日本の、世界の、食の常識を超えていく。 -7ページ目

矜恃

医療の最先端で活躍する方とお会いすることができた。重篤な心臓病を患う子供達が集う、小児集中治療室でその人は働いている。生と死が行き来するその職場は、ハッピーエンドとは限らない、悲劇も含めた様々なドラマが繰り広げられているのだと想像する。だからなのであろう、医療の現場の事を、その人は皆まで語ろうとしない。しかし、その眼差しからは、知性と品性とともに、命を救うことへの強烈な自負心を感じた。それは医療にたずさわる人間としての「矜恃」と言えるのかもしれない。このような医療従事者がいるからこそ多くの命が救われるのだろう、久しぶりに心が洗われた気がした。


私が死というものに直面したのは、物心がついてからで言えば、博多に住む祖母の死だった。優しい、情に厚い、威厳のある祖母だった。そんな祖母が一度だけ、複雑な表情で私を見つめたことがある。私が大学受験に失敗し、浪人が決まっていた時だった。私は、大学受験の報告も兼ね、既に病床に伏し、入院中の祖母を訪ねた。いつも笑顔で迎えてくれる祖母の笑顔がぎこちなかった。「何ばしよっとか!」そう叱咤されていると感じた。病床に伏している祖母に対し、なんら元気づけてやることもできず、自分のふがいなさを感じ入る、あの時の無力感を今でも忘れない。


その日から半年も経たない17年前の暑い夏、祖母は息を引き取った。結局、彼女に大学合格の報告をすることはできなかった。危篤の報を受け、駆けつけた私と父、そして2人の叔父の4人で病院に寝泊まりし、懸命に看病した。その時のドラマに関しては、ここで書くことはできない。いや、私にそれを表現できる力は無いと言ったほうが適切かもしれない。祖母の生と死の狭間を見守り、そしてその死を通して、18歳の私は様々なことを感じた。少なくとも言えることは、祖母の死後、私は人生を生きて行く「自信」がついたということだ。それは、誰しもが所詮は死ぬ運命であり、そうであるならば、良い意味で(享楽的ではない意味で)面白おかしい人生を送るべきだ、という「開き直り」であり、あの世から祖母が見守ってくれているのであれば、私の人生は、人事を尽くしている限りにおいては、必ずや輝かしいものになるのではないか、という「根拠の無い思い込み」だ。しかし、開き直りや思い込みではあっても、その「自信」のおかげで、私の人生はそこから良い方へがらりと変わった。この「自信」がなければ、起業もしていなかっただろうし、していたとしても消えていっていたのではないだろうか。


最近、夜寝ながら、今の私は祖母の期待に応えることができているのだろうか、孝行できているのだろうか、とつらつら考える。祖母が生きている間には、その期待に応えることが出来なかった私。今の自分であれば、目を細めて見てくれるのだろうか。それとも私が受験に失敗したときのように、叱咤するのだろうか。いずれにしても、祖母の期待に応えられるような人生を送りたいと思う。祖母に対し、恥ずかしくない人生を歩みたいと思う。それは祖母の孫としての、日本人としての、私の「矜恃」と言えるのかもしれない。


来月は盆だ。今年は祖母に何を報告しようか。

アジア視察 ~ベトナム編~

ベトナムではマーケット視察の合間に戦争博物館へ足を運んだ。そこで私は、ベトナム戦争の恐ろしい展示物の数々に、目を覆いたくなった。ベトナム兵を処刑したギロチン(しかもその切り落とした首で米兵はサッカーを楽しんだらしい)。拷問で歯を全て折られた方の写真、空襲で一家全員が亡くなっている写真。枯れ葉剤の影響で奇形で生まれてきた方々の写真(親子3代まで影響をおよぼし、現在でも多くのベトナムの方を苦しめている)。それらすべて、人間の狂気とはここまでのものかと思い知らされた。ベトナムの施設であるため、自国の苦しみに焦点をあてていたが、アメリカ兵も同じような苦しみを受けたことだろう。戦争を通じての、双方の、憎しみ、怒り、恐怖、といった感情が人をここまでの狂気へと駆り立てるのだろうか。

私はNo more war. Love and peace.とは単純には言う気になれない。兵器を持つ隣国が、何かの拍子にそれらを使用するという可能性を否定できないし、また、その兵器をちらつかせ、こちらがのめない要望を押しつけてくるという可能性もあるからだ。しかし、人をここまでの狂気に駆り立てる戦争というものは、絶対に避けなくてはならない、徹底して避ける努力をするべきだ、ということを改めて痛感した。

