村井秀夫刺殺事件の真相を追って -21ページ目

村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫は何故殺されたのか?徐裕行とは何者なのか?
オウム真理教や在日闇社会の謎を追跡します。
当時のマスコミ・警察・司法の問題点も検証していきます。
(2018年7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚らの死刑執行。特別企画実施中。)

徐裕行とアムネスティ日本


オウム村井殺害犯 徐裕行のブログに、ある映画が紹介されている。

映画「北朝鮮強制収容所に生まれて」。


映画の後援はアムネスティ日本、在日本大韓民国民団である。


大抵の方々はこの映画を「北朝鮮の非道行為を描いた作品」と認識するかもしれない。
ところがこの映画は大きな問題があった。

出演者は申東赫。北朝鮮の収容所から抜け出し、脱北したのだという。
ところが後日、申が経歴を偽称していたと報じられた。以下参照。


「収容所生まれ」の脱北者が経歴訂正し謝罪「統制緩い施設で大半過ごす」

 米紙ニューヨーク・タイムズ電子版は18日、北朝鮮の人権侵害の実態について証言してきた著名な脱北者の申東赫氏(32)が、自身の経歴の一部を訂正し、謝罪したと報じた。

 申氏はこれまで、完全に統制された政治犯収容所「14号管理所」で生まれ育ち、20代前半で脱出したと証言。体験を描いたドキュメンタリー映画も製作され、注目を集めた。だが最近、北朝鮮で暮らした時期の大半は、比較的統制の緩い別の施設に収容されていたことを明らかにしたという。

 申氏は、北朝鮮による人権侵害を認定した国連調査委員会にも証言している。政治犯収容所の存在を否定する北朝鮮側は、証言は全面的に偽りだと反論している。

 申氏は同紙の電話取材に「告白すれば北朝鮮の人権(侵害を追及する)運動に打撃を与えると知人たちが恐れたため、ためらってきた」と述べ、謝罪した。(共同)
産経ニュース2015.1.20
http://www.sankei.com/world/news/150120/wor1501200005-n1.html


アムネスティ・インターナショナルとは

死刑の廃止、人権擁護、難民救済など良心の囚人を救済、支援する活動を行う国際団体。
国際事務局(ロンドン)の下に、個別の法人格を有する各国支部(アムネスティ日本、アムネスティ韓国など)が連なり、それぞれの支部には多数のローカルグループが所属している。
原則的には政治的に中立を謳っている。しかし、アムネスティの人権告発は過去、民主主義国家である日本が92件あるのに対し、独裁国である北朝鮮はたったの16件であり、公平な活動をしているとはいえないのが実情である。


アムネスティ・インターナショナル日本

世界中のさまざまな場所で起こっている人権侵害の存在を国内に広く伝えるとともに、日本における人権の状況について普及啓発を行っている公益法人。
しかし、その実態は政治性を帯びた活動団体であり、「日本の国旗・国歌の強要反対」「従軍慰安婦問題」「在日朝鮮人のヘイトスピーチ反対」「特定秘密保護法反対」等、左派的な主張を展開している。一説では公安調査庁の調査・監視対象ともいわれる。


鈴木邦男とアムネスティ日本
新右翼活動を称し、徐裕行の支援や左翼過激派、北朝鮮支持を続ける鈴木邦男。
アムネスティ日本のサイトにおいて死刑廃止を主張している。鈴木は「死刑廃止が日本文化であり日本精神である」としている。


北朝鮮とアムネスティ日本

アムネスティ日本は北朝鮮を「世界最悪の人権問題を見過ごすな!」と表面的に糾弾している。
しかしその実態は真逆であり、北朝鮮系の在日朝鮮人への支援には積極的、反対に拉致問題については消極的な対応に留まっている。

1997年3月に横田めぐみら拉致被害者の家族がアムネスティ日本を訪ねて協力を要請した際は、「調査には相手国の受け入れが必要」と応じた。その後、朝鮮総連がアムネスティ日本を訪れた際は「寺中誠事務局長は、総連と在日朝鮮人に対する迫害と規制が深刻さを増している現実に憂慮を示す一方、学生代表らに「在日コリアンを取り巻く環境は厳しいが、自らの出自に誇りを持って堂々と生きてほしい」と激励した」と朝鮮新報が伝えている。

そしてアムネスティ関係者の中に武者小路公秀



武者小路公秀=主体思想研究会

主体思想研究会=徐裕行が属した北朝鮮系組織
脱北者支援を謳う組織の筈が北朝鮮支持者の巣窟


申東赫が何者なのかは、検証する必要はある
仮に申東赫が脱北者だった場合、人権団体の皮を被った北朝鮮系組織に入ってしまっては元も子もない


オウム真理教とアムネスティ日本

・オウム真理教は、信者に多額の布施を強要し、部外との接触を禁じた

・入信した子供と面会できなくなった家族らは「オウム真理教被害者の会」を結成、教団と対立

・波野村や上九一色村の地元住民とも土地取引で対立

・江川紹子、坂本弁護士、サンデー毎日が反オウムキャンペーンを展開、反オウム包囲網が構築される


麻原「あなた方がやってることは宗教弾圧じゃないですか本当に!」
麻原らオウム側も合法・非合法戦術で反撃に出る

・非合法→坂本事件、サンデー毎日爆破計画、家族会・地元住民への暴行、暴力団の利用
・合法→人権団体に協力要請、テレビ・教団出版による宣伝活動

麻原は宗教弾圧を法務省や「自由人権団体」、「人権を守る会」等人権団体に訴えた。
そしてアムネスティ日本にも立ち寄った






AMNESTYの文字が確認できる


村井事件後の95年5月5日、南青山総本部にアムネスティ関係者を含む外国人3人(米、独)が訪問、上祐らオウム側と会談。メンバーの中には「人権110番」を主宰する千代丸健二も



アムネスティ関係者の一人、安田好弘弁護士。麻原の三女アーチャリーと一緒に死刑廃止を呼びかける

結局麻原は逮捕され死刑囚となった訳だが、人権団体への働きがけが功をなし、死刑執行は先延ばしされつつある。オウムはかろうじで生き延び、そして今日に至る


おまけ


アムネスティ日本理事長 石田城孝



日本人質事件発覚後、facebookでISIS(イスラム国)関係者に情報提供していることが判明



結果:人質の湯川遥菜氏、後藤健二氏は惨殺。遺体はネットに公開された
その結果、情報提供した石田に非難が集中、炎上騒ぎに発展

死刑廃止団体が殺人幇助、独裁国家支持者が死刑廃止呼びかけ
矛盾を孕む人権団体、アムネスティの闇は深い


ところでオウムと徐とアムネスティが繋がってるのは偶然?
カンボジアに群がる暴力団たち



 昨年より施行された暴排条例により日本では「カタギ」との接触が厳しく制限される暴力団にとって、カンボジアは楽園だという。フリーライターの鈴木智彦氏が、ヤクザが現地高官を抱き込む現場に潜入した。

 * * *
 路地の生ゴミが腐臭を発していた。指定暴力団幹部がカンボジアの高官を連れ、はす向かいの高級レストランに現われた。横付けされた車はロールスロイスやベンツ、レクサスといった高級車で、東南アジアの途上国にいることを忘れそうになる。

 色艶をみるとほぼ新車で、関税や特別税は合わせて約200%だから、どれも日本円にして2000万円は下らない。月給100ドル足らずのカンボジアの庶民は一生働いても買えない。 「紹介するよ、俺のケツ持ち」

 ケツ持ちとは背後で暴力をちらつかせ、最短距離で利益を“かっぱぐ”ための後見人的存在のことだ。風通しがよさそうな半袖シャツの3人は、それぞれ名刺に軍幹部、警察幹部、国会議員と刷っていた。多額のワイロで買収された彼らは、ごく当たり前のように暴力団と食事し、遊興し、時折パーティにも出席する。日本の警察が知れば腰を抜かすだろう。

