先日3/6~8間の2泊3日、「春のお城めぐり」ツアー(長野、山梨)をしてきました。

前回の「お城紀行」では、4城目として「武田信玄」が攻城したものの落とすことができず撤退した戦いで「砥石崩れ」と言われた「砥石(といし)城」へ向かい登城を始めたものの、思わぬ雪中行軍となり途中で断念しましたことを報告しました。

 

そこで時間ができた分、麓に「真田氏」が築いた「上田城」(長野県上田市)へ向かい、特に前回ジックリと見なかった「尼ケ淵」を中心に見学しました。

 

上田城」の歴史と城主ですが、1583年に「真田昌幸」によって築かれたお城です。「昌幸」は、沼田領を「徳川方」に引き渡すことを拒否したことから「家康」と断交しました。そのことに対して、1585年に徳川軍が「上田城」に攻め入り(第一次上田合戦)ましたが、「昌幸」の巧みな戦術で「徳川軍」を撃退します。

 

1600年の「関ヶ原の合戦」の前哨戦では、西軍についた「昌幸」とその次男「信繁」が「上田城」に立て籠り中山道を西進する「徳川秀忠軍」を足止めして「徳川軍」に大きな損害を与えました(第二次上田合戦)。

 

その後、「上田」は「昌幸」の長男「信之」に引渡されますが、1622年に「松代」へ移封となり「仙谷忠政」が入城します。1706年には「仙谷家」が移封となり「松平忠周」が入城し、以降は幕末・維新まで「松平家」が統治します。

 

上田城」の縄張りは、上田盆地のほぼ中央に築かれた「平城」で、南側は「千曲川」の河岸段丘上にあり断崖絶壁となっていて「尼ケ淵」と呼ばれています。

 

縄張図↓

 

「本丸」の周囲は「内堀」が掘られ高い「土塁」で囲われています。「本丸」上の四隅には二重の「隅櫓」が築かれ特に北東隅にはもう一基の「隅櫓」を築き、その「土塁」下は鬼門の為に「隅おとし(隅欠き)」を設けています。「本丸」の東と西出入口にはそれぞれ「東虎口櫓門」「西虎口櫓門」を置いて「二の丸」との境界とし、更に北・東・西側のも各々「虎口櫓門」を置いていました。

 

北側の防備としては非常に幅広の「堀」を設け、東側には「出城的」なエリアを設けていて、江戸時代にはそこを「藩主館」として利用しました。

 

「上田城」みどころ案内↓

 

私はレンタカーを「尼ケ淵」南側の駐車場に車を置き、まずはそこから見られる断崖絶壁の石垣を見学しました。

 

東側から見ていくと、土や岩がもろに出ている所、「本丸」を取巻く「内堀」の南端部分は石垣で止めている所、少し西側で「南櫓」が建ってる辺りは石垣が三段積みとなっている箇所があります。更に西側に移動すると、河原の石を積み上げたような箇所もあります。これら、何度も継ぎ足しや補修した跡が見られます。

 

「尼ケ淵」(土がもろに出ている箇所)↓

「内堀」の南端の石垣↓

「南櫓」台(県宝・尼ケ淵から見上げる、石垣が上中下が違う、中段は雨で崩落後積みなおしをしたが、岩盤が出ている箇所は元々石垣が無かったところなのでそのままにしている)↓

河原の石を積み上げたような箇所(尼ケ淵)↓

 

昔は、「千曲川」が北側に大きく蛇行していたことで、このような断崖絶壁が生じ、何度も補修工事を行う羽目になったようです。

 

「尼ケ淵」(「西櫓」方向)↓

 

「西櫓」下から主郭へ上がる急な坂道があり、「野面積み」石垣がビッシリと積み上げた所も見られます。

 

県宝「西櫓」の下は断崖絶壁↓

「西櫓」脇下の「野面積み」石垣↓

もう少し西側へ進むと再び土が剥き出しの「断崖絶壁」↓

 

