村井事件前日譚:衆議院選挙と波野村進出 | 村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫は何故殺されたのか?徐裕行とは何者なのか?
オウム真理教や在日闇社会の謎を追跡します。
当時のマスコミ・警察・司法の問題点も検証していきます。
(2018年7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚らの死刑執行。特別企画実施中。)

●衆議院選挙



坂本弁護士一家失踪から2ヵ月後の1990年1月7日。
麻原をはじめとするオウム真理教のメンバーは真理党を立ち上げ、衆議院議員総選挙に東京都第8区から立候補した。


(村井秀夫も衆議院選挙に出馬。)


「スーツを着てイメチェンだ!」




「しょーこーしょーこーしょこしょこしょーこー
あーさーはーらーしょーこ〜♪」






「しょーこーしょーこーしょこしょこしょーこー
あーさーはーらーしょーこ〜♪」

消費税廃止・教育改革を公約に掲げ、政治の力で世界を救う。そう訴えた麻原は10億円で出馬した。象の帽子をかぶった4姉妹、オウムシスターズ。麻原のマスクをかぶった信者達やガネーシャの着ぐるみ。奇抜なパフォーマンスが一般の注目を浴びた。選挙のライバルには、アントニオ猪木率いるスポーツ平和党の姿もあった。
演説が終わると、麻原は有権者達の前で自前のベンツに乗り込み、杉並区南荻窪の自宅へ戻った。




政見放送に出演する麻原


政見放送に出演する村井





村井「真理は一つ。絶対的真理は我らの教えにあります。人民は歓喜して我が教団に絶対投票する筈です」

村井も東京八区から立候補した。



新実「まったく。立候補者24名全員当選!」

麻原「私は間違いなくトップ当選だ!」

早川「よいよ天下国家を支配する時代が来ました!」





麻原のマスクを被った信者たちが踊る中、
テレビ局がインタビューに来た。


女性レポーター「当選する見込みはいかがでしょうか?」


麻原「通ると思っております」


麻原「ウフフフフフwwww」

2月19日開票日。自宅で家族らと一緒にテレビに見入る麻原。




麻原(へへっ、これで私も国会議員デビューだ)


結果は…




知子「…」


麻原「……」




「……」


麻原「今回の選挙は、はっきし言って惨敗」

落選は麻原たちに強い衝撃を与えた。

麻原の投票数は1783票、惨敗率2.69%
村井の投票数は72票、惨敗率は0.13%だった。


(選挙の後片付けに現れた麻原。今にも泣きそうな表情)


麻原はその後、富士宮のサティアンへ戻り、信者たちと打ち上げパーティーを開いた。
この日は疲れた信者のために、特別に肉料理が準備された。
宴は24時間続いたため、再び疲労に襲われた信者も多く、会場で仮眠をとる者も散見された。
この時麻原は被害妄想を起こし、票の操作がされたと主張した。この日を境に教団武装化計画が本格的に始まるのである。






●土谷正実奪還事件

1989年4月22日、土谷正実はオウム真理教道場を訪問した。
出迎えたのは村井だった。

村井「やぁ、新しい人だね。ようこそ」

村井「…そうか、筑波の大学院生なんだ。優秀なんだね」土谷「いいえ」

村井「私も阪大の理学部にいたんだけど」

面接の場で村井が答えた。

村井「超能力と科学はとっても関係が深いんだ」

土谷「そうなんですか?」村井「うん」

村井「僕は今ね、面白いものを作ろうとしているんだ。ミニ・ブラックホールだよ」

土谷「ミニ・ブラックホール!?」村井「うん、まぁまぁ…」

土谷は道の科学知識を語る村井に引き込まれた。

村井「実はね、これから超能力セミナーがあるんだ。オウムに入るとそれに参加できるんだけど…どう?」期待を込めたように勧誘する村井。

土谷「そうですね…」

村井「きっと…新しい世界が…開かれるよ」

この時土谷は宗教団体に入信するという意識はなかった。翌日、超能力セミナーに参加した土谷は、エネルギーの覚醒を感じたという。半信半疑ながらとことん追求したいと感じた土谷はオウムへ入信。昼夜アルバイトをしながら多額の布施をオウムに捧げた。オウムの悪評を知った土谷の身内は仏蓮宗に依頼し、土谷を連れ去った。