 かつて山口組大幹部だった後藤忠政・元後藤組組長も、引退後に上梓した『憚りながら』が累計20万部以上の大ヒットとなった際、印税のすべてをカンボジアに寄付した。日本の慈善団体の多くが寄付を拒んだからだが、その後、後藤氏はカンボジアに渡り、プノンペンの高級マンションに居住している。

 幹部のホストぶりは手慣れていた。クメール訛りの英語も見事だったが、2時間ほど歓談して見送ると、幹部の顔つきが変わった。「くそったれ!」と吐き捨て、旧宗主国フランス製の『ジタン』という煙草を口にした。
 
「顔つなぎのため定期的に2~3人呼んでる。金と手間の節約だ。毎回、ここぞとばかりにタダ食い、タダ酒される。見ただろう、今夜も500ドルは使った。日本じゃ4万円など微々たる金だが、カンボジアでは大金だ。40万~50万たかられた気分だ!」

 バイクタクシーに乗ってUターンすると路上のゴミが再び見えた。遅れて腐臭が鼻をつく。後日、裏を取ったところ、3人の素性は本物だった。幹部は実質1年でここまで政府に食い込んだという。カンボジアが世界汚職ランキングで183か国中164位となっている事実も頷ける。



 暴力団がカンボジアのパイプ役に政治家、軍部、警察幹部などを選んでいるのは、国家の持つ暴力の力を熟知しているからだ。日本国内で警察から弾圧され続けても刃向かわず、面従腹背してきただけあって、カンボジアでの暴力団は暴力装置を持つ、もしくは動かせる人間にしか投資しない。

 冒頭の例もそうだが、暴力装置の占有者たちをたらし込む最も効果的な手段は現金という実弾である。こうした場面での暴力団はまことに気前よく、また侠気に溢れている。数ある国家の中でカンボジアに目を付けたのも、汚職が蔓延し、なにもかも金で解決できるからだった。もちろん投資した金を回収する算段は幾重にも計画されていて、さすがプロだと唸らされる。

「ワイロは物事を頼む度、別途入り用になる。内容によって違うが、俺の場合、3000ドルから5000ドルが平均だ。悪いなんて感覚、ヤツらにはねぇ。給料は最初から立場を利用して金を稼げといわんばかりに安いし、敬虔な仏教徒が多いカンボジアだが、仏教的にも感謝の気持ち、お布施ってわけで問題ないんだろう。

 払ったワイロの分だけ利権はいただくし、相応のことはしてもらう。取り締まりに目をつぶってもらったり、1か月かかる手続きを1週間にショートカットしてもらうなど色々だ。でもカンボジア人は口で言うほどたいしたことはしてくれない。この国の役所は完全な縦割りで、他の省庁が口出しできないようになってる。口を利いてもらったわりに見返りは少ないね。

 特別なにかしてもらわなくてもメリットはある。日本から小金持ちを連れてきて、入国審査をフリーパスで通過させ、空港からホテルまでパトカーで先導してもらえば、たいていの人間は信用する。あとはさんざん飲み食いさせ、女をあてがえばホイホイ金を出す。俺としちゃそれだけでも十分だ」(冒頭の幹部)


後藤忠政氏は カンボジア人となって来賓席に座っていた



▼空手界の五大流派がカンボジアに集結
 「捧げ銃(つつ)」の衛兵に迎えられながら、軍楽隊の演奏に乗って赤い絨毯の上をさっそうと歩く1人の男性。隣には、かつて"参院のドン"と呼ばれた村上正邦元自民党議員、その後ろにはカンボジア国王軍の将官たちの姿が続く――。

 去る9月22日、2年半前に忽然と日本から姿を消した元後藤組組長・後藤忠政(得度名:忠叡)氏が、カンボジア国内の軍関連施設「プノンペン・スタジアム」で開かれた「親善文化交流空手道武道祭」に姿を現わした。写真はVIP待遇の来賓としてスタジアムに入る後藤氏を撮影したものだ。

 主催者はカンボジア王国国防省と空手道宗家家元会議。後援は日系投資会社「ソクドム・インベストメント・グループ」と「日本カンボジア親善協会」。この協会の会長を務めるのは、村上元自民党議員。初代防衛大臣の久間章生元自民党議員らも理事に名を連ねる。大会名誉顧問には、カンボジア国防省の現役国務長官の名前もある。そしてこの武道祭の開催を影で全面的に支援したのが、前述の投資会社「ソクドム」の会長も務める後藤忠政氏なのだ。

 後藤氏は、山口組屈指の武闘派として知られた後藤組の元組長。2008年10月、山口組内部で生じた軋轢から引退(後藤組も解散)し、翌年4月には神奈川県の浄発願寺で得度した。

 引退し、第二の人生を歩み始めていた後藤氏だが、なぜ日本から姿を消したのか、なぜ空手のイベントをカンボジアで支援することになったのか。独占取材で話を聞くことができた。



▼カンボジアで市民権を取得していた元組長
――震災直後から2年半の間、ずっとカンボジアに?
後藤: そう。一度も日本には帰ってない。それで去年の5月には、カンボジアの市民権を取ったんだ。

――カンボジアを定住先に選んだのはなぜですか?
後藤: 2年半前、東北大震災の直後に、福島県内に救援物資を送ったり、被災者の人たちを元気づけるために演歌歌手を連れていったりと、支援活動をさせてもらった。しかし世界がこの震災に大きく注目するようになって、国も動き始めた。もう我々がこれ以上、手助けする必要もないと思い、東南アジアの最貧国といわれるカンボジアの中で、もう一度自分を見つめ直してみようと考えたんだ。

――カンボジアとは、そもそもどんな縁が?
後藤: 現役時代からタイやミャンマー、フィリピン、そしてカンボジアにはよく来てたんだよ。特にカンボジアでは、軍や与党・人民党の上層部とも親しくしてきた。フン・セン首相とも、今では話ができる仲だ。

それから、これは『憚りながら』(小社刊)でも書いたことだけれど、俺自身が子どもの頃、家が没落して、納豆売りをやりながら小学校のノートを買ったりするような生活をしていたから、東南アジアの貧しい子どもたちを見ると、非常に懐かしく思えるんだな。

――プノンペン市内を回ると、まるで昭和にタイムスリップしたような活気です。
後藤: 昭和は昭和でも、日本が高度経済成長を迎える前、昭和27~28年くらいじゃないか。

 この国の人たちはもの凄い勢いで、将来に向かって生きてるんだよ。日本じゃ、そんな人間、いなくなっただろ? 今食えればいい、今何とかなりゃいい、と。ほかのことは全部国任せだ。

平成になって、そのまま20年が過ぎちゃったから、なんとなくだらけて、迫力のない国になっちまったな。

――2年半の間、カンボジアで何を?
後藤: 08年にヤクザを辞めて、社会人1年生になってから、ずっと考えてきたんだ。その延長で、少しでもカンボジアの教育や食料問題、つまり農業の問題に貢献できれば、という気持になってな。



▼カンボジア国王から爵位を授かる
 後藤氏はこの2年半の間、首都プノンペン市内にある「ソクドム・エデュケーション・スクール」を支援し、学生が無料で受講できる日本語教室を開設、またプノンペンから離れたコンポンスプール州に500ヘクタール、コンポット州に6ヘクタールもの膨大な土地をそれぞれ買い、養鶏場とトウモロコシ農園を運営するようになった。

 さらに、内戦時代の負の遺産「対人地雷」の被害者をサポートする軍関係の施設、病院、孤児院、赤十字などに累計1億円に上る物品等を寄付してきた。こうした貢献が評価され、後藤氏は今年2月13、カンボジアの爵位にあたる「オギャ(Oknha)」という称号を国王から直々に授与され、カンボジア国内では破格のVIP待遇を受けている。28年間首相の座にあるフン・センの人民党党員でもある。