このような戦争をくぐり抜けてきたベトナム。しかし、人々はたくましく生きていた。所狭しと走り回る、おびただしい数のバイク。ドリアンや香辛料のむせ返るような匂いの中、多くの買い物客で賑わう市場。出生率の低さで苦しむ日本とは比べものにならないほどの多くの若者(むしろ出生率の高さが問題になっているという)。日本でも20年~30年前までは感じることのできた「明るい未来」がそこには満ちていた。60階建てのオフィスタワーの建設が進むなど、経済的にもめざましい発展を遂げている。もちろん町の中心地を離れるとまだまだ貧困層も多く、我々が進出するには時期尚早の感を拭えなかったが、人口8000万人のマーケット、中期、長期的には極めて有望であることは間違いないだろう。

最後に、今回特に印象に残ったのは、ベトナムの人々の、真面目さ、勤勉さ、礼儀正しさ、だ。おそらく仏教の影響であろう、どのベトナム人に会っても、日本人が忘れかけているそれらの素養を感じた。農村部に広がる手入れの行き届いた田畑に、私は日本の原風景を見た気がした。彼らの笑顔をたたえた挨拶に、駆け引き抜きの純朴な人間性を感じた。

私は、ベトナムという国が好きになった。

フランスからの占領、そして戦争という苦難を経てもたくましく生きる多くの人々、私はベトナムの益々の発展を願って止まない。

アジア視察 ~シンガポール編~

最近は海外に視察に行くことが多い。今月はシンガポール、そしてベトナムを視察してきた。はじめにシンガポールで感じたことを述べてみたい。

能力ある政治家が、国を富ますために合理的に発想し、その発想を確実に実行できている、そんな国であると私は感じた。

シンガポールには、金融、貿易、観光の立国にして行こうという明確なビジョンがある。外国資本と富裕層を誘致するため、法人税は最高税率でも18%、所得税は20%に抑えている。それぞれ40%に達する日本の半分程度だ。人件費が相対的に抑えられているのも、外国資本を誘致する上で重要な点であろう。貿易では、シンガポールをアジア域内の拠点とする企業に特別優遇税制を設定し、アジア貿易のハブとなるようにしている。実際、シンガポールの海は多数の貨物船で埋め尽くされていた。観光では、至る所に各国の言語での案内板を設置(日本語での案内板も数多くあった)し、観光客の利便性を高め、空港もアジアのハブとして機能している。計画的な緑化事業により、赤道直下であるにもかかわらず朝夕は快適だ。緑の多さも観光に一役買っていることだろう。

このように、目的に対して適切な方策を考え、実行している。非常にシンプルで合理的だ。減税が目立つようだがもちろん減税一本やりではない。増やすべきではない物や贅沢品に対しては高い税率を課している。日本で買えば200万円もしないであろうカローラが、現地では税金を含めると400万円以上もするらしい。(そうは言っても富裕層の多い現地ではメルセデスやレスサスなどの高級車が数多く走っている)アルコール類なども高い税率がかけられ、日本で飲むより相当割高だ。その反面、住宅、生活必需品は徹底して価格を抑え、庶民の生活を下支えしている。特に住宅については、シンガポールは持ち家比率が90%を超えている。強制的な住宅購入資金積み立て制度と政府公団住宅により、日本の3分の1程度の費用でマンションを購入できるからだ。このように、世界から富裕層や優良企業を集め、投資を促進し雇用を生み出しつつも、庶民の居、食、住もしっかりと守っているのだ。方向性が明快であるため結果も明快だ。何の資源もない国、シンガポールのアジアでの存在感は今さら言うまでもないだろう。

資源の少ない、広い国土を持たない日本にとっても、参考になる部分が多いのではないだろうか。日本の現在の政治状況では、既得権益を持つ者が声高に既得権を主張し、政治家はそれに振り回され、いっこうに改革が進まない。日本は、日本人はもっとシンプルに合理的に考えるべきではないのか。あるべき姿を思い描き、そこへ向かうための具体的施策を実行していく。それだけで日本の経済は全く違ったものになるのではないだろうか。

シンガポールがマレーシアから独立したのが1965年。わずか30年程度でアジアのハブとなり得たのだ。今決断、実行しさえすれば、我々日本の30年後も相当に明るいものになると思うのだが。