日本の、世界の、食の常識を超えていく。 -8ページ目

存在の耐えられない軽さ

マカオ、香港そして珠海を、出店オファーもあり視察してきた。

マカオ・香港の好景気ぶりは昨年12月に視察してきたときと変わらない、もしくは更に加熱したものだった。特にマカオのカジノ・ベネチアンが印象的だった。土曜日とはいえ3千人以上の熱気を帯びた中国人がギャンブルに興じていた。普通の身なりをした中国人がバカラで1回に3万円、5万円と賭けているのには驚かされた。

今回初めて訪れた珠海。経済特区にも指定され、中国内でも裕福な地域といわれている。確かに町中では、現地で買えば3千万円は優に超えるであろうメルセデスやアウディといった高級車が数多く走っていた。高級ホテルにもそれらが所狭しと並んでいたが、そんな高級ホテルに偽物ブランド店が入居していた。パテント意識まではまだまだと言ったところだろうか。
また、強烈な貧富の差を感じたのも事実だ。珠海の綺麗な意匠が施された目抜き通りを一本入ると、そこにはスラムと表現してもいいほどの環境で生活をしている方々がいた。海外を訪れるたびに日本は世界一格差の無い社会であると痛感する。そんな日本を「格差社会だ」と非難し、人気取りや票集めをする人達には閉口する。そういえばドラッカーが「無能を並の水準にするには、一流を超一流にするよりもはるかに多くのエネルギーを必要とする(PFドラッカー経営論)」と言っていたことを思い出す。このような閉塞感の伴う時代だからこそ、飛び抜けた企業や事業、人間を育てることこそが重要なのではと思うのだが。
いずれにせよ今回の視察を通して、中国は未だ格差はあったとしても、確実に、かつ強烈に成長を遂げているということを実感した。マカオと珠海を結ぶ長大なトンネル事業、至る所で見受けられるマンション建設、など恐ろしい勢いで変化しているのだ。
そんな中で、日本は、日本人は、存在感を示すことができているのであろうか。今回の視察旅行では、現地で活躍する様々な日本人にお会いすることができたが、その全ての方々が口を揃えるのが、日本の国力、影響力の低下だ。
香港のSOHOにある高級住宅街には、10年前までは多くの日本人が住んでいたそうだ。しかし、今は残念ながら日本人の姿を見つけることは難しい。世界で引き続き存在感を示す欧米人、強烈な勢いで成長する中国を中心とするアジア人、そんなステージから降りつつあるのが日本人であり日本であるようだ。
「人、物は金のあるところに集まる」良きにつけ悪しきにつけ、経済は金のあるところを中心に回っていく。日本も数10年前まではその中心にいたはずだ。しかし、今はいない。裕福でも目指すべき存在でも無い日本、世界から無視をされつつある雰囲気を感じた。
日本の政治の個別案件に言及はしないが、世界が、隣国中国が、強烈な勢いで変化している時代に、日本が今のままで良いのだろうか。今回、複数の方から「能力ある、有能な日本人ほど日本からいなくなる」という指摘を聞いた。
私は今まさにそのような時代が来つつあると思っている。

ポストチェーンストア理論

アメリカの外食マーケットを視察してきた。事前情報として、アメリカはリーマンショックなどの金融危機の発端となっており、外食マーケットも冷え込みを見せていると聞いていたが、いたるところでアメリカの底力を感じると同時に、外食産業が日本に比べると相当に恵まれた環境にあると感じた。カリフォルニアロサンゼルスで視察したディナーハウス「Houston’s」はその象徴だ。客単価で50ドル~60ドルにはなるその店舗の客席は250席。ここまでの大箱であるにも関わらず18時を前にして満席、そして入り口を埋め尽くすウェイティング客。ステーキやハンバーガーの高い商品レベル、高い接客レベルに支えられた集客であろうが、6億円というその店舗年商は、現在の日本の外食ではあり得ない規模である。また、同じくロサンゼルスで行ったファミリーダイニング「IHOP」も触れておきたい。モーニングの時間帯、日曜朝8時頃に入店したが、8~10ドルという客単価は日本の感覚ではかなり高い。であるにもかかわらず店内は満席、そして入り口には店内に入りきれないウェイティングの人々。IHOPは「international house of pancake」の名の通り、パンケーキを核商品にしたファミリーダイニングで、パンケーキの商品力、そして接客力それぞれ相当なものであったが、こちらも年間に4億円は売り上げるという日本ではありえない売り上げを叩き出す繁盛店であった。余談だが、IHOPではパンケーキが「光輝いて」いた。べたな表現で恐縮だが、これは照明や内装、スタッフの笑顔,そして徹底した商品のこだわり(店長のご厚意でキッチン内を拝見させてもらったが、グルテンをしっかり管理した、徹底して気配りのされたパンケーキ用のバッターが仕込まれていた)などが幾重にも重なると商品は「光り輝く」のだと痛感した。