▼なぜカンボジアで空手のイベントを?
―――空手の武道祭ですが、なぜカンボジアで?
後藤: 空手家の真樹日佐夫さん(漫画原作者・梶原一騎の実弟)が、カンボジアで子どもの間に空手を広めようとしていたんだが、去年の1月に亡くなったんだ。それで真樹さんの弟子筋の人間が遺志を継ぎたいというので、日本語学校の生徒に教えてもらうようになったのがきっかけだ。

 なんでも、カンボジアの軍でも空手を教えているそうじゃないか。それで軍の上層部にも話をして、日本とカンボジアの親善を目的に大会を開こうという話になった。日本の名だたる流派を集めて、日本の空手家の凄みを知ってもらいたいとも思ってな。各流派に声をかけたのは朝堂院大覚(世界空手道連盟総裁)だ。

 ただ、ちゃんとした民間の架け橋がまだないそうだから、村上先生や久間先生が日本カンボジア親善協会を設立していたので協力してもらうことになったんだ。

 武道祭の模様は後日、地元のメディアでも報道された。地元のテレビ局「バイオンTV」(フン・セン首相の娘フン・マナ女史が経営)、「国営TV5」も30分番組として放送している。

 後藤氏は現役時代、日本の政財界に広く人脈を持つことで知られていた。海を超えた異郷の地でも、同じように人脈形成していたとは驚くばかりだ。



「日本はとことん息苦しい国になったな」

 武闘派の大物組長としてならした後藤氏が山口組を引退したのは2008年。5年とたたない間に、カンボジアという異郷の地で市民権を獲得、そればかりかフン・セン首相の与党・カンボジア人民党党員としても活動し現地での”貢献”(赤十字や孤児院、病院などに合計1億円の物品寄付)がみとめられてシハモニ現国王から爵位(オギャ=oknha)を授かっていた。ヤクザの世界を経て、第二の人生をこれほどドラマチックに歩む人物はいない。

 今号ではカンボジア定住を始めて2年半がたった後藤氏に、同国政府との関係や日本への思いを聞いた。

カンボジアでなぜ支援活動を?
ー今はどんな生活を?
後藤 日本にいる時とそれほど変化はない。ゴルフに行くこともあれば、お姉ちゃんと飯を食いにいくことだってあるよ(笑)。
 ヤクザを引退してから、「俺は何者だったんだ?」と考えてきた。それを確かめるため、カンボジアに住んでるようなもんだ。10カ国あるASEAN諸国のなかでも、カンボジアは最貧国とされている。けど、この国の国民は貧しくても希望を持ってるんだ。
 戦後の日本人は焼け野原に建てたバラック小屋から立ち上がった。その頃の日本人に似た目の輝きが彼らにはある。それが好きだし、彼らと接していると自分の原点に立ち返ったような気分にもなるんだよ。
 俺がこの国で、学生を相手にした日本語学校を支援しているのも、彼らの将来が少し楽しみだからだ。

ー支援のための資金は?
後藤 すべて俺個人で賄っている。なにも偉そうなことを言ってるんじゃない。大規模な養鶏場やトウモロコシ農園を始めたのも、事業として成功させて、そういった活動のための資金を現地の経済の中で作れなきゃ、真の意味での支援にはならないからだ。そうしなけりゃ長続きしないだろ?

伝説の大物組長がなぜ独裁政権与党に?
ー28年間独裁が続くフン・セン首相の人民党党員でもありますが、党員としてどんな活動を?
後藤 俺が市民権を取ったのは去年の5月だが、その翌月、統一地方選挙があった。人民党の幹部は担当地域を持たされる。俺の友達で人民党員でもある軍の陸軍大将がタイの国境に接する州の担当だったから、その選挙を手伝ったんだ。
 現役の頃は頼まれてよく票集めをやったもんだが、カンボジアの選挙運動のスタイルは日本とは違う。党員や後継者が500人くらい集まって乗用車、トラック、バイク、トラクターに分乗し、党の旗を掲げながら州内を行進するんだ。

ー今年7月には国政選挙(第5回国民議会総選挙)がありました。独裁が批判されたようですが。
後藤 野党の昔の党首(最大野党である救国党のサム・リャンシー党首)が、フン・センと反目になって海外に亡命していた。なにかの嫌疑をかけられてな。それが国王から恩赦を受けて帰国したもんだから、民主化運動が始まった。若い連中や低賃金の労働者たちが「チェンジ・フン・セン!」と叫んで大規模なデモを始めたんだ。プノンペンじゃあ、一時は10万人ともいわれる人間が集まったもんだから「中東の春」のようなことになるんじゃないかと、日本のマスコミも熱心に取材していたな。内戦時代を知っている世代の大半が、また大変なことになると思って、プノンペンから田舎に逃げ出す有様だった。
 ただ、俺は大事には至らないと思ってたよ。カンボジアはクメール人という民族の国で、宗教もほぼ仏教ひとつだ。中東のように多民族、複数の宗教が入り組んでない。人民党が力を持ち続けているといっても、王政は続いていて国民も国王を慕っている。
 選挙後「投票で大規模な不正があった」と野党が追及し始めたが、最後は国王が人民党と野党に話し合いを呼びかけて収まったな。

ー一方では28年も続く一党独裁が貧富の差を生み、国民の不満も強いのでは?
後藤 ちょっと経済が成長すると、格差が目立ってそういう不満が出てくる。ただ、独裁が必ずしも悪いものだとは、俺には思えないんだ。リビアを見るといい。カダフィの独裁が終わったのはいいが、ドンパチがいまだに収まらない。ああなると一番惨めなのは国民だ。そのことを、俺はこの国の軍人とよく話し、彼らもわかっているはずだ。
 カンボジアってのは8世紀ほど前までこのあたりの中心で、巨大な文明を築いていたわけだ。世界最大の宗教施設といわれるアンコールワットまで作ってな。その王朝がぐずぐずになって、後はずっとベトナムやらタイやらにやられっぱなしだ。アンコールワットはベトナム人の奴隷まで使って建てたんだろ?そういった祖先をもっていることに、カンボジアの国民は今でも強烈なプライドを持っているんだよ。今の日本とは大違いだ。



魔女狩りに明け暮れる日本のメディア
ー日本の近況についてはどうやって情報収集を?
後藤 知り合いが日本から訪ねてくるし、日本人の若い子たちとも話してる。バックパッカーっていうのか?旅をしてる若い子たちを一度家に泊めて飯を食わせて小遣いをやったら、それが噂になってな。「後藤さんのところに行くと、ただで泊まれて小遣いまで」って噂になった(笑)。上智や早稲田といった立派な大学を出た連中も来るが、話しを聞くと、国も職場もとにかく息苦しいそうだ。
 俺は毎日、NHKのニュースや新聞、週刊誌にも目を通してるんだが、週刊誌はもうどうしようもないな。人の悪口、アラ探しばっかりでまともな記事なんてない。みのもんたの息子が警察の世話になったからって、なんで親父が番組まで降りなきゃならん?高いところからモノを言ってるあいつのことは、俺もすきじゃないが、それとこれとは別だ。こいつは悪い奴、こいつはいい奴と魔女狩りごっこをやってるだけじゃないか。今の日本の縮図だ。
 今年、NHKを毎日見ていて鼻についたのが熱中症のニュースだな。俺たちが子どもの頃も夏は暑かったよ。でも熱中症なんて言葉はなかった。暑けりゃ水を飲んだり日陰に入ったりして、自分で調節したもんだ。それが毎日毎日、ニュースのトップで今日は何人倒れただのと大騒ぎしてる。「水分を十分補給してください」なんて毎回毎回言うことか?こっちは1年中暑いんだよ(笑)。でも誰も熱中症で倒れやせんぞ。
 カンボジアって国は、そりゃ遅れてるかもしれんよ。交通法規だってないようなもんだ。自動車やバイクを運転している者で免許を持っているのは1割くらいだろ。プノンペンではすごい渋滞が起こるから、我先に道を抜けようと対向車線に入ってくる。警察はそんなもの、取り締まらないよ。でも国民は法律で守られなくても、自分の能力で自分を守ろうとするんだよ。
 車の調子が悪くなっても、正規の部品なんてすぐ手に入らないだろ。だから、町工場のオヤジが、スパナ一本で大概の故障は治しちゃうんだよ。昔の日本の町工場みたいなもんだ。



