村井秀夫刺殺事件の真相を追って -40ページ目

村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫は何故殺されたのか?徐裕行とは何者なのか?
オウム真理教や在日闇社会の謎を追跡します。
当時のマスコミ・警察・司法の問題点も検証していきます。
(2018年7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚らの死刑執行。特別企画実施中。)



●『朝まで生テレビ!』
1991年9月28日 。『朝まで生テレビ!』にパネリストとして麻原、上祐、村井秀夫、杉浦実が出演。幸福の科学幹部らも出演するが、番組途中に麻原が番組の運行が幸福の科学に有利に進められ、発言の機会も幸福の科学の方が多いなどと興奮し、大声で司会の田原総一朗に食ってかかる場面があった。これに対しパネラーの一人であった下村満子は、「あなたは解脱者を自称するのに、どうしてそんなことで興奮するんですか」と麻原をたしなめた。一方で池田昭、島田裕巳など兼ねてからオウムに共鳴的であった宗教学者も出演した。



●ロシア視察と武装化路線
1992年3月。麻原は300人の信者とともに1400万ドル(15億円)の金を用意しロシアを訪問。
ルツコイ副大統領、ハズブラートフ最高会議長、ロボフ専門家会議長等、ロシアの要人とコンタクトをとった。中でも協力的だったのはロボフ議長であり、オウムの支援により「露日大学設立」を設立した。

同年6月、オウム真理教モスクワ支部設立。当時ロシアはソ連崩壊の影響で物価が急上昇し、市民の生活が成り立たない状況だった。そんなロシア国民の隙を狙い、オウムは次々と信者を獲得していった。その傍らでオウムは教団武装化の手掛かりを模索した。

9月、麻原は村井と早川に密命を与えた。


(汎用機関銃を構える早川紀代秀。)

麻原「教団で自動小銃を製造する。ロシア製の自動小銃の現物を見たい。ティローパはロシアに知り合いがいるから、それくらいできるだろう」

92年12月、麻原は早川にロシアでの自動小銃密造のための調査を指示。
早川はロシアを頻繁に訪問し、兵器製造に関する情報収集を続けた。


(映像中、村井秀夫の声も確認できる。)


●「オカムラ鉄工乗っ取り事件」



オカムラ鉄工は、石川県寺井町(現・能美市)に本社を置く油圧シリンダー製造会社であった。
従業員は130名ほどいたが、不渡手形を掴んだことなどにより資金繰りが悪化し、再建に向けて銀行の追加融資を受けており、年間40億の売り上げを維持していた。


経営者・岡村博男氏(当時48)は当時オウム真理教に入信していた。
岡村氏の手記によると、麻原、村井秀夫、石井久子の3人が、初めて「オカムラ鉄工」と訪問したのは87年12月4日。

この時村井は、以前務めていた神戸製鋼の名刺を差し出し「今日は、会社経営の勉強に来ました」と言い工場内部を視察して帰った。

2年後のある日、岡村氏はオウム幹部の大内利有から「面倒を見てやってほしい」と信者の就職相談を引き受けることになった。この信者は金沢支部の女性信者(95年当時37歳)で、93年11月16日に出家していた。

岡村氏に雇われた女性は「オカムラ鉄工」関連会社の「オカムラスプロケット」に入社し、事業部で働くことになった。主な仕事は出荷だった。岡村氏を除くと、社員の中でオウム信者だったのはこの女性だけだった。

女性は工場近くの寺井町に住んでいたが、毎日仕事が終わると、金沢町京町のオウム金沢道場へ自転車で通っていたという。(寺井町から金沢市内へは車でも1時間かかる)
岡村氏が経営に悩む隙に、女性信者は工場内を調査し教団に報告した。



やがて岡村氏は同教団代表の麻原彰晃に相談したことから、教団が経営に関与することになった。
麻原は「2ヶ月で無借金経営にする」と豪語したが、「オカムラ鉄工」に新製品開発を持ちかけて無駄な投資をさせ、資金操りを悪化させた。92年年頭からは産業廃棄物処理や小型焼却炉「ファイナルクリーナー勝利者」の開発を持ちかけ、1億3000万円の投資をさせた。さらに、麻原がメーンバンクに直接融資を申し込んで、オカムラ氏が銀行から直接支援を受ける道を断ち切った。

4月11日、「京セラを超える会社を作る会」と称した講習会を行った。第一回は京都の不動産業者宅で開かれた。この時岡本氏は「会社が急成長する特別な商品開発のやり方、営業戦略、求人対策と社員教育などの話があると思っていた」という。講習会では、教団幹部の大内利裕から「スーパービジョンという商品を次に用意しているので、3年で東芝のような会社になるでしょう」などと”バラ色の夢”を聞かされた。しかし、実態は違った。

岡本氏「中身はオウムの一般のセミナーで話される協議。また、事に当たっては先手必勝で、最大の防御は攻撃だとか、相手にはこちらの情報を与えず、常にこちら主導で話を進めていくなど、俗っぽい説法ばかりだった」

オウムは訳の分からない説法と魅力的な商品開発の話を交互に繰り返して岡村氏を混乱させようとしてきたのである。

この話に対して、岡村氏が「事業として、もっと割り切ってやろう」と提案すると「それなら尊師は手を引きます。岡村さんは信用できない。ここでざんげをしたらどうだ」と大内から脅された。この講演会は6月18日の第4回で終了した。

6月23日、麻原は岡村氏を第2サティアンに呼び、まだ開発段階だったファイナルクリーナについて「オカムラには、ここなでの技術しかないのか。富士で作るから設備を富士へ持ってきなさい」と話した。

「ファイナルクリーナー勝利者」は小型の流動式焼却炉。従来の者は砂を使用するため塩分を含むものを燃やすと塩分と砂が固まってしまうが、「勝利者」はセラミックボールを使い、塩分を含んだものでも焼却できるという触れ込みだった。オウムが作った焼却可能なものとして「糞尿、死骸、廃プラスチック」などが上げられている。