上がった所に建つ県宝の「西櫓」は、下見板張りでその上が「塗籠」とし、窓は「格子窓」に「突き上げ戸」がついた「武者窓」です。

 

県宝「西櫓」(当初からこの場所に建つ)↓

 

「西櫓」の役割は、その東側に建っていた「西虎口櫓門」からの出入りを監視することでした。この櫓門の櫓台には、扉を引っかけていた跡が残ります。

 

「西虎口櫓門」桝形跡↓

「西虎口櫓門」扉掛け跡↓

 

この櫓台の北側は「本丸御殿」跡の広場が残り、その周囲を土塁が囲っていて「土塁」上に上がることができました。特筆すべきなのは、前述したように北東隅が「土塁」の「隅欠け」となっていて、その両脇の上部には二重櫓が建っていた場所です。

 

「本丸南西隅櫓台」と手前「蔵台」↓

「本丸北西隅櫓台」↓

北「土塁」から「本丸御殿」跡を見下ろす↓

 

この「土塁」による「隅おとし(隅欠き)」は珍しく、対岸の「二の丸」跡から見上げると「土塁」が欠けた状態であることが良く解ります。

 

この下が「隅おとし(隅欠き)」になっていて出張った両側には櫓が建っていた↓

 

取り合えず足早で、城内の見学スポットの写真を撮りに廻りました。

 

「尼ケ淵」の断崖絶壁の上からは良く見通せるポジションで、その場所には抜け穴伝説がある「真田井戸」や「真田信繁」像が立ちます。また、六文銭が前立に付く大きな赤兜は、写真スポットとして紹介されています。

 

「尼ケ淵」の上から市街地を望む↓

抜け穴伝説がある「真田井戸」↓

「真田信繁」像↓

「六文銭」が前立に付く大きな赤兜↓

 

「本丸」跡と「二の丸」跡の出入口が、現存県宝「北櫓」と同「南櫓」に挟まれた復元「東虎口櫓門」です。冬季期間中は閉館で中を見れず、前回訪城した時はコロナ禍で入館できずで、二回目の空振りとなりました。しかし、外観だけ眺めていてもこの三基の建物は見応えがありました。

 

現存県宝「北櫓」(「本丸」側から)↓

復元「東虎口櫓門」と県宝「北櫓」(「二の丸」側から)↓

県宝「南櫓」と復元「東虎口櫓門」(「二の丸」側から)↓

県宝「南櫓」と復元「東虎口櫓門」と県宝「北櫓」(「二の丸」側から)↓

 

現存県宝の「北櫓」と「南櫓」は、元々「西櫓」のように最初から立ち続けていたのではなく、面白い経緯でこの場所に戻ってきています。というのも、1878年(明治11年)までに遊郭として他の場所に移築され、しかも2基は連結して使用されていました。それが、東京へ売られるとの話がありましたが、1949年(昭和24年)に現在の場所へ戻されて復元しました。

 

「東虎口櫓門」の櫓台に見られる大きな緑がかった鏡石は「真田石」と呼ばれ「緑色凝灰岩」を使用したものです。門前は「土橋」になっていて、南側は「堀」になっていますが先ほど「尼ケ淵」から見上げた石垣で遮断されています。一方、北側は「水堀」となって「本丸」跡を東から北、西側を防備しています。

 

「緑色凝灰岩」を使用した「真田石」↓

「土橋」南側の「内堀」は石垣で遮断されている↓

 

「土橋」の東側に拡がる広場は、いざという時に、兵士たちが集結できるようにした場所となっています。

 

私は「本丸」跡沿いの「水堀」に沿って北方向へ進みます。北東隅は、先ほど「本丸」跡の「土塁」上から見下ろした「土塁」の「隅おとし(隅欠き)」が真正面からハッキリと見えます。特にこの時期は、木々草木がないので鮮明に判ります。

 