暴排ブームの先には国民の魔女狩りが
ー引退から5年、日本では暴排条例が定着して、締め付けが厳しくなってます。
後藤 日本の国家からみれば、引退して5年が経過しようが俺は「ヤクザ」なんだ。俺自身はそれでもよろしいと思っているが、俺と一緒にやめた若い衆は、カタギになってもいまだに同じ扱いを受けている。実際にあった話だが、現役時代に銀行口座を作ったというんで、すでに辞めているのに詐欺で捕まってるんだ。
 こうなると、詐欺罪の時効は7年だから、カタギになっても7年間ヒヤヒヤしてなきゃならん。ヤクザの時代に偽名でゴルフをやっていたのが、今になってこれも詐欺でパクられてる。
 随分住みづらい国になったもんだな。せっかくカタギになったんなら、そいつが社会人1年生としてスタートするきっかけを考えてやるのだ、そもそも政治ってもんじゃないか。
 自民党の安部首相は、増税を乗り越えれば、次は憲法改正に進むだろう。憲法9条改正、俺も大賛成だ。しかしだよ、憲法21条改正ってのはどうなんだ。自民党の憲法改正草案の解説を読むと「交易や公の秩序を害する活動に対しては、表現の自由や結社の自由を認めない」とある。この「結社」にはヤクザも当てはまるな。これが認められた場合、ヤクザは地下に潜るしかない。辞めたってパクられるんだから、ほかに道はないだろ。
 マスコミや野党もうかうかとはしてられないぞ。権力批判のあり方によっては、反社会的と烙印を押されて、活動の制約を受けることになるんじゃないか。「反社会的」ってあまりにも曖昧な言葉だな。最近流行りのコンプライアンス(法令遵守)という言葉もそうだ。法令遵守なんて当たり前の話じゃないか。それをわざわざ持ち出して、みずほの融資の件じゃ頭取が国会で参考人招致までされてな。ヤクザが自動車ローンを組んでただけだろ?不正融資でもなんでもない。それと特定秘密保護法案の「秘密」ってなんなんだ?
 曖昧な言葉で正義と悪を仕分けする風潮はやがてエスカレートして、一般人が「反社会的」と烙印を押される日も来るんじゃないか。これじゃあ、まるで国民を粛清しまくったスターリン時代のソ連だ。

 義理と人情とおおらかさ・・・・これが日本のいいところだったんだがな。ますます息苦しい国になるな。

ーもう日本には帰りませんか?
後藤 俺の心は「さらば日本、されどアイ・ラブ・日本」だが、フン・セン首相や国会議長のヘン・サムリンたち政権トップとの交流も進んでるんだよ。もっといろんな事業に取り組みたいし、日本との架け橋にもなればいい。物事を動かすためには政治との関わりは不可欠なんだ。カンボジアという国家は、俺の存在を認めているわけだから、しばらくはここで頑張り続けることになるだろうな。


機密保護法とは

特定秘密保護法(特定秘密の保護に関する法律)とは、日本の安全保障(国の存立に関わる外部からの侵略等に対して国家及び国民の安全を保障することをいう。)に関する情報のうち「特に秘匿することが必要であるもの」を特定秘密として指定し、取扱者の適評価の実施や漏洩した場合などの罰則を決める法律であり、2013年末に賛成多数により可決、成立し、2014年12月に施行された法律。

機密保護法反対をTwitter上で示唆する徐裕行




一水会も機密保護法反対
鈴木邦男も機密保護法反対

何故彼らは機密保護法に反対するのだろうか
カンボジア政府やらJALやら学会やらオウムやら徐裕行やら、後藤組長の周囲は複雑怪奇である

徐裕行の関係者がシンガンス工作員
機密保護法→工作員の取り締り強化の布石

機密保護法反対を曖昧に表明する元暴力団組長
制定されると不利益でもあるのか、それとも…?
●後藤組ってどんな組織?

徐裕行の震災援助の背後には、後藤組組長・後藤忠政の存在があった。

疑惑の殺人鬼・徐に手を貸した後藤組長とはどんな人物なのだろうか?



後藤忠政(本名:後藤忠正)。
1942年9月16日、東京府東京市荏原区に4人兄弟の末っ子として出生。
祖父は富士川発電や伊豆箱根鉄道を興した実業家の後藤幸正であった。母親は後藤が2歳の頃に列車事故で死亡。同時期に戦争の激化により、父の実家がある静岡県富士宮市に疎開して以降、同地で育つ。幼少期はよく父や兄に暴行され、喧嘩をしながら過ごしてきたという。



後藤が中学を卒業した1958年、父後藤和吉が死亡(享年61)。
親戚の縁故で旅館「小松家」の番頭をするが続かず、土方や工場も身にあわず職を転々とする。
兄弟が就職で離れ離れとなり孤独となった後藤は愚連隊に居場所を求め、恐喝を度々繰り返したという。


1969年、暴力団・川内組若頭補佐兼静岡支部長を経て、富士宮市に暴力団・後藤組を結成して組長となる。川内弘は福井県に拠点を置く暴力団組長で「北陸の帝王」の異名を持っていた。川内は菅谷組組長であり三代目山口組若頭補佐であったボンノこと菅谷政雄組長の舎弟であった。

後藤組はその後、静岡県における山口組勢力拡大の嚆矢となった。

1977年、川内組の川内弘組長の直参昇格を巡って菅谷組内部で対立が発生。4月、菅谷の部下が川内弘を三国町の喫茶店で射殺する事件が起きる。この件で菅谷政雄は山口組から絶縁される。



親分が殺され上部団体が絶縁となった後藤は、縁あって静岡県浜松市の伊堂組(伊堂敏雄組長)の舎弟となる。

1983年3月、富士宮市内のパチンコ店に後藤の手下である柏木一身が乗り込み、日本刀で経営者の顔を切りつける事件が発生。翌年にも別の幹部がみかじめ料をめぐってパチンコ店主の顔を切りつけたり、ダンプカーで店を破壊する事件を起こす。

1984年7月、竹中正久を組長とする四代目山口組が発足すると伊堂組長は引退。後藤は地盤を引き継いで四代目山口組直参に昇格した。

伊堂は山口組が一和会と分裂した1984年6月に引退。
竹中正久が山口組四代目組長に就くと後藤も山口組直系組長として末席に連なることが許されるようになった。

1985年1月、竹中組長が一和会の構成員に射殺されると山口組と一和会の間で『山一抗争』が勃発した。後藤は一和会の報復に参加し、同年5月に後藤組の構成員、池田満の組員ら3人がダイナマイトを持参してダンプカーに乗りつけ、そのまま神戸市内の一和会会長・山本広の自宅に突入した。ダンプは警察が設置した車止めを押し倒し、電柱にぶつかって動かなくなった。ダンプから現れた組員は、拳銃を所持しており、すぐに機動隊員と銃撃戦を繰り広げた。死者は出なかったが、組員一人が機動隊員に左肩を撃たれ負傷している。

一和会を直接攻撃するのは失敗した。しかし、警察が固めていようと敵の本丸に突入する後藤の戦意は山口組内部で評価され、この頃から後藤組は”東海道の暴れん坊”、”武闘派”と呼ばれるようになった。

4月14日、一和会副幹事長吉田好延が国鉄三ノ宮駅前の交差点で停車中に、後藤組幹部の佐藤明義に38口径の拳銃で4発の銃撃を受けた。吉田は無事だったものの、同乗していた組員2人が窓ガラスの破片で負傷した。