熱交換器やバグフィルターなど周辺機器は既にオカムラ側が既に完成し、中心の焼却炉部分はオウムが担当することなっていた。しかし開発は遅れた。焼却炉の開発をしていたのは滝沢和義、渡邊和実だったが、「彼らのレベルでは設計はできても製造は不可能だった」という。そのため途中で開発は中断し、この頃から岡村氏は麻原に不信感を抱き始めた。(麻原は92年5月にこの「勝利者」を本名の松本智津夫名義で特許出願している。)



7月になって、支援に乗り出していた取引先の機械部品販売会社の経営が悪化し、同31日に倒産。
オカムラ鉄工は3億2000万円の不良債権を抱える。翌日、岡村氏は第2サティアンへ出向き、麻原に再び相談。麻原は現金4000万円の入ったリュックサックを差し出し「これを使いなさい」と答えた。

8月、麻原は岡村氏に「現金で20億円持っていくから、銀行の支援は受けるな」と釘をさす。
一方で岡村氏の知らない間に、オウムが会社のメーンバンクに「教団の資産をすべて担保にする」という条件で15億円の融資を申し込みを行う。これが「オカムラ鉄工」とオウムの関係を世間にアピールする結果を招く。

当時から熊本波野村進出をめぐる住民とのトラブルと県警による強制捜査・坂本弁護士失踪事件によって危険な集団のイメージがつきまとっていた。銀行はすぐに「宗教団体の教祖が全面に断っている企業に融資はできない」と結論を出す。その結果、15億円の融資は断られる形で終わった。

8月末、教団の公認会計士が乗り込んできて資産状況を調査し、教団幹部の飯田エリ子と大内早苗が社員を入信させるために会社を訪れた。

岡村氏は大内利裕からこういわれた。「社員が全員オウムに入らなかったら、この会社は助けられない」

8月26日、岡村氏は会社幹部に事情を説明し、翌27日には会社近くの寺井町福祉会館に全会社員を集めて入信の説明会を開いた。

銀行の支援を断たれ、追いつめられた岡村氏はオウムに頼るしかなかった。
この頃から離職する社員が出てきた。


(暗い表情を隠せない岡村社長、従業員に向かって説明する上祐)

1992年9月13日、麻原は第2サティアンの会合で勝手に「オカムラ鉄工」の社長に就任する事を宣言。岡村氏には事前の相談もなく、その夜男性信者夫妻から一方的に通告を受けた。

その時の岡村氏は「あきれてノーともイェスとも言えなかった」という。

悪夢の社長交代劇は14日。麻原は自らオカムラ鉄工社長に就任した。その日、知人宅に呼ばれた岡村氏は新実智光からこう言われた。

新実「2ヶ月間でオカムラ鉄工を無借金経営にして返します。何かあったら尊師が責任を取ります。(尊師が)真剣にやる時は社長を交代してください。岡村さんは副社長を見ていてください」

そして新実と教団の公認会計士ら幹部が岡村氏を取り囲むと、「これに判を押してください」と書類を見せた。それは「オカムラ鉄工」など4グループの株式を、岡村一族から麻原に譲渡するするという書類だった。しかも文面は岡村氏がオウムに経営を依頼したということになっていた。

更に新実は、その場でテープを回し、「これから株主総会を開きます」と勝手に宣言。「株主譲渡」の手続きを写真と録音で記録。

「この間の雰囲気は異様で、私たちには一切、考えさせる時間と余裕を与えなかった」「オウムの幹部に囲まれ、威圧感の中で、半ば強制的に一連の書類に印を押す作業が進められていった」という。

16日、オカムラ鉄工が運営する工場(能美郡寺井町)に麻原がやってきた。
時刻は午後3〜4時ごろで、バスには石井久子ら信者60〜70人が乗っていた。


到着した麻原は全社員に向かって「オカムラ鉄工は倒産した」とあいさつした。
当時、常務取締役経理部長だった岡村氏の妻は、この日経理室で金庫の前に座っていた。そこへ新実が「奥さん、ちょっときてください」と声をかけ、その間に教団公認会計士、上田竜也らが部屋を占領した。

上田「もう、この部屋には入らないでください」。あっというまの出来事だった。
金庫の中には会社と岡村氏個人の実印があった。「社長の地位を追われても実印があれば何とかなる」という、岡村氏の思惑はもろくも崩れ去った。

従業員の間にはますます動揺が広がる。関係者によると「ほとんどの社員は12月まで我慢してボーナスをもらってから退職するつもりだったが世間の目が許さなかった」という。
「お前はオウムの信者になったのか」「結婚に差し支えるからやめろ」

会社や工場内の壁には麻原のポスターが貼られ、社内放送では「彰晃マーチ」などオウム真理教の音楽を流すなど会社のオウム化を進めた。約130名いた従業員は次々と退職。10月2日の時点で以前から働いていた従業員は10人前後だった。従業員の大量退社は大幅な納期遅れを招いた。

この交代劇をめぐって、ある男性信者が麻原から裏切られている。この男性信者は麻原から「岡村さんの面倒をみてやれ」と指令を受け、会社が倒産しても個人資産が残るよう工作した。手口は、自分が経営する金融会社を通じて「オカムラ鉄工」に3億7000万円の担保を設定するというもので「勝手にお金を貸したようにした」という。これは明らかに破産法や商法に違反する疑いがあるが「そのお金を持たせて私を逃がしてやれという、麻原の指示だったようだ」と後に岡村氏は手記で懐述している。ところが9月13日になって麻原はこの男性信者を第2サティアンへ呼び「実刑を受けるぞ」と脅し、「(この件は)お前に任せていたが、オレが社長になっていくしかないな」と宣言する。

