読書ノートというのを書くことがある。

気に入った本の場合に、気に入ったところを書き出すのである。元来は自分の為の文字通りノートなのだが、時々はシェアするのも良いと思う。とりあえず、だいぶん前に書いた読書ノートを下に貼り付けてみる。

やはり、ノートを見直してみても、内田先生は、
素適だ。

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読書ノート 日付:2009/2/7

タイトル: 疲れすぎて眠れぬ夜のために 作者: 内田 樹
ISBN 978-4-04-370703-4

「君たちにはほとんど無限の可能性がある。でも、可能性はそれほど無限ではない。」

自分の可能性を信じることはとてもよいことです。でも、可能性を信じすぎて、できないことをやろうとするのはよいことではありません。

「君の可能性は無限だし、同時に、有限でもある」
自分の可能性を最大化するためには、自分の可能性に限界があるこということを知っておく必要があります。自分の可能性を伸ばすためには、自分の可能性を「たいせつにする」ことが必要です。


ほんとうの利己主義とは

人々が自分の幸福を利己的に追究すれば、結果的には必ず自分を含む共同体の福利を配慮しなくてはならなくなる。

利己的な人間は必ず家族や友人の幸福を配慮し、共同体の規範を重んじ、世界の平和を望むはずだ、と考えたのです。

「むかついて」人を殺す若者や、一時的な享楽のために売春やドラッグに走る若者は「利己的」なのではありません。「自己」がほとんどなくなっているのです。



女性が働くことの意味
フェミニズムの古典、『第二の性』(1949)という本の中で、シモーヌ・ド・ボーヴォワールが主張しているのは、平たく言ってしまうと、「男のもっているものを女性も持ちたい」ということでした。権力と社会的地位と高い賃金。

こういう権利請求は、一見すると正当なんですけれど、その前提には「権力や資産や社会的威信はよきものである」という考えがあります。これはちょっとまずいんじゃないかとぼくは思います。

ぼくはこれをフェミニズム的「奪還論」と呼んでいるんですけど、奪還論的構成になった瞬間に、フェミニズムは彼女たちが「男性中心主義的社会」と呼んでいる社会の価値観を半分肯定してしまうということになります。

でも、いわゆる「社会的資源」と言われるものには、それほど価値があるのでしょうか。問題は男たち自身は、「そんなもの」にほんとうにたいした価値があるとは思っていないことです。

。。。。少なくとも、「大きな仕事」を成し遂げる男たちは、まず例外なく地位や賃金や威信を求めていません。


ビジネスとレイバーの違い

ビジネスにおいては、リスクを取る人間が決定を下します。
ディシジョン・メイキングはリスク・テイキングと表裏一体です。

…… 優れたビジネスマンは「リスクを取る」と言いますが、凡庸なサラリーマンは「リスクを負う」と言う…… 「リスクというのは負わされるものだ」というふうに思う人は、リスクをできるだけ回避しようとします。
確かにリスクは回避されますが、リスクを取らない人間は決定権をも回避することになります。そういう人はビジネスに参加できません。

ビジネスとレイバーの差は、ですから常雇いか臨時雇いの違いでも、時給やポストの差でも、資本金の規模でもありません。その人が「リスクを取る」という決断をできるかどうか、その一点にかかっています。

リスクというのはビジネスマンに限らず、およそ社会人にとっては忌避すべきものではなく、むしろ歓迎すべきものです。それは別に冒険心を持てとかベンチャー精神はたいせつだとかいうようなロマンティックな物語ではなく、きわめて日常的なシビアな「人としての基本」のことだとぼくは思っています。


マップする視点
想像的に視点を自分から離脱させてみる。視座をどんどん遠方にずらせば、遠方から「自分を含んだ風景」を見ることが出来る。・・・これが空間的マッピングです。時間の流れの中のマッピングも原理的には同じことです。自分がどのように形成されてきたのかを見る、ということです。

今の自分のものの見方や考え方を絶対視する人とは、要するに「マッピング」する知的習慣を持っていない人のことです。「私は私だ」「オレにはオレのやり方があるんだ」という言い方をよく耳にしますが、こういうことを言う人はあまり頭がよくないと判じて構いません。だって、その人の言う「オレ」の構成要素のほとんどは歴史的に「作られたもの」なんですから。その人とまったく同じような「オレ」がこの人の同世代。同地域には掃いて捨てるほどいるということに、この「オレ」さまはまるで気がついていないのです。「オレはオレだ」と威張っている限り、自分のものの見方が形成された「前史」を知ることはできません。


背中の意識を甦らせる
・ ・・・
日本の倫理は「罪の文化」ではなく、「恥の文化」であるというベネディクトの説をぼくはなかなかみごとな分析だと思っています。・・・ しかし、「人」は心の中までは見てくれません。心の中が正しくても、行いや姿かたちにそれが外形化していなければ、その「正しさ」は社会的に承認されません。だから日本の「恥の文化」は同時に「型の文化」とならざるをえなかった、ぼくはそういうふうに考えています。

