先日3/6~8間の2泊3日、「春のお城めぐり」ツアー(長野、山梨)をしてきました。

前回の「お城紀行」で「上田城」を投稿しましたが、その後「長野新幹線」で東京に戻り、特急「かいじ」で「大月」まで足を伸ばし宿泊をして、翌日の6城目の「岩殿城」登城に備えました。

 

当日の天気予報では”晴れ”になっていましたが、ホテルの窓からはどんよりした鉛色の空が見えて少しガッカリしました。ホテルで重い荷物は預かっていただき、「大月駅前」7時25分発「富士急バス日影行」に乗車し、「自動車教習所前」が登城口に近いとのことで下車しました。

 

今から登城する「岩殿山」(「大月駅」前から)↓

 

「畑倉登山(登城)口」には登山客数を把握するカウンターが置かれていてカチッと押してからのスタート、バスでかなり高い場所まで運んでくれていたので、割とラクチンかもと思いました。

 

「畑倉登山(登城)口」↓

 

少し上ると、大きな岩盤上から流れ落ちてくる細くて長い滝が少しの休息を与えてくれました。

 

大きな岩盤上から流れ落ちてくる細くて長い滝↓

 

どんどん道が急になってきて、上がるにつれて薄っすらと積雪も見られるとともに、山道は前日の雪が浸み込んでニュルニュルになっている箇所があちらこちらで出現、何度か足を滑らし手で支える場面もあって、手袋は土まみれ、スラックスやジャンバーにも土が付く有様となりました。

 

登城路↓

 

バスでかなり高い所まで運んでくれたと思っていたのが、その後もドンドンと上を目指さなければならず、最後には急斜面の九十九折れが続く心臓破れの山道となり、何度も立ち止まり息を整えました。久々にしんどい登城となりました。

 

ガスが出る中ドンドン急になってくる登城路↓

 

ここで少し「岩殿城」(長野県大月市)の歴史と城主について触れておきます。

甲斐国東部を領有する「小山田氏」は、「武田氏」と同じころに台頭し、「武田氏」との婚姻を繰返して「武田軍」の有力軍事力として活躍した家です。その「小山田氏」の主城として「岩殿城」は非常に堅固なお城として存在していました。

 

「武田氏」最終期に及び、この「岩殿城」に籠って「織田・徳川連合軍」との決戦を計画しましたが、「武田勝頼軍」はもはや戦闘能力を失い、この「岩殿城」へ逃げ込もうとしたのですが、城主「小山田信茂」は「織田・徳川方」に通じて「勝頼」を裏切り「勝頼」を城内に入れませんでした。そして「勝頼」は行く当てもなくなりとうとう1582年3月に「天目山」で自刃し「武田家」は滅亡します。

 

織田方へ走った「小山田信茂」は、主君を裏切ったとのことで切腹となりこの「岩殿城」も廃城となりました。

 

岩殿城」の立地は、険峻な岸壁状の岩殿山上にあり、周囲外堀の代用として「桂川」「葛野川」が取巻く要害にあります。山上の縄張りは、「本丸」を頂点に、南側方向に「二の丸」「三の丸」「蔵屋敷」が段状に築かれ、最も広い広場が「馬場」となっています。その南端には「南物見台」、南西端には「西物見台」を設けて麓を監視し、麓からの登城路からお城への入口に「揚城戸」「番所」が置かれました。

 

城跡案内図(現地に掲出)↓

縄張図(「岩殿山ウオーキング」に掲載)↓

 

「岩殿城」は2024年新春のNHK「日本最強の城<新春スペシャル>」で、採り上げられたお城の一つで、歴史的な背景や岩盤の迫力、見晴らしの良さ、神秘性等から是非登城したいと思い続けてきて実現したお城です。

 

「岩殿山」上の最高峰は「本丸」跡に築かれたモッコリした「狼煙台」が634mで、その南西下に小規模な「二の丸」跡があり、更に下へ下りていくと木々の枝で見ずらい「三の丸」跡が見られました。

 

「岩殿山」上の「本丸」跡↓

最高峰の「狼煙台」(「本丸」跡内)↓

「二の丸」跡(「本丸」跡の下)↓

「三の丸」跡↓

 

そこから下って両側に少し広い敷地が「倉屋敷」で、武器、弾丸、食料品、生活用品を保管していたようです。その場所から南側にかけて拡がる城内最大の広場が「馬場」跡ですが、こんな山上で馬場の練習をしていたことが驚きです。

 

「倉屋敷」跡↓

「馬場」跡(「倉屋敷」跡付近から見下ろす)↓

 

「馬場」跡まで下りると、広場は南に向かってなだらかな斜面となっていて先には「東屋」が建ち、その奥が「南物見台」となっています。

 