「本丸土塁」の「隅おとし(隅欠き)」↓

 

北東隅から更に「二の丸」跡内にある「北観光駐車場」を横切り北東隅に進むと、ここにも「隅おとし(隅欠き)」が施されています。私はここを見るのは初めてでハッキリ残っていないものの、「堀」が少し残りその面影がありました。

 

「二の丸北東隅」の「隅おとし(隅欠き)」↓

 

ここから西に向かって進むと「石垣」の「櫓台」が両脇に見えます。ここが「二の丸北虎口」跡で、北側の西隅が現存だそうで、その積み方に倣って石垣の「櫓台」が復元されているようです。

 

「二の丸北虎口」跡の北側の櫓台(この先部分が現存とか)↓

 

「二の丸北虎口」跡を抜けて少し下にくだると陸上競技場が大きく拡がります。ここが、「上田城」の北の防衛の要となっていた「百間堀」跡で、北側から北西側にかけて掘られていました。

 

「百間堀」跡(現在は陸上競技場)↓

 

競技場入口へ下りるスロープの右側には「堀」の側面を固めた石垣が見られ、更に「堀」に水を供給したり抜いたりする為の「石樋(いしどい)」が残っています。1702年までは木の「樋」だったのを修復の際に石に替えたそうです。

 

「百間堀」東側側面の石垣↓

「石樋(いしどい)」↓

 

時計を見ると、レンターカーを返却する時間が迫ってきてましたので、少し慌てながら「二の丸」跡を横切り、「二の丸東虎口門」跡の石垣を通り抜けて「二の丸橋」を渡りました。「二の丸橋」の下は、元々「外堀」跡で「上田温電北東線」の電車の路線が敷かれ電車が走っていましたが、1972年(昭和47年)に廃止となりました。

 

「二の丸東虎口門」跡(「二の丸橋」から)↓

「二の丸」橋下の「外堀」跡↓

「二の丸橋」と「外堀」跡(ここを電車が走っていました)↓

 

現在では、「けやき並木遊歩道」となっていてレンタカーを止めている「駐車場」へ直結しているので、そこを通ってレンタカーに向かいました。

 

レンタカーを返却した後、「上田駅」までは徒歩10分の距離でしたので、足早に駅に向かい「上田駅」17時23分発の「長野新幹線 あさま」に辛うじて乗り込むことができました。

 

「長野新幹線 あさま」(「上田駅」にて)↓

 

「あさま」の中で簡単な食事を取り、「東京駅」に着いたのが18時52分でした。

 

「東京駅」からは19時15分発の特急「かいじ」に乗って「大月」まで行くのですが、「かいじ」の乗場が分らず駅員さんに聞いて「中央本線」の乗場だと聞き向かいました。

 

「中央本線」の乗場は橙色の快速・特別快速電車の発着場だけと思っていたのですが、特急「かいじ」はここからでした。

 

車内放送では、当日は満席で座れない人は乗降口や連結部分で立ってご乗車くださいと。東京の人は通勤するのにも有料で乗車し、しかも座れなくても特急料金を払って帰宅する人が多いのには驚きです。

 

今回の「たびキュン早割パス」では「特急かいじ」は事前に座席指定を取っておかないと乗れないようになっていましたが、その理由がよくわかりました。

 

「たびキュン早割パス」と「特急かいじ」の座席指定券↓

特急「かいじ」(「大月駅」にて)↓

 

「大月」までの所要時間約1時間20分で20時34分に到着。当日の積雪の量からして、翌日の「岩殿山」の積雪状態が非常に心配でしたが、真っ暗で状況把握できずで、駅前の「ホテル浜野屋」へチェックインしました。

 

いよいよ次回ブログでは、「武田勝頼」が重臣であった「小山田信茂」に裏切られて「岩殿山」頂上の「岩殿城」に入城できなかった曰つきのお城へ登城します。楽しみです!

 

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

イベントバナー