同年、神戸市内でユニバーシアード大会が開催され、台覧試合が行われた。
この影響で山口組と一和会は石井隆匡、中井一夫などの仲介により1985年7月末から9月末まで2か月間休戦状態となった。



糸山英太郎襲撃事件

幼少時代は苛めを受け3回転校を繰り返す。転校先の喧嘩に勝ったことで不良になり、中学から大学まで暴力に明け暮れる。恐喝事件を起こし、大塚警察署に告訴されるも検事の温情により起訴猶予となる。大学中退後は心機一転し、中古車のセールスマンに就職。成績が良かったことから1年で独立するも失敗し、父親に泣きつき、新日本観光に転職。

父親の佐々木真太郎は”ゴルフ場王”と呼ばれ、田中角栄、金丸信、安倍晋太郎といった大物や、笹川良一、山口組3代目田岡一雄の長男田岡演とも接点があった。

糸山はゴルフ場の経営で実績を上げ、父親と親しかった笹川良一の親族と結婚。資金的にも恵まれるようになり、政界、投資にも進出。後の総理大臣・中曽根康弘の秘書を経て、1974年(昭和49年)、石原慎太郎の後押しにより自由民主党から第10回参議院議員通常選挙に全国区出馬、32歳で参議院議員に初当選する。竹下内閣では外務委員長の要職に就く。

1985年12月暮れ、糸山は新高輪プリンスホテルで選挙資金集めパーティーを計画。
この資金めパーティーに無理矢理協力を押し付けられた関西のある一部上場大手建設会社が、ツテを辿って新右翼活動家・野村秋介に相談。野村はこのパーティーを潰すことを企画し、稲川会、住吉連合会、山口組の組員らにパーティー券を配布。野村と親密だった後藤組には100枚の券が配られる。
暴力団員が大挙するのを知った糸山は警察を動員。しかし警備はうまくいかず、後藤と野村秋介が現れ糸山に直接抗議を行った。これに対し糸山はバックの笹川良一の名をちらつかせ、二人の怒りを増幅させた。

1986年6月17日、埼玉県秩父市の市民会館で糸山が総決起大会を開いていたところを後藤組傘下の良知組構成員二人がナイフで襲撃。糸山は左腕に一週間のけがを負い、犯人は現行犯逮捕された。



1987年、後藤は東京都新宿区に不動産会社「エム・プランニング」を設立、新宿、渋谷に事業を展開させる。

1988年、後藤組員が警備のパトカーに発砲、警官に重傷を負わせる。
同年、『山一抗争』が終結。


日本共産党と後藤組

1989年、日本共産党への政治献金が明るみに出て東京、埼玉の右翼から街宣車攻撃を受けていた「地産グループ」(竹井博友が総帥)の攻防に介入し、右翼団体を排除する腕力を発揮。
(1991年、「地産グループ」から10億円の迂回融資を受けた疑いで東京地検から事情聴取を受ける。)


渡辺芳則を組長とする五代目山口組では、後藤は山口組東京進出の先兵となり勢力拡大に寄与した。
この頃までに後藤組は首都圏のほか、北海道、岩手、福島、埼玉、熊本まで十二都道府県に30以上の傘下団体を持つようになった。


1990年2月、当時山口組若頭だった宅見勝率いる宅見組構成員2人が二率会の組員により射殺される事件が起きる。この報復で山口組、後藤組は八王子へ進出し、20回近くカチコミ(建物にめがけて拳銃を発砲すること)を繰り返す「八王子抗争」を起こした。

ニ率会を平伏させると、後藤はニ率会構成員を吸収して同地域に後藤組正東会を作らせた。
会長には古橋勝利(後に後藤組舎弟頭補佐)を置いた。


溝口敦襲撃事件

同年5月、後藤はジャーナリストの溝口敦を西新宿の事務所に呼びつけた。

当時、溝口はスポーツ紙に山口組の記事を連載していた。溝口は過去に後藤にインタビューをしており、後藤は溝口に「うちはマフィア化するね。若い者なんかヤクザ登録しないで、表向き組とのつながりを切った形で企業舎弟に仕立て上げていく。だけどオレはやつらに儲けはさせない。ヒモをぐっと引いて儲けを吐き出させる」と、自身を鵜飼いに例えながら語っていた。

そんな後藤が溝口を呼びつけた理由は、溝口が刊行しようと準備していた『五代目山口組』にクレームを伝えようとしていたためである。

後藤「山口組のオレの仲間があんたを問題にしている。ハネっ返りも2、3いることだし、あんたにケガをさせたくもない。オレはあんたを知らんわけじゃないから、こうして問に入ったわけだが、どうだろう。今後、山口組のことを書くに当たっては事前に原稿をオレに見せてくれないか」

溝口は摩擦を避けるため妥協するつもりだったが、2日後に後藤は頭から「出版を中止してほしい」と電話で伝えて来た。

溝口「中止したら、ライターとして物笑いのタネになる。どうあっても中止だけはのめない」
6月末、溝口は「五代目山口組」を刊行した。

同年8月末、高田馬場で男に左背を深さ10センチ、幅5センチにわたって刺され、東京女子医大に搬送された。犯人は逮捕されず、公訴時効が成立した。


後藤組、上九一色村で事件を起こす
1992年11月、静岡県知事に無届けで土地を売却した国土利用法計画法違反容疑で後藤組幹部が経営する金融不動産業「エム・プランニング」=新宿区西新宿6=が摘発される。

逮捕されたのは後藤組内鴻池組組長の鴻池隆(当時45)=静岡県浜松市布橋=、後藤組内勝政会会長・佐野勝政(当時50)=富士宮市松本69-20=ら5人と、千代田区麹町の不動産会社「愛時資」副社長、橘田幸俊(当時36)=渋谷区代々木5=ら同社役員2人。

「エム・プランニング」は山梨県内のゴルフ場の隣接地を購入価格の10倍でゴルフ場開発会社に買い取らせ、約6億円の利益を上げたとされる。
他でも動揺の手口で買い取りを迫り、応じない場合は隣接地に豚小屋を建てたり、廃油をまくなどのいやがらせをする。応じた場合は建設工事を請け負う。こうして豊富な資金源を増やした。関係者によると、直系組長は通常月額、80~100万円の上納金を納めるところを、後藤組の上納金は破格の数千万円に上ることもあったという。



(上九一色村はオウム真理教総本山がある地域である。オウムの進出前から後藤組はこの村で暗躍していた。)




伊丹十三襲撃事件

1992年5月22日、暴力団を描いた映画『ミンボーの女』の監督伊丹十三を後藤組組員5人が襲撃。
犯行は現場は世田谷区内の伊丹さん宅前の駐車場で発生。伊丹監督はカッターナイフで切りつけられ、顔や両腕に全治3カ月の重傷を負った(病院に搬送された際に取材陣から「大丈夫ですか!?」と声をかけられて、声こそ出なかったもののピースサインで応えた)。後日伊丹監督は「私はくじけない。映画で自由をつらぬく。」と宣言した。





警察は現場の車より後藤組の犯行であることを突き止め、12月3日、後藤組本部長・池田満(当時36)、幹部柏木一身(42)、後藤組内石川組幹部、三国孝男(43)ら5人が傷害容疑で逮捕された。
5人は同月末に全員起訴され、その後、懲役4~6年の実刑判決を受けた。
翌4日、後藤組本部事務所、後藤忠政宅、不動産業「エム・プランニング」など約10カ所で捜査員270人、装甲車30台を動員し家宅捜索が行われる。
後藤組事務所には闘犬の他クマも飼育されていたため麻酔銃が用意された。
(毎日新聞92年12月4日東京夕刊より)

92年12月25日
警察庁は13都道府県の刑事部長を集め、東京・半蔵門会館で指定暴力団後藤組に対する「集中取締推進会議」を開いた。会議の冒頭、国松考次刑事局長は後藤組を来年の最重要取り締まり対象とすることをなどを支持した。


(国松考次氏…警察長官狙撃事件で負傷)