「馬場」跡(南方向)↓

「南物見台」から「本丸」跡を見上げる↓

 

「南物見台」上からは真下にそそり立つ岩盤はハッキリと見ることができませんが、「大月」の街並みが眼下に望める最高の場所です。

 

「南物見台」から辛うじて見える真下の「岩盤」↓

「南物見台」から見下ろす「大月」の街並みと山々↓

「南物見台」から見下ろす「大月」の街並み

 

晴天ならばそこから「富士山」が真ん前に見えるとの事でしたが、ドンヨリした空で眺めることが叶わずで、昨年来、東海、関東・甲信越に来て数回にもなりますが、また「富士山」に振られてしまいました。

 

晴天ならば、この辺りから「富士山」がみえるのかな?  ↓

 

「南物見台」の直ぐ後方の高台には大きな石板の「乃木大将碑」が立ちます。「乃木陸軍中将」の時に戦術研究の為に従兵と一緒に「岩殿山」に登ったことが碑に刻まれているのでしょうか。

 

「乃木大将碑」↓

 

そこから西方向に下りていくと、先ほどの「馬場」と繋がる細長い敷地が「馬屋」跡で、更に真直ぐ進んだ所が「西物見台」でした。ここには、高さ8m程もある岩盤が物見台として使用されていたようでしたが、岩盤に亀裂が入り崩れる危険性があったので破砕撤去工事をしたそうですので、現在の物見台はその岩盤の手前になっています。

 

「南物見台」から「西物見台」方向、右下が「馬屋」跡↓

「西物見台」跡↓

 

「西物見台」の少し手前には麓の「ふれあい館」まで通じる「登山路(浅利登山口)」(現在通行不可)との分岐点があり、石段を下りたところが「番所」跡でした。この辺りから大きな岩盤が両脇に立ち塞がり、少し下が「揚城戸」という城門跡です。岩盤があちらこちらから飛び出してくるようで、まるで鬼ヶ島にいるような雰囲気の場所です。

 

「ふれあい館」まで通じる「登山路(浅利登山口)」との分岐点↓

「揚城戸」の「番所」跡↓

大きな岩盤↓

大きな岩盤↓

大きな岩盤↓

「揚城戸」跡↓

「揚城戸」跡↓

 

再び上へ戻り「馬場」跡から今度は東側に山道を少し下ると、2つの井戸が見えます。近くに行ってみると、一つは周囲を石積みした飲用「井戸」の「亀ケ池」、もう一つは大きめで馬や兵士の水浴び用として使われた「馬洗池」です。山城では、水の確保は必須です。

 

二つの井戸↓

飲用「井戸」の「亀ケ池」↓

馬や兵士の水浴び用として使われた「馬洗池」↓

 

さて再び「岩殿山山頂」の「本丸」跡に戻り下山を開始しました。雪水が浸み込んだニュルニュルの山道を上りよりも一層慎重に下って行き、かなり下りた所に「鬼の岩屋」へ行く道との分岐点がありましたので、バス時刻まで時間があったので寄り道をしました。

 

下りの九十九折れ山道↓

 

すぐの場所にあった「鬼の岩屋」は、もの凄い岩盤に洞窟が大きな口を開けていて、その上から細い滝水が岩盤に当たり飛沫をあげていました。この滝は、上りの際に遠目で見えていた細長い滝の下部の所なんでしょう。

 

「鬼の岩屋」の岩盤真下から見上げる↓

「鬼の岩屋」の岩盤に水しぶきをあげて落ちる滝↓

「鬼の岩屋」の洞窟↓

 

「鬼の岩屋」は「新宮洞窟」と言われ、かつて修験道場「円通寺」の新宮として十一面観音を祀った懸け造りの堂宇があった場所で、岩殿山の洞窟で一番大きく、鬼が住みかとしていたとの伝説がある所です。寄り道をしたことによって、岩殿山の歴史も知ることができました。

 

「登山(登城)口」に戻りバスが来るまで、手袋、靴やストレッチポール等にこびりついた土を落としました。

 

「大月駅」には、中央本線の「甲府行」電車10時7分発の20分前に到着、駅前から先ほど下山してきた「岩殿山岩盤」の写真を撮りましたが、「武田勝頼」はこの岩盤の城を見てホッとしたことでしょうが、この後「小山田信茂」に裏切られて入城を拒まれるとは夢にも思わなかったでしょう。無念の「岩盤」となったことと思います。

 

迫力ある「岩盤」(「岩月駅」付近から)↓

 

私は「大月駅」からは「青春18きっぷ」を使用し、今回7城目の「要害山城」に向けて「甲府駅」を目指しました。

 

中央本線の「甲府行普通電車」↓

 

 

 

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