5/17(水)~18(木)にかけて、「青森・秋田のお城巡りの旅」に出かけました。2日目の3城目(通算4城目)は、続日本100名城に指定されている「秋田城(あきたき)」(秋田県秋田市)に向かいました。
「脇本城」からの移動時間は約40分で駐車場に到着しました。「秋田城」は、江戸時代に秋田を統治した「佐竹家」の居城の「久保田城」とは全く別物です。
「秋田城」の歴史と城主についてお話をしておきますと、飛鳥時代から奈良時代、平安時代にかけて律令制度下において北の「蝦夷」と呼ばれた人々に対する備えとして「大和朝廷」が置いた軍事防衛施設兼地方政庁で、「古代城柵(じょうさく)」と呼ばれています。
「古代城柵」は、647年から越後の「渟足柵(ぬたりさく)」「磐舟柵(いわふねさく)」等が築かれていて、709年には蝦夷平定の為に庄内地方の「出羽柵」に兵力を集約します。
724年に、「大野東人(あずまひと)」によって「多賀城」が築かれ「陸奥国府・鎮守府」とします。そして733年に「出羽柵」が秋田村へ移設されて「秋田城」となります。この頃には、秋田には「払田柵(ほったさく)」等多くの「城柵」が築かれます。
「秋田城」の城域は、外郭には土塀を施し「西門」「南門」「東門」を設けて外郭外からの出入口にしていましたが、その中には行政機能を持つ「政庁」を置き、「東門」までの間にはほぼ直線の「城内東大路」が通っていました。
史跡秋田城案内図
「秋田城」の史跡公園
「政庁」は733年から6期に亘って、増築や修築を繰返しされたりして変遷をしており、966年ごろには機能をなくしたようです。
また「政庁」を取巻く「外郭」の外にも、居住地等が設けられたりしたようです。
それでは「政庁」から見て行きます。「政庁」は現在南西部分が自動車道によって失われています。その為、その部分に建っていたと想定される場所に「西門」のイメージとなるモノで表現されています。
「政庁」西側の失われている箇所
「政庁」跡を通る自動車道
「西門」があったであろう場所に「西門」イメージが立つ
この橋の先が「政庁」
自動車道を渡る橋を越えると「政庁」内に建っていた「正殿」跡がコンクリートで区画され、そこに立っていたと思われる部分に柱ピットが施されています。また「政庁」内の「北東建物」「東脇殿」も同様の処理が施されています。
「政庁正殿」跡
「政庁東脇殿」跡
「政庁北東建物」跡
「多賀城」のような立派な「正殿台」はありませんので、そんな大きさは感じませんでしたが、東側に「政庁東門」と「土塀」が再現されていて奈良時代の雰囲気を感じることができました。
再現「政庁東門」
再現「政庁東門脇土塀」
再現「政庁東門脇土塀」
「政庁東門」を潜ると、そこからやや右にカーブがみられますがほぼ真っすぐな「城内東大路」がコンクリートで再現しています。
再現「城内東大路」(東方向)
また、「政庁東門」を潜って左手には、大きな模型が3つ並んでいて、3期間の「政庁」内の建物の推移が目で確認できるようになっています。
「第1期の政庁」模型
「第2期の政庁」模型
「第3期の政庁」模型
「城内東大路」は、「外郭東門」まで約250mの距離があり、脇には「溝」もあったのでしょうか再現しています。コンクリート部分は自動車道が南北に走る所まで整備されていますが、「東大路」は「外郭東門」から少し出た所まであったようです。
再現「城内東大路」(西方向、溝が見える)
再現「外郭東門」と再現「城内東大路」
再現「外郭東門」は、よく紹介写真で見る門です。この門の特徴は、軒先に付く「軒瓦」が無いことと、部材を繋ぐ所には「舟肘木」を使用していることです。
再現「外郭東門」
再現「外郭東門」(外側から)
再現「外郭東門」(軒瓦が無い)
再現「外郭東門」(「舟肘木」で支える)
また、脇の「土壁」は「築地」と呼ばれ、2枚の板に土を入れて人間が上から土を突き固めていく手法で最終的には板を外す「版築工法」でできています。
「版築工法」でできた「土壁」(築地塀)
「版築工法」でできた「土壁」(築地塀)
「築地塀」を造るために粘土を掘った穴(土取り穴-どとりあな)が、「築地塀」の前から発掘されたそうで、その穴には廃棄物の捨場となっていて色々な遺物が出土したそうです。現在でも、少し凹んでいるのはその痕跡でしょうか。また、建物の赤い柱と土壁の茶色が良く映えています。
少し凹んでいる所が「土取り穴」を埋め戻した場所
再現「外郭東門」
「外郭東門」を抜けると、右手には「古代沼」も復元されています。発掘調査で当時の沼の形が判り再現していて、ここからも土器や木製品が出土しているそうです。
再現「古代沼」
この辺り一帯が「鵜ノ木地区」と言われ、「四天王寺」跡や建物群の跡や塀の跡が表面表示されていて、かなりの数の人達の居住建物があったのが分ります。
推定「四天王寺」跡
「建物」跡表示
「塀」跡表示
「竪穴式住居」もあります
また、NHKの「ぶらタモリ」でも紹介されたことがある「古代水洗トイレ」の再現もあり興味深い遺構です。
再現「古代水洗トイレ」
丸い穴からウンチを落し、横に置いてある水甕の水を柄杓ですくって穴に流すと、斜めに滑り台になった所をウンチは水に流されて肥溜めに溜まるという仕掛けです。ウンチを終えると紙の替りにお尻を拭く「へら」が用意されています。
再現「古代水洗トイレ」の室内
「発掘調査時」の写真(現地に掲出)
肥溜めの沈殿槽からは、大陸(渤海)からの来訪者が使用した可能性があるという寄生虫卵が見つかっているそうで、最近の科学(化学)の進歩にも驚きでした。
再現「肥溜め」
肥溜めの沈殿槽から出てきた寄生虫の卵の写真(現地にて掲出)
更に「井戸跡」の再現もされています。その井戸は杉材を円形に組み合わせて枠組みされていて、その中から「天平六年月」と欠かれた木簡が発掘されていますので、丁度「出羽柵」がここへ移された733年頃に掘られたようです。
再現「井戸跡」
こちらも再現「井戸跡」
以上のように、中世城館よりもずっと古い「大和政権」と「蝦夷」との関係の中で造られてきた古代お城ということで、お城の歴史の流れを知る勉強になりました。
「秋田城」は秋田市内ですので、同市内の「秋田駅」近くにある「佐竹家」の居城「久保田城」へ最後に足を向けました。次回のブログでは、「久保田城」をお届けします。
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