土谷を奪還するためオウムは反撃に出た。土谷の実家の前に、びっしりとビラが張り巡らされた。電柱や壁にも際限なく、駅までの道沿いまで大量に貼られた。

村井は土谷が隔離されている施設に乗り込み、街宣車で抗議を始めた。

村井「土谷君を返せ!土谷君を返せ!」「土谷君を解放せよ!」「土谷君を直ちに解放せよ!」
村井「真面目で好青年の土谷君を、単なる親の価値観の違いで監禁するなど、断じて許されることではない!」

「土谷君を解放せよ!」「土谷君を直ちに解放せよ!」
ボリュームいっぱいでがなりたてる。

村井「土谷君、元気ですか?頑張ってください!尊師も応援しています」

村井「決して親の言うことなど聞いてはいけませんよ。土谷君、一刻も早く我々の元に帰ってきてください」

街宣は真夜中も続いた。土谷はひそかに施設からホテルへ移送されたが、一瞬の隙をみて逃走した。


●波野村進出



90年5月。教団は波野村役場にある同村の原野1万8千坪の土地売買届を提出した。このことが地元の熊本日日新聞に報じられるやいなや、はやくも村民の間にオウム真理教について報じた週刊誌のコピーが出回った。土地には「負担付き贈与」として教団の手に移り、5月末には道場建設の資材が運び込まれた。教団は最終的に6000人の信徒を波野村へ移住させようとしていた。

波野村は江戸時代以来の村落共同体の集合地帯といった気風の土地柄であり、伝統的な習慣が根付いていた。そして当時、波野村は、伝統芸能である「神楽」を中心に「村おこし」にとりくんでいた。そこへ教団があいさつもなく突然乗り込んで来たのである。

そこにオウムが進出したとあっては、イメージがわるくなり、観光客がこなくなるという危惧がでてきた。オウムの土地購入は判明してすぐに開かれた村議会全員協議会の席で、楢木野村長が、「神楽の里で村おこしを進めている折に、宗教団体では何のメリットもない」と語ったことが地元紙で報道された。

村人たちは6月に「波野村を守る会」を結成、村はオウムが届けた住民票の受付を拒否した。7月2日に「村民決起集会」が行われ、村民千人が参加した。

村民らは道場まで向かうと、

①国土法、森林法違反の疑いがある工事をただちに中止せよ

②村民の私有地に入るな

③完全撤去まで断固運動を展開する、など4項目の抗議文を読み上げた。

この大会終了後、雷が轟き渡り、雨足が突然激しくなった。この日、地方を襲った豪雨による死者・行方不明者は28名にも上がった。特に被害が大きかったのが熊本県阿蘇町、一の宮町、大分県竹田市だったが、この地域のどれもが反オウムの強い地域だったのである。偶然起きた惨劇に対して信徒達は住民が天罰を受けたのだと感じ取ったという。

8月の第2回総決起大会には「オウム真理教被害者の会」の代表が招かれた。反オウム連合の誕生である。オウムも守る会も双方監視小屋を建てると、互いに睨み合いを続けた。

すると突然、どこからか激しい騒音とともに右翼団体を名乗る街宣車が現れた。人相の悪い男たちは教団施設へ上がり込むと信者と小競り合いを起こし、ついにはケガ人が出る事態となった。村の誰かがヤクザを雇ったのだろうか。





その後9月には福岡県内の右翼団体代表が、波野村の県道を車で通りかかった信徒を殴り、暴行の疑いで現行犯逮捕されている。その直後にも福岡県内の別の右翼団体構成員2人が、暴行の疑いで逮捕されている。(95年朝日新聞4月24日より引用)


記者会見を行おうとする麻原と村井の前に、役人たちが妨害に入る。



教団の正当性を主張する麻原、村井。

麻原「お客さん!ここの人たちは暴力を振るいますよ!暴力!ぼーりょくをふるいますよ!」



10月21日、麻原は東京の代々木公園に信者を集め、決起大会を開催した。
「麻原…彰晃です。こんにちは!」「パチパチパチ…」(拍手)
「オウム真理教の道場に!警察官約500人が!一斉、家宅捜査を行うという情報がある。そしてそこでそこで逮捕されるのが、今の情報では、青山弁護士。そして…マルパ大師、他数名、ということになっている。 警察の手段としては、でっち上げ、ねつ造によるオウム真理教摘発、でっち上げ、ねつ造による、オウム真理教による、徹底的!弾圧であると!言わざるを得ない!!」