捜査関係者によれば「麻原は、表向きはその男性信者が悪いように見せかけた。その男性信者は岡村さんに対する善意も持っていたので、結局は麻原にはめられた」という。その男性信者はすぐに担保を撤回した。

「オカムラ鉄工」は10月15日倒産した。



その後、麻原彰晃を社長、村井秀夫を常務取締役とし、「株式会社ヴァジラ・アヌッタラ・ヒタ・アビブッディ精密機器工業」と名を変え、従業員のほぼ大半をオウム信者(延べ約80人)で固め、会社乗っ取りに成功した。


(ニヤニヤしながら記者会見する麻原)


1993年1月、オウムは工場内の機械をトラックに積み込み山梨へ搬出した。搬出先は教団工場「清流精舎」だった。

2月、臨時株主総会が開かれ、会社の解散が決まった。負債総額は約26億円だった。
2月末、岡村氏は弁護士を通じてオウム真理教の脱会届を出すとともに債権者や元社員、親類宅などを回り始めた。一人当たりの債権額は100万円から10万単位が多く、債権者からも「今さら返してもらおうとは思わない。もう訪ねてくるな」と冷たい言葉が返ってきた。

社員の大部分は再就職した。
元社員「突然、不況の真っただ中に放り出された。社長はとんでもないことをしてくれた」

岡村氏は貸家に暮らし、土木作業や引っ越しのアルバイトで生活費をまかなった。

岡村元社長「途方に暮れた家族が泣いている。自分の罪深さを自覚する」


「朝日新聞」93年5月26日夕刊13面より


・兵器開発への道

1月31日。麻原は、大勢の信者らを前に「ノストラダムスの予言」と称し、教団の武装化を進める宣言をした。

麻原「オウム真理教は、やはり、最終的には軍事力を有することになるんだろう」



1993年2月13日。ロシアを訪問した村井はロケット施設へ向かった。
これらはソ連がアメリカに対抗するため生まれた、いわば冷戦時代の産物である。



ロシア人技師「マッハ17ぐらい出ます」

村井「おぉー」



子供の頃から宇宙に憧れてきた村井にとっては大変幸せな体験だった。村井は夢中になってカメラのシャッターを押した。




1993年2月28日。麻原は村井にロシアから自動小銃密造のための調査を指示。自動小銃の部品や銃弾を持ち帰る。

4月以降、村井は土谷に対し、LSD,Vガス、ソマン、サリン等の研究を指示。
4月21日〜5月1日、早川がロシアへ渡航。


93年夏。
村井は東京都中央区にある特殊鋼卸会社など3社から数十t単位の鉄くずを数回に分けて購入した。村井は卸会社を直接訪れたり、ファックスで連絡を取ったりして特殊鋼を合計120t注文した。購入していた特殊鋼は、直径十数㎝から三十㎝で、長さ1mから数mの丸棒鋼。資材は「清流精舎」へ搬送された。麻原の野望が着々と進められた。



93年6月、「マハーポーシャ・オーストラリア」が設立。西オーストラリア州中部のレオノラ近郊に羊牧場を購入した。

●亀戸異臭事件

1993年6月28日。
東京都江東区亀戸七丁目、オウム真理教「新東京総本部ビル」。鉄筋8階建てのビルの最上階から突然、大量の水蒸気やが吹き出した。同時に、水蒸気から酷い悪臭が漂い、近隣住民たちの日常をかき乱した。道路には「ゼリー状の物体」がまき散らされていた。


(東京都江東区・新東京総本部ビル)

この騒動は麻原が炭疽菌による無差別テロを計画したものであった。これは皇居周辺で疫病が発生する予言の演出だった。

麻原「君たちはほふられた子羊だから、救済のために頑張るように」

炭疽菌はビル内で培養したもので設備は遠藤誠一と渡部が担当した。さらに渡部と豊田亨がトラック用エンジンを動力とした噴霧装置「ウォーターマッハ」を開発し、地下一階に設置する大規模工事を実施した。噴霧のときは炭疽菌を地下から屋上までパイプまで通り、二基のクーリングタワーから噴射、周辺を攻撃する大規模な仕組みとなっていた。


(工事現場を視察に訪れた麻原彰晃と村井秀夫。6月8日撮影。)


(工事現場を監督する村井秀夫ら)



28日、麻原、村井の立会いで外部に向けて前後二回にわたり炭疽菌が散布された。
信者たちは被害対策のためガスマスクを装着し点滴を受けた。6時間おきに飲む薬も準備していた。



ところが、この殺戮設備には欠陥があった。噴霧器の噴射が高圧だったため、エンジンが火を吹き、オーバーヒートを起こして途中階のパイプが破損してしまった。さらに、亀裂から物凄い悪臭が漏れてしまったため皆パニック状態となった。
臭いを防ごうと試しに香水を混ぜてみたものの、逆効果。耐えられなくなった早川は防毒マスクをつけてそのまま外へ飛び出した。

麻原「バカヤロー!!そんな格好で外へ出たらばれるじゃないか!!」



結局は炭疽菌が死滅し、オウムの殺戮計画は失敗に終わった。

実行犯の一人である原吉広は「爆発物をつくるためと思っていたが、村井が仕掛けた電気分解装置の設計がいい加減で最終生成物の生成に失敗した」と証言している。

しかし教団にとって更なる災難が待ち受けていた。


7月2日。

住民「くせぇな、これ」「何かくせぇな」「くせぇな」
悪臭に反応して住民が次々路上に現れた。



臭いの発生源を探して住民たちはぞろぞろと「新東京総本部ビル」前に、皆荒々しい声をあげて押し寄せてきた。その数約100人。

信者「大変なことになったぞ…」

信者たちは異臭の原因について「宗教儀式で大豆と香水を燃やしたため」と誤摩化すも、他の信者が「米軍や国家権力から毒ガスや細菌攻撃を受けている」と異なる返事をしたため、雲行きはますます悪化。


