最近、新聞を開けば、名だたる大企業が人員削減を発表しています。アルバイト→派遣→契約期間内の期間従業員→できの悪い年配の正社員・・・という順番でしょうが、突然解雇されて、さらに寮に入っていた従業員は追い出されます。当人からしてみれば、急に職を失い路頭を迷う可能性があるわけですから、焦ります。不当に扱われたように感じ、解雇の取り下げを企業側に迫ります。心情的には分かります。そして、集団で迫れば何とかなりそうな気もします。


しかし、たいていの場合は、合法的に解雇しているわけで、別に契約書に細かく不当なことが書かれていたわけではありません。こと、派遣、期間従業員に至っては、そういう雇用体系を国が認め、企業側、雇用される側、双方の合意の下成り立っていたわけです。


そういう意味では、企業の人事部に集団で押しかけるのは、お門違いです。企業に派遣を雇用し続ける義務はありません。まず、ハローワークに行き、にっちもさっちも行かないのであれば、国会の前でデモでもすべきです。現状のシステムでは機能せず、失業率が上がり、底上げどころか、底から駄目になっていきますぞ、と。経済が揺らぐ昨今、与党と野党でお互いの揚げ足を取るのではなく、救済措置を取るべく、新しい法案を可決してくれぃ、と。


内閣の支持率が20%以下であるからといって、与党と野党が変わったところで、結局は、自民党を叩くことが仕事である民主党がいい仕事をするとは思えない。世の政治への関心を高め、政治家が国民と向き合うためにも、是非、失業者は、自分たちを解雇した企業ではなく、永田町に行ってほしい。

さて、「Sについて記事書いて」とのリクエストに答えて、いつもとは毛色が違いますが、友人Sに関して書きます。Sは、落ち着いてますが、いわゆる天然なところがあり、発言を周囲からツッコまれるタイプです。自分とは全然タイプが違うし、やりたい事も違うわけですが、よく参考になるアドバイスをもらえるので、話がかみ合わないことなんて気になりません。というか、職業柄、海外の人間相手に営業する機会が多いので、会話がかみ合わないのは、ある意味日常茶飯事です。そのずれた会話を自分でチューニングするのは、無意識にやっている場合が多いので、かみ合っていないということを言われて、意識して、初めて「確かに」と思いました。


話を戻して、Sのアドバイスは、自分の専門分野には精通していない分、むしろ自然体でシンプルです。なので、すっと頭に入り、妙に納得してしまうのです。結局、マーフィーの本が売れたり、カーネギーが時代、分野を関係なく仰がれているように、人生、やりたいことをやるのに根本的な考え方、原理なんて実にシンプルで不変的なものなんです。それを下手に知識を付けて限界を作ったり、社内外の政治に手を汚したりして、自分で複雑にしているだけなんです。


というわけで、友人Sは自分にとってマーフィーのような存在ですかね。どちらかというと「夢を叶える象」のガネーシャに近いかも。あんなに荒々しくはないですが。

日本では、耳にタコができるほど、原爆は駄目、戦争は駄目と、小学校、中学校で叩き込まれる。学芸会で、戦争の犠牲者を演じたり、修学旅行で原爆ドームに行ったりと。一般市民レベルでは、戦争したって百害あって一利なしなので、すんなりとその教育が入ってくるし、特別批判する人もいない。日本国憲法の上でも、戦争に参加することは、第九条で禁じられているので、義務教育としてそのようなスタンスを取ることは、一貫している。

では、その一方で、イラク、アフガニスタンを武力で制圧し、未だ治安維持のために軍をそれぞれの国に置いているアメリカはどうだろう。実際に、自分はアメリカの公立高校でアメリカ史の授業を取っていたが、戦争は駄目、という内容は全く出てこない。授業では、戦争は歴史上の事実として、客観的に紹介される。日本で、桶狭間の戦いは、織田信長が今川義元の大軍を破った、といったような形で紹介されるように、第二次世界大戦も紹介される。広島、長崎の原爆投下も、ただの事実として、サラリと触れるだけ。何度も繰り返し取り上げられ、毎年8月15日には、スポットライトを浴びる行事がある日本で育った自分としては、非常に違和感を感じた。

そして、原爆のことよりも、テストに出る内容として、昭和天皇の名前(裕仁)を覚えるように言われる。中高で基本的に真面目に勉強しなかったからかもしれないが、明治天皇の名前なんて、その時、初めて知りました。アメリカ人としては、アメリカが第二次世界大戦で始めて攻撃を受けた真珠湾攻撃を命じた昭和天皇の方が、原爆よりも大事なのは、自国のプロパガンダとしては、当たり前なのかもしれない。

では、アメリカはまた戦争を始めるのか。イラクやアフガニスタンを武力制圧したものの、自爆テロが増え、アメリカ政府はそれらの国の作戦は公式に失敗であったと認めている。そして、サブプライムローンの焦げ付き以前から、莫大な軍事費用がアメリカ経済を圧迫していたし、足元の国内の経済状況では、とても新たな戦争に出る余裕はない。