その後も1993年5月には自称右翼の男が伊丹監督作品『大病人』公開中の映画館のスクリーンを切り裂く事件が起き、伊丹への嫌がらせが耐えなかったという。


この事件で後藤忠政組長は次のように懐述している。



「あの事件では、俺もそれこそいろんなところから、いろんなことを言われた。けれど俺自身初めはウチの若い衆がやったということ自体、知らなかったんだ。ただあの監督がやられたと聞いて、「おお、ヤクザにもちゃんとしたプライドを持ってる奴がいるじゃないか」と思った事は間違いないな。

ヤクザである限り、極道の代紋掲げている限り、あの映画『ミンボーの女』を見て不愉快にならんかった者は当時、一人もいなかったはずだ。そう感じないヤクザがいたら、どの顔(つら)下げてヤクザやってるのか見たかったぐらいだ。

ここまで公衆の面前で、映画という公のメディアで馬鹿にされて、面子潰されて、それでもケジメを取らないならヤクザじゃないと思ってたよ。この映画が公開される1か月前に暴対法が施行されたから、この映画は暴対法のPR映画みたいなもんだった。

この監督がサツの露払いをするのは勝手だが、それにしちゃあ、あまりにもヤクザを馬鹿にした、おちょくったような映画作ってくれるじゃないか、と。

おまけに警察庁の幹部なんかがこの映画を見て、マスコミとかで絶賛して、この監督はこの監督で、記者会見で「この映画で、私はヤクザに喧嘩を売ったんです」とか言ってたんだ。

そんな時に起きたのがあの襲撃事件だ。別に命まで奪った訳けじゃないし、「どこの組の奴か知らねえが、粋なことをやってくれるじゃないか」と。「どこの組か分かったら、差し入れでもしきゃな」と最初は思っていたくらいだ。で、俺の中ではそれで事件の事はスッキリと終わってたんだが、半年たってウチの若い衆が捕まって「え―っ、ウチだったの!」ってなってな。

イザ自分の組の話になると、頭が痛いなぁ、と。警察にはこれまで以上に徹底的にやられるだろうし、マスコミや一般社会からも非難囂々(ごうごう)だろうし、若い衆に弁護士つけてやらなきゃいかんし、起訴されたら徴役長いだろうし、その間、家族の面倒は見てやらなきゃいかんし・・・「えらいこっちゃなあ」って。それまで他人事のように見てた襲撃事件が、いきなり自分の組の話になったもんだから、これはキツかったな。

けど、襲撃した若い衆に対して、「面倒起こしてくれたな」なんてこれっぽっちも思わなかったよ。さっきも言ったようにヤクザとしてのプライドを持っているものなら、誰がやってもおかしくないと思ってたから。

 捕まった5人は佐野逸雄―富士連合会会長の所の若い衆だ。中でも主犯の池田 満・当時後藤組本部長補佐は、山一抗争の時に山本広一和会会長宅にダンプカーで突っ込んで警察と撃ち合った男だ。それが一年ぐらい前に刑務所から出てきて伊丹十三襲撃事件で又刑務所に行くことになった。

この池田と言う男は腹が据わってたよ。案の定一般社会じゃ非難囂々だったけど、ヤクザの社会では拍手喝さいだったんだ。」






(伊丹は1997年に投身自殺をしているが、この自殺にも後藤組が関与していた、という説がある。)




1993年6月、建設会社に労働者を派遣させ、労働者派遣法違反容疑で後藤組員6人が逮捕。


1997年10月31日
ニセの賃貸契約署などで入札事務を遅らせたとして、競売妨害の疑いで後藤組幹部で右翼団体代表、松本英也(38)ら3人を逮捕。調べによると95年9月、倒産した八潮市内の建築資材会社の土地建物(約900平方メートル)について、現状調査に訪れた浦和地裁執行官に、「契約書を交わして政治結社などに転貸借している」などとニセの契約書を提示。自分が代表の右翼団体の看板を出したり、敷地内に凱旋車を止めたりして入札を妨害した疑い。


1997年12月31日
午前4時頃、埼玉県草加市氷川町で7、8発の銃声があったと住民から届け出があり、住吉会浅草高橋組草加事務所の東側窓ガラス2枚13カ所に銃弾が撃ち込まれていたのが確認される。
同5時半頃、同県三郷市三郷のマンション4階にある後藤組内浜脇組幹部の自宅ドアに8発の銃弾が撃ち込まれているのを、巡回中の吉川署員が発見する。


銃器取引
1998年6月15日、旧住宅金融専門会社の大口融資先の一つエスケージー(旧振興開発、本社宮城県松島町)所有ビルなどに政治結社「天妙会」が機関銃など多数の銃器を隠し持っていた事件で、短銃の一部が後藤組から流れた疑いが強まり、埼玉、東京、宮城などで後藤組事務所など20数カ所を一斉捜査、短銃3丁と実弾10数発を押収。信岡幸典(当時50)、高尾作一(当時48)、長岡栄司(当時32)を逮捕。



プロ野球巨人と後藤組
1999年10月15日、自動車販売のナンバーを不正取得したなどとして、電磁的公正証書原本不実記録・供用の疑いで自走社販売会社「パパイエノール(東京都渋谷区鉢山)」社長、村田和隆(当時39)を逮捕。同社は後藤組のフロント企業とみられ、プロ野球巨人軍の内野守備コーチ、篠塚利夫氏が代表取締役を務めており、警視庁は篠塚宅など30カ所を捜索した。同日午後6時前から東京間だの球団事務所で記者会見した篠塚コーチは「疑惑が持たれたことに関して、球団やファンの皆さまにおわびしたい」と陳謝。その上で「暴力団がかかわっているとは知らなかった」と交際を否定した。
この事件で山室寛之球団長が篠塚コーチに事情を聴いたうえで厳重注意処分とした。その後コミッショナー事務所、セリーグ事務局などを訪ね、事件の経緯を説明し、巨人の最高決定機関「最高経営会議」メンバーである読売新聞社の水上健也会長に報告。渡辺恒夫オーナー、長嶋茂雄監督の了解を得て、篠塚コーチに年内謹慎処分を科し、23日から始まる秋季練習、26日からの宮崎キャンプ、球団公式行事に参加させないことを決めた。


日本航空(JAL)と後藤組の黒い闇
1999年2月
日本航空の株百万株が後藤組の組長名義に書き換えられていたことが社内で明らかとなった。

当時、日航の発行済み株式は約17億7千8百万株。組長名義の株はそのうちの0.056%にすぎなかったが、個人株主では第2位に躍り出たうえ、総会での議案提出権を持つ立場になった。

日本航空は以前からヤミ社会との接点を保ち続けていた。
98年8月、過去3年にわたつて植木のリース料目的で総会屋に約2千2百万円の利益給与をしていたとして、日本航空の前職員ら3人が警視庁に書類送検された。さらに99年4月、東京国税局の税務調査で、国内路線を割引料金で利用できる株主優待割引券や換金した現金を多数の暴力団関係者らに提供した事実が発覚し華やかなイメージとは裏腹の企業体質が浮かび上がった。

99年6月23日
総会直前の日に当時顧問で元社長宅の自宅玄関前に銃弾が撃ち込まれた跡が見つかる。
同月29日、日航の株主総会に過去10年で最多の1400人が出席、「広島グループ」を率いる総会屋の小川薫が発言するなど不穏な空気に包まれた。会場に後藤の姿はなかった。

2000年4月26日
後藤忠政組長に名義変更された日本航空株の売買を無免許で仲介したなどとして、警視庁と静岡県警の合同捜査本部は証券取引法違反と詐欺の疑いで、金融業「クライム」社長、榎本佳晃(当時55)=川崎市多摩区東生田=ら3人を逮捕した。


