今日は下の娘の運動会だった。

私たちが子供の頃は、運動会と言えば「秋の行事」というのが“お決まり”だったが、最近は今頃が主流になってきているようだ。

“出番”は2回。
いやいや、娘の出番ではなくて、私の“出番”が、である。

娘の通う公立の小学校は、元々地域の公営団地の住民向けに設立されたものだと思われるが、今ではその地域の住民の年齢バランスが崩れてしまい、生徒数が激減し、ほとんどの学年が1クラスしかいない。全校生徒が200人に満たない。

その為、5年生で、しかも“応援団”に立候補している娘の出番は非常に多く、実に10回。さらに応援団は応援をやり続けなくてはならないので、たいへんである。

一方、運動会の競技の数をそれなりに増やす意味でも、「親子競技」という名の“強制執行”が毎年ある。低学年の時は、親子でできる競技だから、やはり“それなり”のモノで良いのだが、高学年になってくると、結構きつい。しかも、この親子競技も“紅白”の総合結果にポイントが加算されるので、手を抜くことが許されない。

2年前には、親子2組が2m程の棒をもってダッシュしてパイロンを何回か回って来る「ハリケーン」とか言う競技で午前中に勝利したハズの“レース”が何故か“再レース”になってしまい、お昼のお弁当の時にお楽しみのビールを飲んでしまっていた私は、準備運動もほどほどに再レースへと突入し、ダッシュの3歩目で左足太股の肉離れを起こしてしまう、という大失態を犯してしまい、当然フルスピードが出るわけもなく、チームに迷惑を掛けてしまった。それほどマジなのである。

それで、今年はというと、親子競技はなんと「飛びつき綱引き」である。綱から10mほど離れたところにスタンバイして、最初の号令で子供たちが綱に向かって走り綱引きを開始、その後の2発目の号令で親たちが加勢をするという変形の綱引きで、上の子供の時にも経験したが、マジでやると非常にきつい運動だ。

ま、また怪我をしてはいけないと、セーブして臨もうなどと思わなくもないのだが、そこは不思議なもので、この手のモノはどうしても闘争心に火が付いてしまう。それは私だけではないことは明らかで、スタート前に「声出して行きましょうね!」とかチームの親たちが気合いを入れていたりするのである。

今回は結局、赤白が一勝一敗になって3回戦も戦うことになり、しかも1回戦目がものすごい長い戦いになったこともあり、決戦で勝利した時には思わず思いっきりガッツポーズをしてしまった。。。。

今日は、一日中強烈な日差しがあるお天気で、絶好の運動会日和ではあったのだが、もう一つの出番であるPTA・来賓のこれまた綱引きを軽く流して、3時頃に運動会が終わった時には、暑さのせいもあり、かなーり疲労してヘロヘロの状態だ。

帰ってから着替えをして、暫くすると、当然のように睡魔が襲ってくる。そこで、4時過ぎから6時頃まで遅い午後の惰眠をうつらうつら。

お陰で先週までの仕事の重たい疲れが運動会の疲れと解け合って、なんだか少し“心地良い疲れ”に化学変化したような、そんな気がした。

どうやらこの”化学変化”には、適度な睡眠と筋肉痛が必要なようだ。

単純なことだけど、ちょっと驚いた。

2チャンネルで「人間スゲー」ということで話題になっているという記事を知人のブログ(正確にはMixiなのでSNSですが)エントリで見つけた。まずは、この下のコピペした文章?を読んでみてもらいたい。

こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。
この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の
けゅきんう の けっか にんんげ は もじ を にしんき する とき
その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば じばんゅん
は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に
もづいとて わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。
どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?
ちんゃと よためら はのんう よしろく


ひらがなとカタカナで書かれているので、多少読みにくいけど、読めてしまう。(改行を元のテキストから変えています)
少し実は初めて読んだとき、何が変なのか気がつかずにかなりのところまで読んでしまった。どこが変なのかが書いてあるところまできて、気がついたというお粗末。

人間が文章を読んでいるとき、逐次に文字を一つずつおっているのではなくて、かなり固まりとして認識しているということなのだろう。確かにそうでなければ、速いスピードで文章を読んで理解していくことなどできないのかもしれないが、人間の脳はそれを何らストレス無くやってのけているのだから、やはり凄いとしか言いようがない。

ケンブリッジでの研究って言うのは、英語から始まっているのかな、だとすると、これって、英語で言うと、単語のスペルが真ん中はいい加減でも読めるっていうことなのかしら。それよりも、日本語のひらかな、カタカナで有効っていうのはある意味もっと驚いてしまう。

なんだかこうなると、文章をちゃんと書くことや、むかし苦労した英単語のスペルを覚えることって、どうなの?って少し思ってしまうよね。

にてしも、「イリギスのケブンッリジだがいく」って、
どこのとこだ?