信者「うっせーなー!バカヤロー!」

住民女性「だってしょうがないよー!我慢の限度がきてんだからね!」

住民男性「だっ、代表として話をしようと言ってんじゃんか!」

住民男性「だってね、だってね、今まで公園に20羽ぐらいいたハトったねー、スズメがいた一匹もいないやんか!(原文ママ)アンタ鳥が逃げるとこで生活できるかお前ー!いっくらなんだってさー!」

激怒したが集結する中、専用のベンツで麻原尊師が登場。住民たち怒りは頂点に達した。




住民男性「麻原だ!麻原!ホラ」「オーイ取り囲めぇー!オーイ取り囲めー!全部取り囲めー!」
住民女性「麻原だよ〜!」



麻原を守ろうとアーナンダ井上が必死になり絶叫する。
井上「代表者ですから!」

住民「お前ねッ!さっきから出て来いいって言ったのに出てこんじゃんか!!」

井上「警察の代表者と、住民の代表者と…」「教祖ですから!!」

住民男性「今出て来いったん!車から!」住民女性「ショーコー!!」「ショーコー!!でろよー!」「オルァー!」




車はすぐに住民に取り囲まれベンツは蹴られてボコボコに。

「オメーかァ麻原は!この野郎!」

殺気立つ住民を前に、麻原は車の中でブルブル震えるしかなかった。その姿は天敵の前で怯える小動物のようにみえた。ひるんだ麻原は近くにいた警察官に弱音を吐いた。

麻原「おまわりさ〜ん。私、帰ったほうがいいですよね」

警官「ダメだ帰っちゃ!きちんと住民に説明しなさい」






「痛い!」


(この時に限り警察に守られる麻原)

住民男性に頭を小突かれながら車外に出た麻原は、住民代表のもとへ向かった。

住民代表の松川博一氏が「悪臭を出さないでほしい、悪臭の原因が何なのか」と麻原に詰め寄った。警官が仲裁に入り住民代表と教祖の間で会合が行われた。


(住民の怒りが下火になり、なんとか車へ出られた麻原。教祖らしく振る舞う。)

異臭は4日間続いた。
悪臭騒動を受けて江東区公害課が教団ビルの立入検査に踏み切ろうとしたが、上祐が期日を二週間後に指定。検査が行われた時には、屋上に設置してあったクーリングタワーは撤去されていた。撤去されたクーリングタワーは上九一色村の「ジーヴァカ棟」あたりに移されたという。

亀戸異臭事件は住民、教団そして麻原自身に深い傷を残した。
やがて信者たちの中に激しい狂気と憎悪のうねりが胸の内に芽生えていった。




●サリン事件への道
炭疽菌は成果を出さないまま終わった。
麻原は、村井、上祐、新実らを集め会議の席で次の意見を出した。

「成果の出ない炭疽菌などの生物兵器ではなく、サリンの製造をすべきだ」

「生物兵器よりも化学兵器の方が効果は確からしい」

「化学兵器の方が経済効率も高い」

皆意見が一致した。村井は、サリンと生物兵器を製造する際の、それぞれの費用などを計算した。村井は早速直属の部下たちにサリン生成を命じた。

村井「サリン70tを作ります」

土谷「サリン…70t!?」

村井「ここに、サリン製造のプラントをつくり、大量生産を開始する。そのため君に…標準サンプルを作ってもらいたい」

村井「オウムは自衛力を持たなければ国家権力につぶされてしまう。1年以内に自衛隊程度の防衛力を作らなければならない。そのためにも…」

村井「尊師が君の力を借りたいとおっしゃっている!」

土谷「……!!はい!喜んで!」

村井としては、ハルマゲドン(最終戦争)に備えて教団を防衛するために化学兵器を持つ必要がある旨を土谷に説き、「ファーストストライクはない」と述べて、土谷に指示したのであった。

サリン生成は「科学班」キャップの土谷正実が中心となってはじまった。

8月。村井はサリン70t計画を麻原に発表し、了解を得た。麻原は10億円の資金を準備し、「第7サティアン」の建造を始めた。

麻原「サリンを作るためだったら、どんなに金がかかってもいいから、好きなようにやれ」

新実の前で、村井は離婚した森脇にもサリン製造の協力を依頼した。

村井「危険なワークをやってくれるか。すぐ準備してくれ」

元妻は了承した。

9月。第7サティアンの建物が完成。

同月、麻原、村井、井上、新実、遠藤誠一、教団付属医院顧問の信者がオーストラリアへ入国。
遠藤、付属医院の信者が塩酸などの劇薬を持ち込んだとして逮捕され罰金2400豪ドル(当時17万円)の有罪判決を受ける。


持ち込まれた薬品

オウムはオーストラリア国内に所有する牧場を買い取ると、サリンの効果を試すため羊を使った生体実験をおこなった。村井は現場を視察した。










(フランス漫画「Matumoto」より。険しい表情を見せる村井。)

教団は牧場内にサリンの機材を持ち込むと、実験を開始。その結果24頭の羊が死んだ。
後年、現場でサリンの残留物メチルホス酸が豪州捜査当局に発見されることとなる。



11月初旬、土谷はフラスコ内で20gのサリンの生成に成功。しかしここで村井からクレームが入る。

村井「コストがかかり過ぎる。安い物質を分解するとかして原料化できないか。もっと勉強してくれ」

土谷(サリンさえ作れば好きな通りにやってよいと言われたのに…話が違うじゃないか)

村井は土谷と中川智正にサリン5kgの生成を命じ、本格的な量産が始まった。


●「この世はもはや救えない、これからは武力でいく」

波野村の強制捜査で上祐と早川、青山たちが警察に追われる中、村井が逃走した理由は、重大な任務を麻原から命じられていたためである。村井は、波野村に塩素ガス製造の工場を建設する計画に関わっていた。

