➡アフリカ喜望峰を回って大西洋を北北西に向って捕鯨操業を行い、1849年9月に米国東海岸の母港ニューベッドフォードに帰港しています。
船長交代後のフランクリン号の航路図 (拝借WEBを加工)
1846年5月16日に米国東海岸のニューベッドフォードを出港。南米突端のホーン岬と南極半島の間の荒海ドレーク海峡を抜けて太平洋で捕鯨操業をしていた1849年1月にマニラで船長が交代するハプニングを乗り越え、1849年9月に米国東海岸の母港ニューベッドフォードに帰港しています。全航程日数「約3年4ヶ月」(1,220日)にも及ぶ世界一周の長期航海でした。
次回は、萬次郞が幕府の小笠原諸島調査団の海事技術員として、父島で日本初の西洋式捕鯨の導入を試みたことを書いてみたいと思います。