・・・ まず「型」を決める。そして、その外形的な「型」を身体に刷り込んでゆくうちに、「型」は身体の中に食い込むように内面化し、ついには誰も見ていない場面でさえ、その「型」のせいで、人間は心の欲望のままにふるまうことができなくなる、というのが日本的な倫理教育だったのではないか、とぼくは考えます。

大学時代の同窓と会った。

大学の同じ学科でそのまま大学院でも同じ研究室にいた大学の同窓と久々に会い、食事をした。今夜は彼の奥さんも同伴だったが、彼女とは大学院卒業後、彼らの結婚式に呼ばれて依頼、30年近くぶりであった。

そんなご無沙汰の二人と会ったのは、この春に我が同級生の彼は、某大手電機会社を早期退職となり、実家のある和歌山に戻り、実家のミカン農家を継ぐことになった為である。明日荷物を出して、明後日には和歌山へ発つという。

今回会う前は、ちょっと会話もぎこちなくなるのかと思いきや、いきなり20年以上の年月をすっとんで、普通に会話ができてしまって、すこし安心するやら、感動するやら、拍子抜けするやら、な感じで楽しい時間を過ごせた。

ミカン農家の息子とはいえ、どうやら全く農業のことは判らないらしく、ましてや全くの“お嫁さん”だった奥さんは土素人で、二人ともこれから勉強なのだそうだ。

この大不況が少なからず彼らの人生を変えてしまったことは間違いなく、今後の彼らの人生が良い方向に向かうことを祈るしかないと思うのである。

しかし、一方で、一人の人生の中で、都会の会社勤めと郊外での農業の両方を出来てしまう彼を少しうらやましくも思ったりする。もちろん、そんなに簡単ではないことは判っているが。。。。

ただ、今のようにワーカホリックで、趣味は仕事だ、くらいに思っている私に農家の生活が果たして可能なのかは、正直なところピント来ない。

同窓の彼も、その奥さんも、心配事を口にしながらも明るく前向きに進もうとしている様子だったことで、少し元気をもらえたような気がする。

そんな夜でした。

書く文章に気をつけるようにしている。少なくとも、そうしている積もりである。

なぜ気をつけるようになったのか、気にするようになったのか、については色々な理由があるが、やはりメールでのやり取りで余り芳しくない経験をしてきたことが大きいと思う。

言うまでもなく電子メール(今どき「電子」は付けないね)は非常に便利なツールであるが、反面、非常に危険な側面も持っている。情報漏洩、セキュリティ、個人情報うんぬんの話もあるが、人と人とのコミュニケーション手段という意味において、気をつけないと行けないことが多い。

面と向かって話をしていても誤解は生じるが、相手の表情やその場の応対で誤解のままでおかれてしまう確立は低い、或いは低くできる、と言えるが、メールとなると、受け取った人がどう解釈するかは保証の限りではない。

私も過去に苦い経験が数多くあり、知らず知らずのうちに、メールに書く文章は慎重に言葉を選ぶし、説明も丁寧になり、その結果、私のメールは長くなりがちである。なので、私にはその文字入力操作が遅いという問題以上に携帯メールは使いにくいものである。

また、メールは一方的に送られてくることが普通で、それに対して、どう応えるかの反応がデフォルトで求められている。無視することや、気がつかないことも反応の一種である。どういう返信が、どのくらいのタイミングで返ってくるのかを送り手は気にしている可能性が高い。受け手もそのことを常識として心得ていることが求められる。

もちろん、総てのメールがそうではないが、メールの性格がどういったものなのか、を受け手が見極めることも求められている。

これらを総て送り手はメールに文章を書いて表現して伝え、受け手はメールに書いてある文章から読み取り、反応する。

私も今ではそれなりに自分の各文章には自信ができてきているし、気がついてみると、むしろ文章を書くことが好きにさえなってきている。そんな私だが、学生の頃や、ソニーの若きエンジニアであったころは、文章を読むことも書くことも得意ではなかったし、ましてや好きではなかった。

そんな私が、文章を書くことをいとわなくなったのは、出したり受け取ったりするメールの圧倒的な量によるところが大きい。

そんなメールのやり取りで気になるのが、読み手に判ってもらえるのかどうかを考えて書いているかどうかという点だ。相手に判ってもらえるのかどうかということは、話し言葉でも書き言葉でもコミュニケーションの基本なのだが、これが出来ていない人が多くいるように思う。

誤字脱字や文書表現が稚拙な人は、まずは自分で書いた文章を読み直して、ちゃんと理解できて、かつ誤解を招かないかを常に気にするところから始めるべきだろう。それが基本中の基本だ。

なんだか、説教がましい内容になってしまったが、こういうことに気がつき、気を遣うことができる人は、色々な意味で信用が出来るし、“使える”と思う。
そして、素適だな~と思うのである。

皆さん、話し言葉であれ、書き言葉であれ、相手のことを思いやって、良いコミュニケーションをしてください。