アメリカに限らず一般的にも、今日の各国の経済は複雑に絡み合っている。グルジアへ侵略し、メドベージェフ大統領が孤立を示唆するような発言をしたロシア市場から海外投資家が一斉に身を引き、株価が暴落したのがいい例。ゆえに、戦争が、他国の経済状況の悪化を招けば、戦争を始めた国にも悪影響を与えかねない。しかし、現在のアメリカのサブプライムローンの焦げ付きに始まり、行き過ぎた金融工学を是正する動きが、外国からの直接投資を規制し、自国経済の保護、デカップリングを促進するのであれば、ある意味戦争をしやすい環境へなっていくのかもしれない。
を、先週末に見に行ってきました。映画館で映画を見るのは久しぶりだったわけですが、この作品、インドのカルカッタのスラム街の売春宿が密集するエリアに住む子供たちにスポットをあてたドキュメンタリーで、急成長する大国インドのひずみを描いた作品です。

インドという国は、公用言語だけでも、20近くもあり、他にも、民族、宗教、経済的階層、社会的階層が多様で、とても奥深くおもしろい国だと思います。それらが複雑に絡まり合いながら、そこに貧困が存在し、時に曲がった形で現れる。

その一つが売春で、田舎のほうに行けば、一回100円くらいだと聞きます。自分も、インドでの1年間の仕事を終えて、長旅をしている最中に目撃してしまいました。聖なるガンジス川の近くのレストランで、娼婦がサービスを提供しているところを。ガンジス川は、成仏するために、インド全土からなくなった人を運んできて、川のほとりの火葬場で焼き、灰と骨を川に捨てる。その火葬場の隣では、重病を抱えた人が、ガンジス川へ埋葬されるために、死を待つ家がある。人間としては避けられない生と死を目の当たりにした後だったので、余計インパクトが強かったです。

それ以外にも、画一的な地方の習慣から来る殺人やDVなど、インドはまだまだこれからですね。

アメリカの通信機器メーカー大手のモトローラが1980年代に開発したもので、6σ(シックスシグマ)という概念がある。σとは、統計学で標準偏差のことで、偏差値の計算に使われる。6σというと、その事象が起こりうる確率が100万回に3、4回ということで、品質管理上、作られた商品(またはサービス)のうち欠陥品の確立をそれ以下にする、という目的で開発された。この6σのコンセプトを開発した人間が、たまたま柔道家で、6σのプロジェクトの中心人物に対しては、黒帯の称号が授与される。


簡単に言うと、エラーを限りなくゼロに近い確立まで持っていきましょう、ということで、例えば飛行機が落ちる確率というのは、6σをさらに下回っている。GEが積極的に改良を重ね、ほかにも日本のソニーや東芝も6σを採用している。これらの超有名企業が採用してるくらいだから、さぞかし難しいことをやっているんだろう、と思うでしょう?しかし、インドのムンバイにも6σを達成している人々(dabbawallahs)がいるんです。しかも、彼らは字の読み書きもできません。


彼らが何をしているのかというと、弁当箱を運んでいるんです。ムンバイを縦断する列車の通勤ラッシュは、東京の比ではありません。電車の外にぶら下がったりで、かばんを持って入ろうものなら、自分は出れても、かばんは車外へ出てこない、という状態な程混んでいます。だから、通勤する人々は手ぶらで通勤するわけですが、たいていの既婚者(男)は奥さんに毎朝弁当を作ってもらうわけです。そこで、字の書けない彼らが、駅で弁当を受け取り、通勤客の会社まで届ける、というサービスを提供しています。毎日、約20万個と言われる弁当を運び、さらにモンスーンの季節であっても、彼らは間違えません。その間違えの頻度が6σを達成しているんです。その正確さには、イギリスのチャールズ皇太子が着目し、インドに来た際、わざわざ彼らを訪問したということもありました。


登記された会社でもなければ、それ以前に字の読み書きができない貧しい彼らが、何故そこまで正確にできるのでしょうか?それは、プレッシャーです。約5,000人と言われる仲間うちでの連携プレーで成り立っている仕事であって、自分がミスをすれば、クレームが発生し、その連携から外されて村八分になってしまう可能性があるからです。字の読み書きができない人々なので、一度職を失ってしまえば、生死に関わってきます。


その恐怖感がいいか悪いかは別として、ここから言えることは、必ずしも先進国資本の多国籍企業が優れているとは限らない、ということです。多国籍企業は、収益を上げるために、成功事例を分析し、体系化することによって、事業の規模を大きくし、収益を拡大させようとする。しかし、それぞれの国の事情は違うわけで、必ずしも一つの国で成功したものが、他の国で受け入れられるわけではありません。ましてや、ビジネスの環境や文化が変われば、それに対応したビジネスのやり方が求められます。それは、トヨタが各現場で従業員にKaizenをさせたように、その地域に精通した人間でなければ分からない事情があり、それがビジネスをする上で決定的な要素になることもあります。さらにインフラが整い中流階級が大多数の先進国の成功事例からは考えられないやり方のほうが、コミュニティの調和を保ち、ビジネスの持続性という意味では、安定的な収益が上げられることも考えられます。バングラデシュのグラミンバンクが行ったマイクロファイナンスは有名で典型的な例です。


過去に先進国資本の多国籍企業が、生産拠点として、後進国の安価な労働力を利用し、メディアに批判されないように、社会福祉事業にも莫大な資金を投入してきた。が、本来の事業において、現地での雇用の創出は言うまでもなく、むしろ現地の消費者に着目し、土着化したやり方で、製品・サービスを販売することで、継続的な収益を上げ、人々の生活を改善することは可能であると思います。