お料理好きのみなさまがクリスマス用のレシピを試して、試して、試しているだろう今日このごろ、みかん亭にあっては、こんな調べ物をしていたりします
ま、ね、昨年のクリスマスイブには、オックステールカレーの予定が、のっぴきならない理由でレトルトの広島名産かきカレー中辛
になっていたし――なんでのっぴきならなくなっちゃったのかは覚えていませんけど、一昨年にしても、二昨年にしてもなにを食べたのか記録もなければ記憶もないし、三昨年――こんな呼び方があるとは思えないけれど、2018年にはマッサマンカレーに骨つきの鶏もも肉を入れて喜んでいたようだし
ま、そんな程度が関の山だったりします
どんなにおしゃれを決め込んだとしても、骨つき鶏もも肉のコンフィくらいで、
ローズマリーの香りだぜ、おしゃれだろ
あ、なんか、耳元というか、脳内で、みかん亭専属シェフ――姫神・亭・みかんがあーだこーだ言っていますけど……ちょっとまっててくださいね、今、黙らせるから
そうそう、調べ物。
安土桃山から江戸中期のあの御方が食べたかもしれないものを再現しようとした時に、つゆのベースに煎り酒を使ったのを覚えていらっしゃられるでしょうか?
しょうゆは江戸時代からだと思っていたんですけど、静岡県産醤油株式会社のしょうゆ博士のコラムには、
鎌倉時代に入り、信州の禅僧覚心というお坊さんが、中国から持ち帰った味噌の製造過程で、桶の底にたまった液体が、今のたまり醤油に近いものであったと言われています。
室町時代になると、ほぼ現在の醤油に近いものが造られるようになりました。「醤油」という文字が誕生したのもこの頃で、初めて文献に登場するのは安土桃山時代の日常用語辞典『易林本節用集』だとされています。
と、書かれています。また同様の記述がしょうゆ情報センターの記事にも
あって、中国から持ち帰った径山寺(きんざんじ)味噌の製造の過程で桶の底に溜まった液体が今の醤油に近いもので、室町時代の中頃にはすでに現在の醤油に近いものが作られるようになったのだとか
そして――
湯浅町商工会(和歌山県有田郡湯浅町)の『湯浅しょうゆと金山寺味噌』には、
◎湯浅しょうゆの起源
湯浅町に伝わった当時の金山寺味噌は、水分が多くびっしょりとしたものだったそうです。醤油はこの味噌製造の際、樽底沈殿した液汁、桶の上澄みに出てきた液汁等をすくい取って舐めてみるとこれが美味しかった。それでは、これを調味料として煮炊きに使用すればさらに美味しいということで、その製法が発達してきたのが、湯浅醤油の起源であると云われています。
◎湯浅しょうゆの発達
いつ頃、醤油というものが生まれたのかは、定かではありませんが、室町時代頃から湯浅醤油として商品化されていたようです。
との記述があります
また、信州の禅僧覚心(法燈国師)というお坊さんは、確かに信州(今の長野県松本市)の出身だけれども、径山寺(きんざんじ)味噌の製法は、和歌山県日高郡由良町にある臨済宗『鷲峰山興国寺』に伝えられたとされています。なぜ、信州のお坊さんが和歌山に…だとか、そのへんはこちらとか…
こちらの丸新本家5代目のブログに書かれています。
しょうゆの歴史はまた、ひとの歴史だということだということを気づかせてくれます
で。
径山寺味噌と金山寺味噌は同一のもので、江戸中期には
径山寺未醤
とも呼ばれていたのだとか。
で、↓が古式製法で作られている湯浅醤油だそうです。
丸新醤油で送料込みの商品↑などと同時注文(同梱)すると、送料無料ライン以下でもクール便代金(220円)をプラスするだけで済むそうなので、なかなか見つけられないこれも――
後先考えずに、ポチっちゃいました
こちら↓の湯浅の醤油こうじ(大豆、小麦、塩、麹菌)を使った手づくりしょうゆキットは200mlの水を加えて作るそうですが、完成は一年後だそうなので今回は保留
これにて、しょうゆの歴史第二次調査結果の報告を終え、
安土桃山室町から江戸中期のあの御方が食べたかもしれないもの再現します
超激不定期シリーズ化決定とします
こちら↓は第一次調査結果の報告。
カバーはphotoAC より、本気のくまにゃんさん の写真『金山寺味噌 』の提供を受けて使用しています。複次使用はご遠慮くださいませ。