なぜアメリカマーケットはここまで厚く底堅いのであろうか。私はその理由は3つあると思う。1つ目は金融危機を経ても富裕層は確実に、しかも数多くいるということ。一部の有名店を除いて軒並み打撃を受けている日本の高級外食店。しかし、アメリカでは事実「Houston’s」に代表されるように、高級店であっても客足の鈍りは少ない。2つ目には家庭内での調理が相当程度減ってきているということ。朝、昼、夜、それぞれ外食店で食事を済ます家庭が多いのだろう。IHOPで見たとおり、アメリカでは朝食も家族で外食をするという文化がある。それに対して日本では、真っ当な食事は自宅(内食)で、という発想が根強い。これは日本の外食企業の努力不足の側面もあると思うが、文化の違いも大きいのではないだろうか?家族でIHOPで食事をすれば、4人家族だと4000円近い出費となる。朝から4000円の出費、日本の感覚であれば考えられない。3つ目はチップの文化があるということ。サービス担当者へ我々が払うチップは、店側から見れば実質人件費である。チップがあれば時給は最低限で抑えやすくなり、その分店側の利益がかさ上げされていることになる。そのため、日本に比べると、アメリカのレストランビジネスは利益を出しやすい構造となっている。これらのことが、アメリカの外食マーケットを盛り上げていることにつながっているのではないだろうか。


以上のように、外食を取り巻く環境は、アメリカと日本では相当程度違っている。日本の環境は一言で言って「厳しい」のである。そんな中、日本の外食企業がとってきたここ10年の施策は、良くも悪くも「疑似ファストフード化」であった、と言えるのではないだろうか。集客に苦労し、利益を出すことに苦労した日本のデーブルサービスの外食企業。そんな中でもなんとか利益を出すために行ったのは、徹底した生産性の向上だった。アメリカではファストフード店でしか見ることのできないドリンクバーを導入し、店舗内調理行程を徹底して省き、商品の価格を下げ、テーブルサービスレストランからテーブルサービスを排除していった。このような涙ぐましい努力の結果として、何とか集客し利益を絞り出しているのが日本のレストランの現実なのではないだろうか。客席数の数までしか集客出来ず、売上げに上限のあるテーブルサービスレストランでは、価格を下げるということは大変なリスクを伴う。事実、アメリカのほとんどのテーブルサービスレストランで、日本ほどの低価格志向を感じることは無い。であるにもかかわらず日本の外食企業が「疑似ファストフード化」を推し進めざるを得なかったのは、このような外食を取り巻く厳しい環境が背景にあることは間違い無い。またさらに、私はこの行為を助長した、背後に潜むものもあるのではないかと考えている。それは、渥美俊一氏 が日本へ持ち込んだ、チェーンストア理論への外食企業の「心酔」だ。


チェーンストア理論は素晴らしい理論だ。その理論を元に多くのビッグチェーンが生まれている。イオン、イトーヨーカドー、ダイエー、外食ではサイゼリヤ、ワタミ、ゼンショーなどだ。チェーンストア理論は絶対的な低価格を志向する。それによって集客を最大化するという手法である。しかし、この理論において恩恵を受けるのは主に外食の中でもファストフード店(=お客様がいらっしゃったらいらっしゃった分だけ販売できる、いわば物販型の店)である。テーブルサービスレストランにおいてこの理論の適用は、注意深く考えなくてはならないであろう。集客を最大化しても、こなせる客数は客席数の制限を受けるからだ。であるにも関わらず、外食企業は盲目的にチェーンストア理論に心酔してしまっていた部分もあるのではないだろうか。