麻原「私がびっくりしたのはねぇ、第二次世界大戦の死傷者だよ。どれくらい死んでると思うか」

村井「兵隊が2000万です」

麻原「一般はどれくらいだっけ」

村井「一般入れたらこの10倍になるんじゃないかと、そんなもんじゃないでしょうか」

麻原「一般の人は相当死んでるからね」

村井「相当死んでますねぇ…」

麻原「あれは一時的なカルマの精算だよな、そう思わないか、人間の…」

村井「んー」

麻原「そういうことが今の私の研究課題なんだよ」

麻原は長年教団の武装化構想を暖めていた。90年の衆議院選挙で落選した麻原は弟子たちに「今回の衆議院議員選挙は、私のマハーヤーナにおけるテストケースであった。その結果、今の世の中、マハーヤーナでは救済できないことが分かったので、これからはヴァジラヤーナでいく」と宣言。

武装化路線を進めるため麻原は細菌兵器の大量生産を企てた。中川智正からボツリヌス菌の毒は人への殺傷効果が高いと聞き、ボツリヌス菌の培養が進められた。教団内の隠語は「ボッチャン」。「夏目漱石」とも呼ばれた。風船を利用し、アメリカまで飛ばして散布する構想もあったという。

村井は、山梨県の上九一色村の教団施設内でボツリヌス菌の大量培養プラント設置に取り組んだ。



4月には沖縄県石垣島に信者を集め、「神言秘密金剛菩薩大予言セミナー」を開催した。
当時地球に接近していたとされるオースチン彗星が大災害を引き起こす、という趣旨の説法をする予ものだった。実はこのセミナーの目的は、日本本土にボツリヌス菌を散布させ、その前に信者を非難させる目的で計画されたものであった。しかし、ボツリヌス菌の生成や散布装置が完成しておらず、避難も意味がなくなったため、急遽セミナーを打ち切った。



オウムにとって幸運なことに、この攻撃は気付かれずに終わった。一方、石垣島の集会で多額の布施が麻原の懐に入り、選挙で逼迫していた財政を立て直す結果となった。セミナーには約1,000人の参加者が集まり、出家信者が300名から800名に急増したといわれる。



6月に村井は新実らと製造したボツリヌス菌の効果を実験する目的で川に汚物を放流した。ところが山形県警に発見され、連行されるトラブルが起きた。教団内は大騒ぎになった。しかし押収されたボツリヌス菌には毒性が無く、雑菌程度のものしか検出されなかった。村井たちはすぐに釈放された。警察が教団を摘発することは無かった。

この検挙を機にボツリヌス菌の製造は中止された。



村井は警察に検挙される失態を反省し、集中的な瞑想修行をはじめた。闘争心の煩悩・カルマを落とす修行だった。3日後、村井はマハームドラーといわれる高い修行ステージを成就した、と麻原に認められた。

1990年8月4日。マハームドラー成就式典。村井は正悟師へ昇進した。ステージの違いを理由に森脇佳子と協議離婚した。森は村井の離婚をポジティブに受け止め、「最高の人間関係を実現した」と感じていたという。



強制捜査のほとぼりが冷めると、麻原はホスゲンや塩素ガスの製造計画を指示した。
村井はこの研究の責任者を勤めた。作業の拠点は富士山総本部の第一サティアン。夏には生成施設を建設し、塩素ガス製造のための機器を仕入れた。村井は装置の作成を担当し、同年9月に第一サティアンにて本格的な製造装置の作成が始まった。実験は一階の倉庫やその前の敷地で行う予定だった。

しかし、波野村の強制捜査がある情報が入ると、村井は施設を撤去し、化学・生物兵器 開発作業の痕跡をすべて消し去った。


1991年。麻原はこの年を「救済元年」と定め、社会の警戒を逸らす目的でメディアを利用した宣伝を展開した。


(ドラム叩きに熱心な麻原彰晃、そばで見守る村井秀夫)

まず、3月から4月にかけて、教団の舞踏団によるダンスオペレッタ『死と転生』公演を、大阪、福岡、横浜、名古屋、東京の一般会場で実施した。これは、人間が死んで生まれ変わるまでの霊的世界の様子を音楽や舞踏によって表現した公演で、信者のみならず多くの一般人を観客として招いた。
 また、8月から9月にかけては、同様にして、宇宙の創生プロセスを表現したダンスオペレッタ『創世記』を、東京、大阪、神奈川、京都、福岡、愛知の一般会場で開催した。



歌のリハーサルのときも麻原のそばに村井の姿があった。上機嫌になると麻原は

麻原「マンジュシュリー、どの曲がいい?」

とリクエストを聞いてきた時もあった。

村井もこの創作活動に関わり、「貪りの苦しみ」「味覚の歌」を披露した。
余談だが、村井の甲高い歌声を評価する者も少なくないという。漫画家の故ねこじる氏は村井秀夫の歌を愛聴していた。

ねこじる「故村井氏の本”巨聖逝く”についているカセットに”味覚の歌”という曲が入っている。諸星大二郎の”無面目”に通じる世界が歌われていてとても気持ちがいい。百回ぐらい聞いていたらだんなに頭をひっぱたらかれた」

(57:49より味覚の歌)


●オウム真理教布教アニメ
同年オウム真理教はアニメ・漫画ファン層への布教を目的として、「MAT(マンガ・アニメ・チーム)」というスタジオを設立した。

アニメには麻原彰晃の他に、村井秀夫・青山吉伸・上祐史浩・新実智光・石井久子・飯田エリ子・松本知子・遠藤誠一・中川智正等も登場する。

この作品における麻原彰晃は、単なる教団の代表としてだけでは無く、信者及び教団を幸福へと導く救世主かつ超能力者的側面が強い。

オウムアニメ 超越世界1~10


オウム真理教 布教アニメ 「宿命通」前編


オウム真理教 布教アニメ 「宿命通」後編
●衆議院選挙



坂本弁護士一家失踪から2ヵ月後の1990年1月7日。
麻原をはじめとするオウム真理教のメンバーは真理党を立ち上げ、衆議院議員総選挙に東京都第8区から立候補した。


(村井秀夫も衆議院選挙に出馬。)


