本日のブログでは、「中濱萬次郞が1961年に小笠原諸島で行った近代捕鯨の導入準備」と「1962年の捕鯨試験航海」について投稿する旨をお伝えしたのですが・・・読者Aさんから、「萬次郞が1859年に小笠原諸島海域で実施した近代捕鯨の試験航海も含めて書いて頂ければ嬉しく思います。」とのご希望を頂戴しました。

 

読者Aさんの仰るとおり、中濱萬次郞は1859年に近代捕鯨の試験航海を行っているのですが、少し長くなりそうなので勝手にすっ飛ばし、1961年以降の捕鯨実習から書こうと思っていました。しかし考えて見れば、中濱萬次郞の近代捕鯨導入の情熱を伝えるには、「1859年の近代捕鯨の試験航海」に至る迄の苦労話にも触れるべきだと考えを改めて、①1859年の試験航海に至るまでの経緯 ②その結果の二回に分けて今回と次回のブログで書くことにしました。

 

と言うわけで本日は、①1859年の試験航海に至る直前までの経緯について買くことにします。

老中首座の阿部正弘の召命を受けて土佐から江戸入りした中濱萬次郞は、1853年9月~11月にかけ、阿部正弘の役宅で開かれた聴聞会に臨みました。その場には、外交掛 林大学頭(復齋)、勘定奉行 川路聖謨、海防掛 江川太郎左衛門(英龍)、西丸留守居 兼 海防掛  筒井政憲らの錚々たる顔ぶれが同席していました。

 

老中首座 阿部正弘と幕府重臣の諮問を受ける中濱萬次郞 (AIによる作画)

 

阿部正弘や幕閣による聴聞と諮問に対し、中濱萬次郞は幅広い知識で縦横無尽に語って応えます。
米国の民主主義や共和政治、大統領選挙制度、ペリー来航の真の意図、最先端の科学や天文には学や航海術、リアルな米国の社会文化や生活習慣、さらには小笠原諸島での捕鯨ビジネスの展望をも含む幅広い分野について詳しく説明しています。

 

幕府重臣と中濱萬次郞が交わした聴聞と諮問の詳細な内容は、部屋の隅に控えていた幕府大目付や目付の実務官僚によって記録され、勘定奉行 川路聖謨の名前を付した重要極秘報告書「亜米利加国糾問書」(別名:萬次郞糾問書)として纏められます。この糾問書は、幕府が米国政府と外交折衝を行う際の重要な参考資料となりました。

 

亜米利加国糾問書(別名:萬次郞糾問書) (AIによる作画)

 

中濱萬次郞の聴聞と諮問を終えた老中首座 阿部正広は、1853年12月23日、中濱萬次郞を幕府直轄の旗本の手附普請役格として登用し、海防掛の重臣 江川太郎左衛門(英龍)の配下とします。

 

ペリー来航後に洋式海軍の本格的育成が急務となっていた幕府は、1857年5月4日に江戸築地に海軍教育機関の軍艦教授所(後の海軍操練所)を開設。初代総監に任命された永井玄蕃頭尚志(元長崎海軍伝習所総監)は、長崎海軍伝習所卒の精鋭 矢田堀景を教授方頭取とし、佐々倉桐太郎(後に教授方頭取)を教授として任用。さらに勘定奉行 川路聖謨の推薦により中濱萬次郞を航海術、測量術、英語学、外交通訳、英語翻訳の教授として抜擢します。

 

軍艦教授所で航海術を講義中の中濱萬次郞 (AIによる作画)

 

ところが1857年8月6日、中萬次郞の強力な庇護者だった老中首座の阿部正弘が急逝(享年37歳)。中濱萬次郞の将来に不穏な影が差し始めたかに見えたのですが・・・

 

幸いにも1859年2月10日、いつも時勢の切り札として重用してもらっていた勘定奉行 川路聖謨から、幕府廻漕方(船舶部)の木造西洋式スクーナー型帆船「ヘダ号」の船長に任命されます。

幕府軍艦教授所の教授とヘダ号船長を兼務することになった中濱萬次郞は、100%風力に頼る帆船のヘダ号を、荷物廻漕船としてではなく、軍艦教授所で学ぶ生徒にとって必須の気象変化(風、雲、海流の変化)を体得できる航海練習船として活用します。

日本船を示す惣船印(日の丸)を掲げて航走するヘダ号 (AIによる作画)

建造:1855年、諸元:全長24.6m、幅7m、深さ3m、排水量100噸

 

注「君沢型壱番御船 ヘダ号」の補足説明

「ヘダ号」とは、ロシア海軍プチャーチン提督のフリゲート艦ディアナ号(乗員488名)が大暴風雨で駿河湾宮島小須沖の水深24mの海底に沈没したために、勘定奉行 川路聖謨の指示によって、プチャーチン提督と乗員をロシアへ送還する帆船として伊豆国君沢郡戸田村で建造された日本初の木造西洋式スクーナー型帆船の第一号船です。1856年にロシアから幕府廻漕方に返還されていました。

 

