(今は無き、その木ですが2010年3月に倒木、樹齢1000年以上で、その事件の目撃者であった。)
源実朝は、北条政子の次男で、公暁とは、長男の息子(甥)なのです。
なんと、身内に殺されてしまう事になります。
当時の日本人はみんな中国大陸から色々な文化を学んでいました。
かねてより宋に憧れを抱いていた実朝。
1216年(健保4年)に宋の工人である陳和卿とか対面した際に、陳は実朝の前世が医王山の長老であるとと発言しました。
そして、それは実朝の体験した夢告と重なりました。
実朝の宋への思いは急速に膨らんでいき、渡宋を決意して家臣の葛山景倫(実朝の死後は、願生)に唐船を建造させています。(和歌山県由良町)
その後、鶴岡八幡宮にて甥の公暁により暗殺され、28歳という短い生涯を終えました。
実朝の宋の雁蕩山へ埋葬して欲しいという生前の願いを叶えるため、
実母である北条政子が願生に宋で実朝の分骨をしてくれないかと依頼をします。
同じく近臣であった鹿跡二郎が掘り出したという主君の頭骨を預かり、高野山にて供養に務めていた。
しかし、依頼を受けた願生は高齢だったため、その依頼を同じく高野山の若き僧であった心地覚心へと引き継いで渡宋を援助します。
そして宋に渡った心地覚心が修行したお寺が径山寺、そして金山寺だったのです。
ここで、金山寺味噌の製法を伝授され、
帰国後 和歌山県由良の興国寺(湯浅町から一山越えた村町)に入り布教活動を初め、
金山寺味噌を伝えていきました。
(和歌山県由良町 興国寺)
その、金山寺味噌のたまりが現在の醤油の始まり 湯浅醤油の始まりになったということです。
何ともこんな事がきっかけになるとは、毎日使うみんなの醤油が、実朝の暗殺と北条政子から始まった、
悲しい歴史の始まりです。
参考までに、
銀杏の木が倒木して 今は、同じ所に樹齢8年の銀杏の木が育ってます。
(ちょっと怖いけどここに来なければならなかった。)