「スーツを着てイメチェンだ!」




「しょーこーしょーこーしょこしょこしょーこー
あーさーはーらーしょーこ〜♪」






「しょーこーしょーこーしょこしょこしょーこー
あーさーはーらーしょーこ〜♪」

消費税廃止・教育改革を公約に掲げ、政治の力で世界を救う。そう訴えた麻原は10億円で出馬した。象の帽子をかぶった4姉妹、オウムシスターズ。麻原のマスクをかぶった信者達やガネーシャの着ぐるみ。奇抜なパフォーマンスが一般の注目を浴びた。選挙のライバルには、アントニオ猪木率いるスポーツ平和党の姿もあった。
演説が終わると、麻原は有権者達の前で自前のベンツに乗り込み、杉並区南荻窪の自宅へ戻った。




政見放送に出演する麻原


政見放送に出演する村井





村井「真理は一つ。絶対的真理は我らの教えにあります。人民は歓喜して我が教団に絶対投票する筈です」

村井も東京八区から立候補した。



新実「まったく。立候補者24名全員当選!」

麻原「私は間違いなくトップ当選だ!」

早川「よいよ天下国家を支配する時代が来ました!」





麻原のマスクを被った信者たちが踊る中、
テレビ局がインタビューに来た。


女性レポーター「当選する見込みはいかがでしょうか?」


麻原「通ると思っております」


麻原「ウフフフフフwwww」

2月19日開票日。自宅で家族らと一緒にテレビに見入る麻原。




麻原(へへっ、これで私も国会議員デビューだ)


結果は…




知子「…」


麻原「……」




「……」


麻原「今回の選挙は、はっきし言って惨敗」

落選は麻原たちに強い衝撃を与えた。

麻原の投票数は1783票、惨敗率2.69%
村井の投票数は72票、惨敗率は0.13%だった。


(選挙の後片付けに現れた麻原。今にも泣きそうな表情)


麻原はその後、富士宮のサティアンへ戻り、信者たちと打ち上げパーティーを開いた。
この日は疲れた信者のために、特別に肉料理が準備された。
宴は24時間続いたため、再び疲労に襲われた信者も多く、会場で仮眠をとる者も散見された。
この時麻原は被害妄想を起こし、票の操作がされたと主張した。この日を境に教団武装化計画が本格的に始まるのである。






●土谷正実奪還事件

1989年4月22日、土谷正実はオウム真理教道場を訪問した。
出迎えたのは村井だった。

村井「やぁ、新しい人だね。ようこそ」

村井「…そうか、筑波の大学院生なんだ。優秀なんだね」土谷「いいえ」

村井「私も阪大の理学部にいたんだけど」

面接の場で村井が答えた。

村井「超能力と科学はとっても関係が深いんだ」

土谷「そうなんですか?」村井「うん」

村井「僕は今ね、面白いものを作ろうとしているんだ。ミニ・ブラックホールだよ」

土谷「ミニ・ブラックホール!?」村井「うん、まぁまぁ…」

土谷は道の科学知識を語る村井に引き込まれた。

村井「実はね、これから超能力セミナーがあるんだ。オウムに入るとそれに参加できるんだけど…どう?」期待を込めたように勧誘する村井。

土谷「そうですね…」

村井「きっと…新しい世界が…開かれるよ」

この時土谷は宗教団体に入信するという意識はなかった。翌日、超能力セミナーに参加した土谷は、エネルギーの覚醒を感じたという。半信半疑ながらとことん追求したいと感じた土谷はオウムへ入信。昼夜アルバイトをしながら多額の布施をオウムに捧げた。オウムの悪評を知った土谷の身内は仏蓮宗に依頼し、土谷を連れ去った。

土谷を奪還するためオウムは反撃に出た。土谷の実家の前に、びっしりとビラが張り巡らされた。電柱や壁にも際限なく、駅までの道沿いまで大量に貼られた。

村井は土谷が隔離されている施設に乗り込み、街宣車で抗議を始めた。

村井「土谷君を返せ!土谷君を返せ!」「土谷君を解放せよ!」「土谷君を直ちに解放せよ!」
村井「真面目で好青年の土谷君を、単なる親の価値観の違いで監禁するなど、断じて許されることではない!」

「土谷君を解放せよ!」「土谷君を直ちに解放せよ!」
ボリュームいっぱいでがなりたてる。

村井「土谷君、元気ですか?頑張ってください!尊師も応援しています」

村井「決して親の言うことなど聞いてはいけませんよ。土谷君、一刻も早く我々の元に帰ってきてください」

街宣は真夜中も続いた。土谷はひそかに施設からホテルへ移送されたが、一瞬の隙をみて逃走した。


●波野村進出



90年5月。教団は波野村役場にある同村の原野1万8千坪の土地売買届を提出した。このことが地元の熊本日日新聞に報じられるやいなや、はやくも村民の間にオウム真理教について報じた週刊誌のコピーが出回った。土地には「負担付き贈与」として教団の手に移り、5月末には道場建設の資材が運び込まれた。教団は最終的に6000人の信徒を波野村へ移住させようとしていた。

波野村は江戸時代以来の村落共同体の集合地帯といった気風の土地柄であり、伝統的な習慣が根付いていた。そして当時、波野村は、伝統芸能である「神楽」を中心に「村おこし」にとりくんでいた。そこへ教団があいさつもなく突然乗り込んで来たのである。

