序章

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、米国合衆国海軍東インド艦隊の第10代司令官:マシュー C. ペリー艦隊司令官が率いる蒸気外輪船2隻帆走艦2隻浦賀沖に来航、恫喝的砲艦外交によって徳川幕府に開国を求めた歴史的事件は、中学校の社会科の授業で教わりました。

 

ペリー米国東インド艦隊司令官 (WEBより拝借)

 

しかしペリーの黒船来航七年前の1846年7月19日、米国合衆国海軍東インド艦隊の第5代司令官:ジェームズ・ビドル総司令官が率いる米国合衆国海軍東インド艦隊の大型戦列帆走艦の「コロンバス号」とスループ帆走艦「ヴィンセンス号」が浦賀に来航し、外交儀礼に則って通商条約の交渉を幕府に要求した日米外交史上初の歴史的事実は、教科書には一行も書かれていませんでした。

 

左側:ヴィンセンス号 右側:旗艦 コロンバス号 (WEB写真を加工)

 

今回のシリーズは、恫喝的砲艦外交によって幕府に開国を迫った 黒船艦隊のペリー艦隊司令官はなく、外交儀礼に則して通商条約の交渉を初めて幕府に求めた米国東インド艦隊のジェームズ・ビドル司令官(1783年生-1848年没 享年65才)に関わる話ですが・・・ジェームズ・ビドル司令官が浦賀沖に到着してからの話は、最終編の4/5頁で書く予定です。

 

 ジェームズ.ビドル米国東印度艦隊司令官  (WEBより拝借)

 

日本の歴史教科書や資料の多くは、米国東インド艦隊の司令官の事を、提督」とか代将」とか「准将」等と表記していますね。

 

しかし1837年~1861年の米国合衆国海軍の階級制度には、階級名としての「代将」や「准将」の設定はなく、尊称名としての「提督」もありませんでした。

 

当時の米国海軍士官の階級制度は、小尉➡中尉➡大尉➡少佐➡中佐➡大佐までの階級名しかなく、それより上級の代将(准将)➡少将➡中将➡大将の階級はありませんでした。つまり当時の米国海軍における最高位の階級は「海軍大佐」(Captain)だったのです。

 

複数艦船で編成された艦隊には、大佐の階級を有する艦長や参謀が乗り組んでいたので、艦隊の総指揮者「Commodore」には、最も経験豊富な最先任海軍大佐が任命されることになっていました。

 

Commodore」は"階級名"ではなく、"尊称名"ですので、最先任海軍大佐がCommodore」の任務を離れると、本来の階級名である「Captain」(海軍大佐)に戻ることになります。

 

日本の教科書等が「提督」と表記しているのは、清国王朝の艦隊の司令官を意味する「水師提督」からの転用だろうと思うのですが・・・

ブログでは、当時の米国艦隊の総指揮者の尊称名となるCommodore」を「艦隊司令官と翻訳することにします。

 

話の筋を米国東インド艦隊の「Commodore James Biddle」に戻しましょう。

 

第11代米国大統領(J.K.Polk)から東インド艦隊のジェームズ・ビドル第五代総司令官への指示は、幕府との通商条約を要望する米国大統領の願書を中国の広東で待機している米国特命全権大使のエヴェレットに手渡し、彼を江戸湾口の浦賀まで護送、交渉終了後に広東まで安全に連れ帰ることでした。

 

第11代米国大統領 James・K・Polk

 

1845年6月4日、New York港を出帆したジェームズ・ビドル艦隊総司令官は、アフリカ南端の喜望峰からインド洋を経由して南海(現:南シナ海)に入り、12月末に中国の広東(現:広州市)に到着。ところが広東で合流予定だった米国特命全権大使のエヴェレットが旅の途上で病気で倒れて到着していませんでした。

 

しかし当時の米国政府と海軍の内規によると、外交官不在の場合であっても、欧州以外の国々との交渉に限っては、米国艦隊の司令官(最先任大佐)に外交官特権が移譲される事になっていました。従って米国東インド艦隊の James Biddle司令官は、徳川幕府との外交折衝の全ての権限を担うことになります。

 

徳川幕府は、長きに亘って長崎の出島のオランダ商館から一年一回受け取る「阿蘭陀風説書」によって、10項目に分類された一般的海外情報を得ていました。(下写真)

 

年一回発行の阿蘭陀風説書の翻訳版例

 

しかし江戸後期になって欧州諸国のアジア進出が激化すると、一年一回の「阿蘭陀風説書」だけでは対応が手遅れになるとして、風雲急を告げる特別緊急情報をタイムリーに幕府に提出することをオランダ商館に要求します。

 

それ以降、オランダ商館は、従来の年報の阿蘭陀風説書」に加えて、阿蘭陀風説書別段書」(Hollandsche Fūsetsusho Bijzondere Berichten)を、幕府に随時提出する事になります。

阿蘭陀別段風説書の集成(編:日本語版研究書)

 

阿蘭陀風説書別段書」によって、英国と清国の間のアヘン戦争が1842年に清国の敗戦で終わり、不平等条約の南京条約締結によって香港が英国に割譲された事を知った幕府老中首座の水野 忠邦(肥前国唐津藩主)は、驚き恐れ慄いたに違いありません。

 

英国と清国のアヘン戦争➡不平等な南京条約締結➡香港割譲

 

清国の敗戦から約3年後の1845年、水野 忠邦から老中首座(現在の総理大臣格)の職位を引き継いだのは、備後福山藩主の阿部伊勢守正弘(27歳)でした。ジェームズ・ビドル艦隊司令官の率いる米国東インド艦隊が浦賀に来航する約1年前の事でした。

 

阿部伊勢守正弘と幕閣は、ジェームズ・ビドル司令官が率いる東インド艦隊が米国大統領の通商条約交渉の願書(親書)を持参して浦賀に向かっている情報を阿蘭陀風説書別段書」によって事前に承知していたことが分かっています。

 

幕府の老中首座・阿部伊勢守正弘(備後福山藩主)

 

1846年7月15日、相州(相模国)沿岸の御両所(幕府直轄領)の海岸防衛を担っている熊本藩預所(海防陣屋)から「異国の巨大帆船2隻が浜松沖を北上中」との情報が幕府に入ります。

 

1846年7月18日(弘化3年閏5月27日)、三浦半島の江戸湾側の幕府直轄領の海岸防衛を担っていた川越藩預所に「大型外国帆船2隻が城ヶ島沖を帆走中」との連絡が入り、川越藩の海防陣屋が行動を起こします。

 

続きは次回にしたいと思います。