2001年10月24日
飲食店への入店を断られた腹いせに店員に暴行をしたとして、警視庁捜査四課と麻布署は集団暴行・脅迫の疑いで後藤組幹部の松本英也(当時42)ら2人を逮捕した。調べによると松本は同年6月上旬、港区六本木のクラブへの入店を満席を理由に断られた事に立腹、店の男性マネージャー(当時34)を店外に呼びつけて土下座させた上、乗用車のドアを勢いよく開けてマネージャーの肩にぶつけるなどし、さらに「店をすぐにつぶしてやる」などと脅した疑い。


2002年7月
後藤は五代目山口組若頭補佐に起用されて執行部入り、2005年に六代目山口組が発足すると六代目山口組舎弟に直った。


真珠宮ビル不正登記・殺人事件
2005年頃、東京都渋谷区代々木2丁目の雑居ビル「真珠宮(しんじゅく)ビル」の所有権を巡り、同ビル管理会社顧問の野崎和興さん(当時58)と後藤組との間でトラブルが起きた。



ビルはJR新宿駅南口近くの好立地にあったが、所有権が複雑化しており、野崎さんはフロン
ト企業との交渉役として、トラブルの矢面に立っていた。

後藤組系組長、松本英也は配下の近藤毅組員らに、野崎さんの監視を指示、監視カメラを搭載したバイクで野崎さんの監視1年近く続けた。

同年年2月28日、「菱和ライフクリエイト(現:クレアスライフ)」と「フェニックス・トラスト」が「真珠宮ビル」の売買契約を解除し、所有権を後藤組組長である後藤忠政の資産管理会社に不正に移転。

2006年3月5日夜、野崎和興さんが近藤毅組員に背、中などを刃物で刺され殺害された。近藤松本英也の支援により国外逃亡した。

同年5月8日、警視庁は電磁的公正証書不実記録容疑などで後藤忠政ら13人を逮捕した。計5人が起訴され、3人(後藤忠政・金融業者・フェニックス・トラスト実質経営者)に有罪判決、2人(菱和ライフクリエイト経営者・仲介者)に無罪判決が確定した。

後藤は懲役2年、執行猶予4年の有罪判決を受けた。この事件で遺族らは司忍六代目と後藤らを相手に損害賠償請求を起こした。



2010年12月3日、現場から逃走する車の運転手役を担当した後藤組の男を逮捕。2011年5月31日に東京地裁の裁判員裁判で運転手役の男に懲役13年の有罪判決が言い渡され、確定した。

2011年4月26日、国外逃亡していた近藤毅がタイ北部のチェンライ山中で射殺された。
射殺したタイ人ガイドによれば「トラブルになり近藤元組員に発砲 され銃撃戦になった」と主張。しかし遺体の状況から背後から一方的に撃たれた可能性が高いという。

2012年10月、後藤が遺族に計1億1,000万円を支払い哀悼の意を表す等の条件で和解した。




除籍
2008年9月、後藤は病気を理由に総本部での定例会を欠席したにもかかわらず、芸能人らを集めて誕生日を祝うゴルフコンペを開く。翌月マスコミの報道(週刊新潮08年10月9日号)で発覚し、「除籍処分」を受け表面上引退した。

参加者は細川たかし(58)、小林旭(69)、松原のぶえ(47)、角川博(54)、中条きよし(62)ら5人の歌手が出席。このことが大々的に報道され、NHKは今月6日、5人を同局のすべてのテレビ、ラジオ番組への出演を当面の間、見合わせることを決めた。

後藤は以前も体調不良を理由に定例会をたびたび欠席していおり、除籍は執行部が激怒したことが原因だとされている。しかし、関係者によると、除籍は、制裁である「破門」「除名」と違い、本人からの申し出を組織側が了承することが一般的という。

この処分に異を唱えた直参(浅川桂次・浅川会会長、井奥文夫・井奥会会長、小野守利・六代目奥州会津角定一家総長、奈須幸則・三代目大門会会長、川崎昌彦・二代目一心会会長、佐川睦男・二代目浅川一家総長、大田守正・大田興業組長)といった直系組長7人も後藤に連座して絶縁・除籍・謹慎などの処分を受けた。

後藤組若頭だった良知組組長・良知政志と後藤組総本部長だった藤友会会長・塚本修正が後藤組の地盤を継承して六代目山口組の直参に昇格している。


引退後
2009年4月8日
神奈川県伊勢原市の天台宗の寺院・無常山浄発願寺で得度、法名・忠叡を名乗る。


「お坊さんの顔」だというが…


袴田事件と後藤
引退後、後藤は地元で起こった事件だったために気にかけていた袴田事件を題材として私費3億円を投じ、映画『BOX 袴田事件 命とは』を企画、2010年に公開された。
袴田氏の援助には鈴木邦男、徐裕行も支持している。

同年に自らの半生を語り下ろした自叙伝『憚りながら』(宝島社)を出版、後藤組と創価学会の関係について明らかにしたことなどが話題を呼び、20万部を超えるベストセラーとなった。本書の印税は、2010年10月20日に「アンコール障害者協会」(Angkor Association for the Disabled=AAD')ならびにミャンマーのチャイカロット・パリヤティセンター&モゴック・ビパサーナ僧院に全額寄付された。2011年には新章「東日本大震災と日本人」を加えて文庫化。

この文庫版の印税でボランティア組織「G–rise日本」を設立し、福島第一原子力発電所事故で陸の孤島と化した地域へ支援物質を運搬したとされる。(組織の副会長が徐裕行。)

2011年頃よりカンボジアに移住し、プノンペンの高級マンションに居住。カンボジアでは養鶏場経営などの実業を手掛けるとともに学校建設などの活動も行っており、2012年末にはカンボジア国籍を取得し、伯爵に相当する『アジャ』の称号を授与されアジャ忠叡を名乗る。カンボジア政府高官に人脈を築いて、国会議員を目指すことも考えているという。


創価学会と後藤組
後藤組と関係の深い作家、山平重樹の「ドキュメント野村秋介」によればおおむね次のようなことがあったという。

「創価学会は80年、大石寺近くに5万基の大霊園を造ったが、周辺も含めて用地買収、建設に当たって合法的なことばかりでは済まされず、裏の汚れた役割に後藤組を使った」「成果をあげた後には後藤組組員の服役だけが残った。が、学会から返事がない。それから学会に対する闘いが始まった。新右翼・野村秋介氏が支援に回り共闘が始まる。散弾銃、火炎瓶、短銃、雑誌でのキャンペーン……」

創価と後藤組の関係は1970年代まで遡る。日蓮正宗の信徒集団だった創価学会はかつて、後藤組の地元、静岡県富士宮市の「大石寺」を総本山としていたが、70年ごろから大石寺周辺の土地を買い漁り、境内を拡張。72年には大本堂「正本堂」を建立し、73年からは正本堂近くの広大な敷地に墓苑「富士桜自然墓地公園」の建設を始めるなど(80年完成)大規模な造成を行った。

後藤組長が著した「憚りながら」によると、次の話がある。

「当時、大石寺絡みの土地売買や建設工事で、富士宮に流れ込んだ金は莫大だったんだ。大本堂で300億円、富士桜(自然墓地公園)で200億円、その周りの土地を買うのに数百億円といった具合に、全部で1000億円近くになったんじゃないか」

ところが当時、後藤とも懇意だった地元市議が経営する建設会社「日原造園」が「富士桜自然墓地公園」の利権を独占していたため、他の業者から不満があり、日原と後藤組との関係を指摘するビラがまかれた。そして1977年10月、後藤組幹部がこのビラをまいた住民宅に、大型ブルドーザーで突入し、ブロック塀を10mにわたって破壊、さらに自宅に上がり込み、その住民を日本刀で切りつけ、左腕や背中、顔にに2ヶ月の怪我を負わせ、翌日、襲撃犯は殺人未遂の容疑で逮捕された。



後藤によると、「この事件でウチの若い衆は(懲役)6年食らったんだけど、実は日原の後ろにはあの「山崎正友」がいたんだ。日原と山崎は、それこそ二人三脚で富士桜を進めていたわけだ」(前出「憚りながら」より)。