そこにオウムが進出したとあっては、イメージがわるくなり、観光客がこなくなるという危惧がでてきた。オウムの土地購入は判明してすぐに開かれた村議会全員協議会の席で、楢木野村長が、「神楽の里で村おこしを進めている折に、宗教団体では何のメリットもない」と語ったことが地元紙で報道された。

村人たちは6月に「波野村を守る会」を結成、村はオウムが届けた住民票の受付を拒否した。7月2日に「村民決起集会」が行われ、村民千人が参加した。

村民らは道場まで向かうと、

①国土法、森林法違反の疑いがある工事をただちに中止せよ

②村民の私有地に入るな

③完全撤去まで断固運動を展開する、など4項目の抗議文を読み上げた。

この大会終了後、雷が轟き渡り、雨足が突然激しくなった。この日、地方を襲った豪雨による死者・行方不明者は28名にも上がった。特に被害が大きかったのが熊本県阿蘇町、一の宮町、大分県竹田市だったが、この地域のどれもが反オウムの強い地域だったのである。偶然起きた惨劇に対して信徒達は住民が天罰を受けたのだと感じ取ったという。

8月の第2回総決起大会には「オウム真理教被害者の会」の代表が招かれた。反オウム連合の誕生である。オウムも守る会も双方監視小屋を建てると、互いに睨み合いを続けた。

すると突然、どこからか激しい騒音とともに右翼団体を名乗る街宣車が現れた。人相の悪い男たちは教団施設へ上がり込むと信者と小競り合いを起こし、ついにはケガ人が出る事態となった。村の誰かがヤクザを雇ったのだろうか。





その後9月には福岡県内の右翼団体代表が、波野村の県道を車で通りかかった信徒を殴り、暴行の疑いで現行犯逮捕されている。その直後にも福岡県内の別の右翼団体構成員2人が、暴行の疑いで逮捕されている。(95年朝日新聞4月24日より引用)


記者会見を行おうとする麻原と村井の前に、役人たちが妨害に入る。



教団の正当性を主張する麻原、村井。

麻原「お客さん!ここの人たちは暴力を振るいますよ!暴力!ぼーりょくをふるいますよ!」



10月21日、麻原は東京の代々木公園に信者を集め、決起大会を開催した。
「麻原…彰晃です。こんにちは!」「パチパチパチ…」(拍手)
「オウム真理教の道場に!警察官約500人が!一斉、家宅捜査を行うという情報がある。そしてそこでそこで逮捕されるのが、今の情報では、青山弁護士。そして…マルパ大師、他数名、ということになっている。 警察の手段としては、でっち上げ、ねつ造によるオウム真理教摘発、でっち上げ、ねつ造による、オウム真理教による、徹底的!弾圧であると!言わざるを得ない!!」

信者たちは代々木公園周辺でデモ行進を行った。
信者にまぎれて江川紹子が教団を監視していた。



麻原襲撃事件

11月、麻原は熊本地検へ出頭。
石井久子と車外へ降りた瞬間、背後から不審な男に襲撃される。
男は近くにいた警備員と信者に取り押さえられた。






不審な男(石井久子の右上)






村井秀夫と熊本日日新聞



11月21日、地元新聞「熊本日日新聞」はオウム真理教・波野道場の取材記事を「揺れる山里」という題名で1部・2部にわけて掲載した。村井は訪れた記者を前に、道場内部を紹介した。


『こちらは無限自由天国社会へ あちらは頭狂わすオウム地獄へ』。やん中で迷った後、村民が詰める「オウム監視・団結小屋」に出た。村民が立てた奇妙な道路標識も目につく。通過する時、刺すような視線を浴びた。
 信者による監視所も三カ所。詰める若者たちは神もヒゲも伸び、顔は日焼けと汚れで黒い。作業服もドロまみれ。眼光だけが鋭い。車の種類をハンディ無線で通報している。紛争の国境を行く思いだ。
 道場入り口に着いた。道場の全景は見えない。入り口横に監視横に管理棟がある。その前で大きな発電機がうなっていた。戸を開けると暖かい空気が流れ出た。電気温風機が回っている。


記者に対応する村井秀夫

赤いズボンをはいた男性が出迎え、『マンジュシュリー・ミトラ 村井秀夫』という名刺を差し出した。村井さん(三二)は京都出身(筆者注:村井は大阪出身)。大阪大学理学部卒。神戸製鋼でジェット戦闘機の開発をしていた。「約三年半前に尊師の本を読み、翌日に辞表を出しました」。外部とは打って変わり穏やかな表情。淡々と話す。妻も入信したが、「麻原先生と生きるために」離婚した。その元妻も萩町(大分県)のオウム教事務所で働いているという。

 教団は「人類を救うため」に成就者と呼ぶ僧りょを増やそうとしている。各ステージ(階級)でのヨーガ修行を終えると上に進む。その頂点が尊師と呼ばれる麻原教祖。次の正大師という階級に教祖の三女(七つ)とケイマ=逮捕された石井久子容疑者(三〇)=、第三位の正大師という階級に、村井さんを含む六人の幹部がいる。

あとはスワミ、大学者、小学者などの階級がある。ここまでが出家者。全国では約八百人、波野に約三百人がいるという。スワミ以上は成就者として尊師がつける「ホーリーネーム」を名乗る。一般信者は在家の信徒と呼ばれ、約六千人がいるという。
 管理棟には電線も電話回線もない。電話は地権者が道場までの敷地に電柱を建てるのを許さない。内線電話はある。本部などとの緊急連絡は萩町と道場間の無線を利用して行っている。新聞や雑誌も管理棟までは届いていた。内装は断熱材を入れたベニヤ張り。床は古い畳敷きだ。