今回の視察において印象的だったハンバーガーチェーンがある。それは「IN-N-OUT 」だ。ハンバーガーの種類は3つのみ。それもバンズとパティは全く一緒、違いはチーズが入るかパティが2枚になるかだけだ。それがまさに爆発的に売れている。イートインで、テイクアウトで、ドライブスルーで、とんでもない客数をこなしていた。価格はハンバーガー1個1ドル69セント。商品の絞りこみが低価格と高いバリューにつながり、それが爆発的な集客に結びつき、さらにファストでの商品提供で集客したお客様ほぼ全てをこなせるというファストフードの権化のような店だ。しかし、実は彼らはチェーンストア理論をそのままに実行することはしていない。そもそもここのハンバーガーはバンズもパティも野菜も全て美味い。「美味すぎるものは飽きる」と指導するチェーンストア理論とは逆行している。特に野菜の美味しさは特筆ものだった。この野菜は店舗でカットをしているという。また、フライドポテトも生の芋をあく抜きし、店舗でカットし揚げている。チェーンストア理論で考えれば非効率極まりない。すでに400店以上を展開し、700億円以上を売り上げる彼らが、チェーンストア理論を知らないはずがない。彼らはしっかり自分の頭で考えているのだ。理論に頼り切るのではなく、お客様によろこんでいただける、評価いただける作業方法を自分たちで考え、実行しているのだ。我々日本の外食人は、渥美俊一氏が日本に持ち込んだチェーンストア理論というものは、渥美氏のフィルターを通してアメリカより持ち込まれているものだと理解しておく必要があるのではないだろうか。


日本の外食を取り巻く環境はさらに厳しさを増すだろう。そんな中で、我々外食企業が力強く生き抜いていくには、真摯にチェーンストア理論を学びつつも、最後は「自分の頭で考え、実行する」ということが必要なのではないだろうか。絶対に成功が約束されている経験法則などは無いのだ。それは幻想すぎない。理論は学び、参考にはするが、お客様に支持いただけると考えれば、それが理論に反していても果敢に実行する。そのようなことができる企業こそが、これからの新しい時代の日本の外食を担っていくのだろう。



違和感

「助けられなかった。申し訳無い。」

そうつぶやきながら涙を流す片山右京さんを忘れられない。少し前になるが、元F1レーサー、片山右京さんの富士山登山において、同行した2人が遭難し死亡するという事故があった。信頼関係を築いた仲間を失う悲みは重く、そして深い。「神風右京」といわれた男の流す涙は、見ていて非常に痛々しいものだった。悲しみ、無力感、絶望感、様々なものがない交ぜになった涙だった。識者からは、富士山特有の突風への不備、などを指摘する声なども出ていたが、あの会見を見た多くの人が、2人を亡くしてしまった右京さんの心の底からの謝罪の気持ちを感じたのではないだろうか。


先日、清瀬市の、ある女子中学生が自殺をした。自宅には、いじめが原因であるようにうかがわれる遺書が残されていた。それに対しての市の教育委員会の会見に、私は違和感を禁じ得なかった。「いじめ自体一切なかった」「いじめについて、生徒が先生に相談したということも一切なかった」との回答に終始していたのだ。確かに教師や教育委員会が、自己保身の感情を抱くのも分からなくもないが、ひとつの尊い命が失われたという思いは、かけらも感じられなかった。自殺した中学生の両親は「いじめがあったのか無かったのか、真実を知りたい」と教育委員会などに不信感を顕わにしていた。


いじめがあったのか無かったのか、本当のところは私にもわからないし、また、あったとしても自殺した生徒にも改めるべき行動があったからなのかもしれない。しかし極論を言えば、いじめがあったがどうかは問題ではない。「人生という高い山」を登り始めた若人が、自ら命を絶ってしまったということが問題なのだ。先導役たる教師と生徒は、堅い信頼関係で結ばれているべきである。そう考えると、教育委員会から出てくるべきは自己保身の言葉であるはずがない。出てくるべきは「助けてあげられなかった。申し訳ない。」というような深い悲しみや無力感ではないだろうか。


登山事故の会見で、右京さんの涙が嗚咽に変わった瞬間がある。それは、「片山さんとご一緒させていただきながら亡くなった主人は幸せでした」という、亡くなられた方の奥さんのコメントが発表された時だった。最愛の存在の死という現実を前にしても、奥さんの右京さんへの信頼は揺らいでいないのだ。こんな信頼関係こそが、今の日本の教育界に必要なのではないだろうか。保護者、教師、生徒、が本当の信頼関係で結ばれる日は来るのだろうか。