山崎は当時、創価学会の顧問弁護士で、池田大作の”お庭版”であると同時に、学会の暗部を取り仕切っていたといわれている。

後藤によると「学会は、大本堂を造る時からデタラメなことをしていた」という。
「大本堂を造る際に、市道を勝手に(市の許可なく)潰したり、農地を不正に取得したりしてな。それが(富士宮市)議会で問題になったり、道路法違反で池田大作が告発されたりしたんだよ」。


さらに富士宮しないでは、学会と日原の癒着を追求する「日原造園、創価学会と市政の疑惑を正す市民会議」が結成され、学会に対する大規模な反対運動が起こったのだが、その反対運動潰しに学会が使ったのが後藤組だった。

富士宮議会は81年に百条委員会の設置した。
百条委員会とは地方自治法100条に基づく特別調査委員会で、関係者の証人喚問、強制捜査、さらには証言拒否や偽証には禁固や罰金刑を科せる、という強力な権限を持つ。

学会は反対運動潰しに続いて”百人委員会潰し”をするため後藤組に依頼、同年12月に委員会は消滅した。

後藤「ところが、だ。あいつら(学会)の依頼で協力してやったのに、その後(百条委員会が終結した後)は知らんぷりだ。それどころか、俺が今まで山崎から相談を受けて、学会のために協力したことを、「それは山崎とあんた(後藤)が勝手にやっあtことであって、ウチ(学会)は一切知りません」という態度になった。市議、嫌疑といった地元の公明党関係者もみんな。それは話が違うだろう、と。山崎はあくまで学会のパイプ役、池田の使いとして着たんだ。べつに俺は山崎に使われてたわけじゃない。あくまで池田のために協力してやったんだ。”あんまり他人様になっちゃいかんぜ”という話だよ。」

学会の態度に不満を持った後藤は学会に内容証明郵便を送った。
ところがその3ヶ月後の1983年6月、静岡県警富士宮署に「後藤組壊滅対策本部」が設置されたと言う。後藤によれば1年足らずの間に60人以上の組員が逮捕されたといい、学会への怒りが頂点に達したという。



1985年11月12日、創価学会文化会館で、後藤組幹部ら3人が銃弾を撃ち込み、銃刀法違反で現行犯逮捕された。

後藤「これには池田もビビっただろうな。そりゃそうだわ、行く先々で”パン”って音がするんだから(笑)。それで慌てて、俺んところに池田の使いものもんが飛んできて、詫びを入れてきたんだ。俺はべつにこの使いのもんが心底憎いとか、嫌いというわけじゃないから、本人の名誉のためにも『X』とでもしておこうか(笑)」

このXは藤井富雄・元公明党東京都議だといわれている。この”池田のつかい”である藤井の活躍により、創価学会は後藤組と協力関係を取り戻したといわれている。
その一方で創価学会名誉会長だった池田は91年11月、日蓮正宗から破門され。これ以降、宗門と学会は激しく対立する。そしてその池田は門から5ヶ月後の翌年4月には学会と対立する大石寺「妙遠坊」で発砲事件が発生。同年5月には大石寺「奉天寮」に火炎瓶が投げつけられる事件が起こるのだ。まるで学会側の意をくんだかのように、である。


(銃撃された創価学会文化会館)


新左翼と後藤組
後藤組の力は資金力と腕力だけではない。山口組の目下の最大関心事は暴力団対策法への対応だ。反権力を掲げる遠藤誠弁護士を擁して、法律闘争に余念がない。

山口組にこの異色の弁護士をスカウトしたのが、実は後藤組長だった。さらに言えば、後藤組長に紹介したのが野村秋介だった。92年に暴力団新法反対の集会、デモが三回繰り広げられ当時話題を集めたが、参加者は新右翼・新左翼・暴力団の三者共闘だった。



弁護士の遠藤誠は、本法の違憲を主張する行政訴訟の弁護に際して、山口組からの12億円余の資金提供の申出を受けたが無償で弁護している。また、遠藤と野村秋介の音頭により、暴力団有志による「任侠市民連合」、右翼団体・一水会の青年組織「統一戦線義勇軍」、新左翼の日本共産党(行動派)が合同で、デモ行進などによる反対運動を展開した。鈴木邦男もデモに参加した。


●”人権派”弁護士・遠藤誠とは

1930年宮城県大川原町生まれ。仙台陸軍幼年学校中退。東京大学法学部に進み、1953年に卒業、55年司法試験に合格。千葉地裁判事補を3年務め61年弁護士に転職。帝銀事件弁護団長、永山則夫連続射殺魔事件主任弁護人、反戦自衛官事件弁護団長を務めた。遠藤誠法律事務所所長。

遠藤誠がオウムと出会ったのは1990年。オウム真理教幹部・青山吉伸は熊本県波野村の教団進出をめぐる事件で国土法違反で逮捕された。釈放後、青山は遠藤の事務所を訪問してきたという。
スポーツニッポン(95年5月5日号)の取材によると遠藤は、「百件の訴訟を抱えていたこともあり断った」と主張しているが、青山の著書「理想社会」に遠藤誠のコメントが掲載されている。

「『現代人の仏教の会』の教祖であるわたしは、もちろん、オウム真理教の信者ではありません。しかし、最近のオウム信者の住民登録に対する熊本県波野村役場の住民基本台帳法違反の行為や、青山吉伸弁護士とオウム真理教の幹部に対する国土法違反に名を借りての警察の弾圧は、誠にもってとんでもない権力の犯罪行為であります。日本は、今や、ファッシズムの段階に突入しました。そして、それを支えているのは権力とマスコミの垂れ流すデマゴギーに対する国民一般の無知であります。太平洋戦争という侵略戦争に、国民一般がのめり込んでいったのも、またこの国民の無知によるものでした。」

当時、オウム教団は地元住民やオウム家族会と対立しており、サンデー毎日をはじめ一部の週刊誌がオウムの悪評を報じていた。反撃にでたオウムは、アムネスティをはじめとした人権団体と共闘し、教団の犯罪を秘匿しようとした。遠藤誠もまた、オウム教団と共闘した一人だったのだ。
95年3月23日には、遠藤がレギュラーを務める番組に、青山吉伸が出演依頼を気軽に引き受けている。

サリン事件が発生し、麻原が逮捕されると、麻原は遠藤に弁護人になってほしいと希望してきた。山口組を救った弁護士だけに麻原は強く期待していたのである。ところが、遠藤宛に激しい抗議電話がかかり、遠藤の三女が反発して家出する事件が起きた。

遠藤は態度を改め、「無罪を確信することができない」と麻原の依頼を取り下げた。95年5月3日、青山吉伸は、仮谷さん拉致事件で逃走していた松本剛に逃走資金500万円を用意したとして、犯人隠匿の罪で再逮捕された。青山は遠藤に再び弁護を依頼した。

青山「私の弁護をお願いします。遠藤先生でないと駄目なんです。先生のなさった結果なら納得できます」

この依頼について遠藤は「熱意に押されその場で受託した。『だがあなたの事件では上祐さんだろうが麻原さん一切お引き受けできません』と言ったよ」とメディアの取材に回答している
しかし、後日「正直言って上祐さんに『(青山の弁護人を)辞退してください』と言って欲しかった」とつぶやき、弱腰な一面を見せた。2002年没。


(遠藤誠の出版記念パーティーに参加する後藤組長)


現在の後藤忠政
2016年3月、山口組と神戸山口組が分列し対立を深める中、後藤は療養を目的に日本へ帰国。

関西のある組織関係者によれば「(後藤が)両山口組との接触はない」と断言していが、今だにうがった見方も根強くあり、「神戸山口組が後藤元組長のお見舞いに来るらしい」など確定的ではない情報が流れた。後藤は3月30日に退院したといい、「過去に交友のあった民間施設を訪れた」と目撃情報が寄せられている。今後も後藤の動向に各方面から視線が注がれている。