 管理棟前のガケを曲がると、急に目の前が開ける。とにかく広い。登記では約六万平方㍍。実際は更に広い。藤崎台球場の三個分以上の丘陵に約五十棟のプレハブが並ぶ。材木や鉄筋などの建築資材が山積みされ、大型のブルドーザー、ダンプが走る。機材は教団の所有。作業も信者が行う。このエネルギーはどこから生まれたのだろう。ぼう然と眺めていると、SF映画を見ている錯覚に襲われた。



・揺れる山里 その2

「ここは修行場。どこの寺でも公開しない空間です」。教団幹部から何度も同じ言葉を聞いた。外に向かって法的権利を主張する教団が、内部の公開には腰が重い。それが一般には法律と宗教制の使い分けとも映る。「取材は瞑想(めいそう)の邪魔」とも言うが、これ以上理解を増やすまいという判断もあって記者を道場に入れたようだ。
 道場の試食も「歓迎はしないけど」と「けど」付きの許可。「オウム食」と呼ばれる菜食。はい芽米を主食に、野菜の水煮。ヒジキ、納豆、のり、豆腐、ゴマなどがおかず。献立はいつも同じ。好みで塩としょうゆを振りかける。一日に一、二回食事をするが量の制限はない。味も薄く、うまいとは言い難い。しかし、成人の健康食としては悪くないだろう。当然、酒もたばこも禁止。ただし、菜食は成長期の子どもに十分かどうか。

 たまにはおいしいものも食べたくないの、若い男の信者に聞くと、笑われた。「あのねぇ、ここは修行の場。禅の坊さんがハンバーグだ、エビフライだと食べますか」
 道場の建物は、修行棟と生活棟に大別される。それぞれ約百畳敷きの広間を二、三、間ずつ待つ。ここに約三百人の信者が暮らす。十五歳から三十五歳までの青少年男女が約七割を占め、あとは乳幼児と小中学生が約五十人、初老の女性が約十人、中年男性が数人。

 約百人は一日中ヨーガなどの修行をしている。その他の人たちは生活棟にいて、建築班、警備班、生活班(炊事、洗顔)、子ども班(教育)などに分けられ、共同生活の役割を分担している。生活棟も朝や夜には修行のための集まりがあり、寝るのは平均して午前零時から二時ごろ。朝は五時ごろから修行が始まるという。寝る時も個室はない。大広間で寝袋や毛布にくるまって寝る。フトンもあまりなかった。

雨水を飲料水に浄化する装置もある。神戸製鋼に勤めていた村井秀夫さん(三一)が設計して専門業者に発注したという。井戸が一本しかないので、「全体に水は不足気味」。一日五十㌧近い必要量を確保するため、トラックで十㌧以上を外から運び込んでいる。
 温水シャワー装置もある。しかし、水を確保するため、女性はともかく若い男性はあまり利用しないようだ。トイレも屋内は水洗。五十人用の浄化槽を数個つないで浄化した水を地面に吸収させているという。

「ベストではないが、行政がくみ取りを拒否するから仕方ない」とある幹部は話す。衛生業務を管理する阿蘇広域行政事務組合の言い分は「くみ取りは区域住民が対象」。
波野村の冬は氷点下一〇度程度まで下がる。「少し寒いと思う朝もある」と話す若い母親も。「近く暖房装置を入れます」と村井さん。しかし、石油類の備蓄も同組合が「違法開発で作られた場所だから」として認めていない。「内憂外患」の修行生活だ。



オウム真理教、大打撃を被る

11月22日、村民たちの告発を受けて、熊本県警は教団施設などを国土利用計画法と公正証書原本不実記載の疑いで強制捜索を行った。前日に情報がもれ、麻原が説法で公言する事態もあったが、警官300人が動員される大掛かりな捜査となった。

村井秀夫は上祐と早川とともに仙台へ逃走した。この時、麻原は3人に女装するよう指示しカツラをかぶって普通電車で逃走した。上祐は刑事責任を逃れるため土地売却者の文書を偽造し、これを逃れた。青山は5000万円で売買した土地を贈与と偽った罪で逮捕。早川は検事に助けを求めたが、検察署前で待機していた警察に逮捕された。パトカーに詰め込まれる早川。

早川「あーイタイ!!イタイ!!イタイ!!イタイ!!イタイ!!」



連れ去られる早川を前に、石井久子が泣きじゃくる。
「ホントに酷いじゃないですか!あんまりじゃないですか!」


麻原「私はいつ逮捕されるんですか」

麻原は親しい新聞社に夜中に電話をかけ、弱気になった。経理担当だった飯田エリ子が逮捕されると、麻原は「自分が捕まればよかった」と嘆いた。

逮捕されたオウム幹部たちは約50日間収監され、この間、村の共同体が教団の電話・水道・下水を使えないよう対応し、 地域の店も教団に食料を売らなくなった。信者の子供たちは、親が住民登録されていない事情から入学を拒否された。この衝突と関連裁判により、警察側の対応や村と「被害者の会」の抗議を宗教迫害だと訴える姿勢、そして教団を破壊しようとする大きな陰謀に直面しているのだという思い込みを、いっそう強めることになった。

ところが1993年、教団の転入届を受理しない村は、教団側が受け入れを求めた地裁で敗訴。 村は控訴したが更なる異変が起こる。

94年8月、村は撤退を条件に教団に和解金を払い土地を買い戻すことを決定。その総額は9億2000万円。かつて教団が土地を購入た時の費用は5000万円だった。

旧村関係者は「当時は教団が犯罪集団と断定されていなかった。今となっては悔しいが、ぎりぎりの選択だった」と明かす。だが結果として、和解後に地下鉄サリン事件を起こす教団に資金を与えることになった。

不思議なことに、この和解金の背景について詳細を伝えた報道はない。
一説によると、和解の背景には早川紀代秀と中田清秀、そしてある暴力団の暗躍があったという文献もある。この暴力団については当ブログ「オウムの裏に後藤組?」を参照。
https://ameblo.jp/hideomurai/entry-12141220670.html