本日の「”現存三重櫓”を色々な方向から顔・姿を見る」は、「高松城(香川県高松市)に現存している三重櫓2基の内、重文の「艮櫓(後編)」をお届けします。昨日のブログでは、「月見(着見)櫓」を紹介しました。

 

第六弾「”現存三重櫓”を色々な方向から顔・姿を見る」の総編

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第六弾「弘前城 丑寅櫓・辰巳櫓・未申櫓」

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第六弾「江戸城富士見櫓」

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第六弾「名古屋城清洲櫓(西北隅櫓)」

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第六弾「彦根城西の丸三重櫓」

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第六弾「明石城巽櫓・坤櫓」

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第六弾「福山城伏見櫓」

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第六弾「高松城月見(着見)櫓」

https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12601514851.html

 

昨日も記載しましたが、「高松城」は、「水戸藩」の支藩的な高松藩「松平家」のお城で、「徳川家康」の十一男の「徳川頼房」の長男「松平頼重」が1640年に入城して大改修されました。因みに、「頼重」の次男は、「水戸藩主」になった「水戸黄門」こと「徳川光圀」です。その後、城主(藩主)は、「光圀」系に替わりますが、江戸時代通じて徳川家の「家門」として格式の高いお城でした。

 

「天守」は現在無く天守台だけですが、幕末の古写真が残り復元の検討もされていて、特異な姿の「南蛮造り」の「天守」復活に期待を膨らませています。

 

さて、本日お届けの現存三重櫓「艮櫓」は、名前の通りお城の最も北東(丑寅方向)の海岸沿い「東の丸米蔵曲輪」内に建っていました。

 

昭和42年に、「県民ホール」の建設に伴い、「桜の馬場」南東隅で「太鼓門」と「旭門」に睨みを利かすために建てられていた「太鼓櫓」が明治初年に撤去されたので、その櫓台の上に移築され、現在に至っています。

 

元々の「艮櫓」台の石垣とそれに続く「多聞櫓」台の石垣は、「県民ホール」の裏側に今でもひっそりと残されています。

 

移築された「艮櫓」ですが、海沿いに置かれた立派な三層櫓だったので、海から訪れる船に対して威嚇をもするような出で立ちで、凄く重量感があります。巨大な石落としが三隅に設けられ、非常に多くの狭間も並べられていて威嚇するのに十分な姿です。

 

一方、白漆喰の美しさ、軒唐破風に加えて大きな千鳥破風も備えた見栄えにも重点が置かれていたようです。

 

・三層三階、層塔型、白漆喰、三隅には大きな石落としを配備、壁面には規則正しい狭間が並ぶ

・東西に軒唐破風と南北に大きな千鳥破風が付く

 

西面(東面)二重目には唐破風が、北面(南面)には一重目からの巨大な千鳥破風が付く

北東隅(巨大な石落としが見える)

東面(二重目に唐破風、多くの狭間が規則正しく並ぶ)

南東側から

南東側から(琴電の車両から写す)

北面下から見上げる大千鳥破風

北東隅の巨大石落とし

旧「艮櫓」台(海側から)

旧「艮櫓」台(城内側から)

旧「艮櫓」台から続く「多聞櫓」台の石垣

 

次回は、「熊本城宇土櫓」をお届けします。

 

 

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