信者たちは代々木公園周辺でデモ行進を行った。
信者にまぎれて江川紹子が教団を監視していた。



麻原襲撃事件

11月、麻原は熊本地検へ出頭。
石井久子と車外へ降りた瞬間、背後から不審な男に襲撃される。
男は近くにいた警備員と信者に取り押さえられた。






不審な男(石井久子の右上)






村井秀夫と熊本日日新聞



11月21日、地元新聞「熊本日日新聞」はオウム真理教・波野道場の取材記事を「揺れる山里」という題名で1部・2部にわけて掲載した。村井は訪れた記者を前に、道場内部を紹介した。


『こちらは無限自由天国社会へ あちらは頭狂わすオウム地獄へ』。やん中で迷った後、村民が詰める「オウム監視・団結小屋」に出た。村民が立てた奇妙な道路標識も目につく。通過する時、刺すような視線を浴びた。
 信者による監視所も三カ所。詰める若者たちは神もヒゲも伸び、顔は日焼けと汚れで黒い。作業服もドロまみれ。眼光だけが鋭い。車の種類をハンディ無線で通報している。紛争の国境を行く思いだ。
 道場入り口に着いた。道場の全景は見えない。入り口横に監視横に管理棟がある。その前で大きな発電機がうなっていた。戸を開けると暖かい空気が流れ出た。電気温風機が回っている。


記者に対応する村井秀夫

赤いズボンをはいた男性が出迎え、『マンジュシュリー・ミトラ 村井秀夫』という名刺を差し出した。村井さん(三二)は京都出身(筆者注:村井は大阪出身)。大阪大学理学部卒。神戸製鋼でジェット戦闘機の開発をしていた。「約三年半前に尊師の本を読み、翌日に辞表を出しました」。外部とは打って変わり穏やかな表情。淡々と話す。妻も入信したが、「麻原先生と生きるために」離婚した。その元妻も萩町(大分県)のオウム教事務所で働いているという。

 教団は「人類を救うため」に成就者と呼ぶ僧りょを増やそうとしている。各ステージ(階級)でのヨーガ修行を終えると上に進む。その頂点が尊師と呼ばれる麻原教祖。次の正大師という階級に教祖の三女(七つ)とケイマ=逮捕された石井久子容疑者(三〇)=、第三位の正大師という階級に、村井さんを含む六人の幹部がいる。

あとはスワミ、大学者、小学者などの階級がある。ここまでが出家者。全国では約八百人、波野に約三百人がいるという。スワミ以上は成就者として尊師がつける「ホーリーネーム」を名乗る。一般信者は在家の信徒と呼ばれ、約六千人がいるという。
 管理棟には電線も電話回線もない。電話は地権者が道場までの敷地に電柱を建てるのを許さない。内線電話はある。本部などとの緊急連絡は萩町と道場間の無線を利用して行っている。新聞や雑誌も管理棟までは届いていた。内装は断熱材を入れたベニヤ張り。床は古い畳敷きだ。

 管理棟前のガケを曲がると、急に目の前が開ける。とにかく広い。登記では約六万平方㍍。実際は更に広い。藤崎台球場の三個分以上の丘陵に約五十棟のプレハブが並ぶ。材木や鉄筋などの建築資材が山積みされ、大型のブルドーザー、ダンプが走る。機材は教団の所有。作業も信者が行う。このエネルギーはどこから生まれたのだろう。ぼう然と眺めていると、SF映画を見ている錯覚に襲われた。



・揺れる山里 その2

「ここは修行場。どこの寺でも公開しない空間です」。教団幹部から何度も同じ言葉を聞いた。外に向かって法的権利を主張する教団が、内部の公開には腰が重い。それが一般には法律と宗教制の使い分けとも映る。「取材は瞑想(めいそう)の邪魔」とも言うが、これ以上理解を増やすまいという判断もあって記者を道場に入れたようだ。
 道場の試食も「歓迎はしないけど」と「けど」付きの許可。「オウム食」と呼ばれる菜食。はい芽米を主食に、野菜の水煮。ヒジキ、納豆、のり、豆腐、ゴマなどがおかず。献立はいつも同じ。好みで塩としょうゆを振りかける。一日に一、二回食事をするが量の制限はない。味も薄く、うまいとは言い難い。しかし、成人の健康食としては悪くないだろう。当然、酒もたばこも禁止。ただし、菜食は成長期の子どもに十分かどうか。