中濱萬次郞は、幕府軍艦教授所 教授 兼 ヘダ号船長の公務を熟しながら、恩師 江川太郎左右衛門(既に1855年3月4日に53歳で急逝)と老中首座 阿部正弘の期待に応えるべく、小笠原諸島近海での西洋式近代捕鯨導入の構想計画を練っていたのですが・・・なんと老中首座 阿部正弘が1857年8月6日に37歳で急逝する事態が勃発。中濱萬次郞の構想実現が俄に危うくなります。

 


拝借したWEB写真を加工

しかし中濱萬次郞の恩師 江川英龍(故人)の有能な筆頭手附 柏木忠敏と
勘定奉行 川路聖謨の手配算段によって、外国事務取扱の老中 堀田正睦へのお目通りが叶うことになります。

 

江川家筆頭手附 柏木忠俊、江川家新当主 江川英俊 拝借したWEB写真を加工

 

中濱萬次郞は、1853年の老中首座 阿部正広による諮問・聴聞の場で具申した小笠原諸島での西洋式捕鯨導入に関する「建白書・捕鯨の議」(西洋式捕鯨器具図説付き)を纏め上げ、第37代江川太郎左衛手附 中濱萬次郞の記名を添えて外国事務取扱の老中 堀田正睦に提出します。

 

中濱萬次郞が提出した「建白書・捕鯨の議」 (AIによる作画)

【注】第37代江川太郎左衛門:第36代江川太郎左衛門(英龍)の三男 江川英敏 満15歳
 

「建白書・捕鯨の議」には下記の項目が記載されていました。

1:日本沿岸と小笠原諸島近海は、700隻以上の欧米の近代的遠洋捕鯨帆船が自由に操業して巨万の富を得ている世界有数の捕鯨場である。日本も旧来の古式綱取り式沿岸捕鯨だけではなく、欧米の母船式遠洋捕鯨を導入して新たな産業を興して国庫を潤すべき。

 

2:小笠原諸島(父島)は、欧米系とポリネシア系の70名の先住島民が定住し、寄港する欧米の捕鯨帆船に薪水や食糧を供給する捕鯨基地を経営している。我が国も欧米に臆することなく、小笠原諸島(父島)に日本人を入植させて我が国の捕鯨母船を受け入れる捕鯨船基地を構築して「実行支配」を確立すべき。


3:我が国も欧米式捕鯨母船を所有して近代的操船術・航海術・運用術等の実践教育を行うことにより、欧米乗組員に匹敵する船舶運用能力の向上を図るとともに、近い将来の我が国の海軍兵の育成に繋げるべき。

 

上記内容の建白を受けた開明派(蘭癖大名)の外国事務取扱の老中 堀田正睦は大いに興味を示し、下記四項目の実行を勘定奉行 川路聖謨に命じています。

 


老中 堀田正睦(左)  勘定奉行 川路聖謨(右) 拝借したWEB写真を加工


①洋式捕鯨帆船の購入、製造、捕鯨の試験操業を許可し資金の一部を幕府が援助する。 ②御用達商人も巻き込んで資金調達し、商法(ビジネス)として成立するように配慮する事。 ③小笠原諸島(父島)だけではなく、箱館(函館)を基地とする蝦夷地周辺への出漁も許可する。 ④小笠原諸島や蝦夷地の開拓を兼ねた国境防備の一環としても位置づける。


勘定奉行 川路聖謨から「建白書・捕鯨の議」の準備命令を受けた中濱萬次郞は、捕鯨の操業実験船として、自分が船長を務める木造西洋式スクーナー型帆船君沢型第一号船「壱番丸」を部分的に捕鯨船仕様に改造する検討を始めます。

 

ところが日米修好通商条約の調印や将軍継嗣問題をめぐり幕府内が大混乱する1858年6月4日(安政5年4月23日)、突如として彦根藩第13代藩主 井伊直弼の大老就任によって時代の様相が一変。世に言う「安政の大獄」の始まりです。

 


拝借したWEB写真を加工

 

大老 井伊直弼は、日米修好通商条約の調印を断行した直後の1858年8月2日、それまで外交交渉を主導してきた老中 堀田正睦に違勅調印の咎(スケープゴート)を負わせて罷免。政治の表舞台を追われた堀田正睦は、故郷の佐倉藩(現在の千葉県佐倉市)で不遇の晩年を過ごして55歳で病死。

続いて1858年10月3日、堀田正睦の腹心だった勘定奉行 川路聖謨を閑職の大奥担当に左遷した後に蟄居から
隠居にまで追い込んで政治の世界から完全追放してしまいます。

 

拝借したWEB写真を加工


恩師 第36代江川太郎左衛門(英龍)と老中首座 阿部正広の急逝した後も有力な後ろ盾になっていた老中 堀田政睦と勘定奉行 川路聖謨もまた殆ど同時に追放されて頼るべき光を失ってしまった中濱萬次郞は、まさに激動の幕末の渦中で孤立無援の境地へと追い込まれたかに見えたのですが・・・

続きは次回ブログで書きたいと思います。