また、内田先生の作品ばかりで、申し訳ない。

ようやく、「街場の教育論」を読み終えた。正確に言えば、ずいぶん前に今のところまでは読み終わっていたし、最後まで読んだわけでもないので、読み終えてはいないのかもしれないが、最後の章は、しばらく読みそうもないので、終了。

「教育論」なので、私から紹介したいこと、伝えたいことは余りなさそうなのだが、自分としてしっかりと捉えておきたいと考えたことを、自分の手で書き出しておきたいと思った。特に「グローバル資本主義と原子化」のくだりは、考えさせられるものがある。


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読書ノート
日付:2009/5/2

タイトル: 「街場の教育論」 作者: 内田 樹
ISBN 978-4-903908-10-6


「キャンパスとメンター」より

「学び」というのは自分には理解できない「高み」にいる人に呼び寄せられて、その人がしている「ゲーム」に巻き込まれるというかたちで進行します。この「巻き込まれ」(involvement)が成就するためには、自分の手持ちの価値判断の「ものさし」ではその価値を考量できないものがあることを認めなければいけません。

自分の「ものさし」を後生大事に抱え込んでいる限り、自分の限界を超えることはできない。知識は増えるかもしれないし、技術も身につくかもしれない、資格も取れるかもしれない。けれども、自分のいじましい「枠組み」の中にそういうものをいくら詰め込んでも、鳥瞰的視座に「テイクオフ」することはできません。

「学び」とは「離陸すること」です。
それまで自分を「私はこんな人間だ。こんなことができて、こんなことができない」というふうに想定していた「決めつけ」の枠組みを上方に離脱することです。自分を超えた視座から自分を見下ろし、自分について語ることです。


「踊れ、踊り続けよ」より

ブレークスルーというのは自分で設定した限界を超えるということです。(中略)「限界」をつくっているのは私たち自身なのです。(中略)「こんなことが私にはできるはずがない」という自己評価は謙遜しているように見えて、実は自分の「自己評価の客観性」をずいぶん高くに設定してます。自分の自分を見る眼は、他人が自分を見る眼よりもずっと正確である、とそう前提にしている人だけが、「私にはそんなことはできません」と言い張ります。でも、いったい何を根拠に「私の自己評価の方があなたからの外部評価よりも厳正である」と言えるのか。これもまた一種の「うぬぼれ」に他なりません。


「『いじめ』の構造」より

(前略)学校というのは、子どもたちを「外界」から隔離し、保護することをそn本質的な責務とするものです。学校と「外の社会」の間には「壁」がなくてはならない。子どもたちを外から守る「壁」がなくてはならない。学校は本質的に「温室」でなければならない。これは異論のある方も多いと思いますけれど、私の譲ることのできない教育観です。

学校教育を破壊したのは、学校と社会を隔離してきたこの「壁」が崩壊したからです。教師たちも親たちも教育行政もそして子どもたちも、みんなが「グローバル資本主義」の信奉者になってしまった。そして学校の内側と外側の温度差がほとんどなくなってしまった。

「モジュール化」というのはビジネスの用語で、(中略)つまり、マニュアルの決まった小さい作業ユニットに分けて、それを小分けにして売り買いをする。(中略)モジュール化には思いがけないピットフォールがありました。一つはあまりにモジュール化が進行すると、作業内容そのものが「ブラックボックス化」することです。

「クリエイティヴ」というのは、自分の仕事に固有名の「タグ」がつき、それがもたらす報酬はすべて自分に占有権がある、そういう仕事のことです。つまり、「クリエイティヴ」という言葉は「モジュール化された」とほとんど同義として理解されている。


グローバル資本主義と原子化

「自分らしさ」は「商品購入行動」でしか表現できないというイデオロギーが支配的なものになったのは、八〇年代から後のことです。それまで消費単位は家族でした。家族が消費単位であると、消費行動はあまり活発ではありません。消費に先立って「家族内合意」が必要となるからです。(中略)結果的に十分な所得がありながら、誰一人満足しない消費行動が妥協点になる。これは家族全員にとって不愉快な結論であると同時に、マーケットにとっても不愉快な結論です。モノが売れないからです。
それゆえ、マーケットはこの消費行動の最大の抑制要因である「家族内合意形成」というプロセスをこの世からなくす方法を考えました。簡単ですね。家族を解体すれば良い。家族全員がそれぞれの「好み」に応じて商品購入行動を展開するならば、消費行動は急激に加速する。消費単位のサイズを小さくすればするほど消費活動は活発になる。
そうやって、官民挙げての「自分らしく生きる」キャンペーンが以後二十年にわたって展開することになります。
自分らしく生きるということは、要するに誰の同意も必要とせず商品選択を自己決定できることである、と。私が言っているんじゃありませんよ。中教審から『BRUTUS』まで、フェミニストから電通まで、全員がそう唱和したのです。

(中略)消費行動に際して同意が必要な他者との共生は「よくないこと」であるということについての国民的合意がいつのまにか成立しました。非婚化、晩婚化、少子化というのは、この合意に基づく論理的な帰結です。

(中略)初等中等教育が荒れだしたのは、まさに「自分らしさ」イデオロギーが官民挙げてのキャンペーンの中で展開しはじめたときと同期しています(思えば、それは中曽根内閣が全国民に「1000ドル外貨を使って商品を買え」と獅子吼したとき、臨教審が現在の「教育改革」のグランドデザインを完成させたとき、バブル経済の始まったときでした)。これを「シンクロニシティ」と言わずしてなんと言えばよいのでしょうか。