 たまにはおいしいものも食べたくないの、若い男の信者に聞くと、笑われた。「あのねぇ、ここは修行の場。禅の坊さんがハンバーグだ、エビフライだと食べますか」
 道場の建物は、修行棟と生活棟に大別される。それぞれ約百畳敷きの広間を二、三、間ずつ待つ。ここに約三百人の信者が暮らす。十五歳から三十五歳までの青少年男女が約七割を占め、あとは乳幼児と小中学生が約五十人、初老の女性が約十人、中年男性が数人。

 約百人は一日中ヨーガなどの修行をしている。その他の人たちは生活棟にいて、建築班、警備班、生活班(炊事、洗顔)、子ども班(教育)などに分けられ、共同生活の役割を分担している。生活棟も朝や夜には修行のための集まりがあり、寝るのは平均して午前零時から二時ごろ。朝は五時ごろから修行が始まるという。寝る時も個室はない。大広間で寝袋や毛布にくるまって寝る。フトンもあまりなかった。

雨水を飲料水に浄化する装置もある。神戸製鋼に勤めていた村井秀夫さん(三一)が設計して専門業者に発注したという。井戸が一本しかないので、「全体に水は不足気味」。一日五十㌧近い必要量を確保するため、トラックで十㌧以上を外から運び込んでいる。
 温水シャワー装置もある。しかし、水を確保するため、女性はともかく若い男性はあまり利用しないようだ。トイレも屋内は水洗。五十人用の浄化槽を数個つないで浄化した水を地面に吸収させているという。

「ベストではないが、行政がくみ取りを拒否するから仕方ない」とある幹部は話す。衛生業務を管理する阿蘇広域行政事務組合の言い分は「くみ取りは区域住民が対象」。
波野村の冬は氷点下一〇度程度まで下がる。「少し寒いと思う朝もある」と話す若い母親も。「近く暖房装置を入れます」と村井さん。しかし、石油類の備蓄も同組合が「違法開発で作られた場所だから」として認めていない。「内憂外患」の修行生活だ。



オウム真理教、大打撃を被る

11月22日、村民たちの告発を受けて、熊本県警は教団施設などを国土利用計画法と公正証書原本不実記載の疑いで強制捜索を行った。前日に情報がもれ、麻原が説法で公言する事態もあったが、警官300人が動員される大掛かりな捜査となった。

村井秀夫は上祐と早川とともに仙台へ逃走した。この時、麻原は3人に女装するよう指示しカツラをかぶって普通電車で逃走した。上祐は刑事責任を逃れるため土地売却者の文書を偽造し、これを逃れた。青山は5000万円で売買した土地を贈与と偽った罪で逮捕。早川は検事に助けを求めたが、検察署前で待機していた警察に逮捕された。パトカーに詰め込まれる早川。

早川「あーイタイ!!イタイ!!イタイ!!イタイ!!イタイ!!」



連れ去られる早川を前に、石井久子が泣きじゃくる。
「ホントに酷いじゃないですか!あんまりじゃないですか!」


麻原「私はいつ逮捕されるんですか」

麻原は親しい新聞社に夜中に電話をかけ、弱気になった。経理担当だった飯田エリ子が逮捕されると、麻原は「自分が捕まればよかった」と嘆いた。

逮捕されたオウム幹部たちは約50日間収監され、この間、村の共同体が教団の電話・水道・下水を使えないよう対応し、 地域の店も教団に食料を売らなくなった。信者の子供たちは、親が住民登録されていない事情から入学を拒否された。この衝突と関連裁判により、警察側の対応や村と「被害者の会」の抗議を宗教迫害だと訴える姿勢、そして教団を破壊しようとする大きな陰謀に直面しているのだという思い込みを、いっそう強めることになった。

ところが1993年、教団の転入届を受理しない村は、教団側が受け入れを求めた地裁で敗訴。 村は控訴したが更なる異変が起こる。

94年8月、村は撤退を条件に教団に和解金を払い土地を買い戻すことを決定。その総額は9億2000万円。かつて教団が土地を購入た時の費用は5000万円だった。

旧村関係者は「当時は教団が犯罪集団と断定されていなかった。今となっては悔しいが、ぎりぎりの選択だった」と明かす。だが結果として、和解後に地下鉄サリン事件を起こす教団に資金を与えることになった。

不思議なことに、この和解金の背景について詳細を伝えた報道はない。
一説によると、和解の背景には早川紀代秀と中田清秀、そしてある暴力団の暗躍があったという文献もある。この暴力団については当ブログ「オウムの裏に後藤組?」を参照。
https://ameblo.jp/hideomurai/entry-12141220670.html