果たして私に「社長の器」があるのか、悩んでいる、、、
という話ではない。

佐山展生・編「社長の器~企業価値向上論講義」を読んだ。

最近やたらと本を読んでいるように見えると思うが、例によって、それなりの時間を他の本を読み進めながら、この本も並行して読んでいたものなので、最近読み終えたというだけで、必ずしも最近読み始めたものではない。

ちなみに、読み終えたことは“読み、終えた”のだけれど、完全に全部を読んだ訳ではない。もうこの本は一応ここまでにしておこう、と決めて読むのを終えたので、いつか気が向いたら、また読み返したり、読んでいない部分を読んだりすることもある。

本書「社長の器」は、一橋大学大学院のMBAコースで佐山氏が開いている「企業価値向上論」という講座で、さまざまな分野で活躍している経営者の人たちに講演を依頼していて、その講演内容から出版されたものだという。

このところ自分が「社長」という立場にあることを意識せざるを得ないことが多くあり、本書で語られている色々な“社長像”というのをある種の現実味と切実さを持って受け止めることになった。

本書の冒頭で佐山氏曰く、

社長の「器」で会社は決まる。素晴らしい社長のもとには、素晴らしい人材が集まり、その素晴らしい人材が素晴らしい会社をつくる。しかし、自分のことしか考えないような尊敬できない社長のもとには素晴らしい人材が集まらず、いい人材から抜けていき、問題のある社員が濃縮される。


重たい話である。本文中の講演の中でも非常に重要で考えさせられる発言は多々みされるが、中でも強烈なのは、「産業再生機構」の代表取締役専務を経験された冨山和彦氏の言葉だ。

さて、経営におけるリーダーとは、どのようなものでしょうか。(中略)経営に関わった瞬間、その人は自分以外の人間の人生を、運命を左右する力を持ち、責任を持ちます。リーダーが間違えると、他人の人生も壊れます。あるいはその従業員、子供たちの人生も壊れます。~

~ 逆に言うと、経営者は自分以外のいろんな多くの人の人生をより良いものにできるのです。私はそこにこそ、経営の本質が、リーダーとなることの醍醐味があると思っています。~


この「逆に言うと」以下のくだりの意識がなければ、下手をすると責任の重圧に押しつぶされそうになりかねない言葉だ。いや、恐らくこのリーダーの醍醐味という意識を持てる人こそがリーダーの責任も意識し受け止められるのだろう。

自分に社長の器があるのか無いのかを問いかけることよりも、自分の周りにいる人の人生をより良いものにできる立場にあるのだ、という経営リーダーの意識を明確に持ちたいと思い、私はこの文章を書いた。

福岡伸一著「動的平衡」を読了。

何週間か前にようやく「生物と無生物のあいだ」を読み終えたばかりなのに、立て続けて福岡伸一氏の新作を読んだことになる。実は、読みかけだった「生物と、、」を読み終えたのは、その時既に「動的平衡」を購入済みで、こちらを早く読みたいと思ったのが理由だった。

2つの著作を比較しても余り意味がないのかもしれないが、読み物としては恐らく「生物と、、」の方が、物語的であり、サスペンス要素もありで、よりエキサイティングだと思う。その一方で「動的平衡」に書かれている内容は、より根幹的、本質的な部分にも踏み込んでいて、刺激的だと感じる。

私たちの生命は、受精卵が成立したその瞬間から行進が開始される。それは時間軸に沿って流れる、後戻りのできない一方向のプロセスである。
さまざまな分子、すなわち生命現象を司るミクロなパーツは。ある特定の場所に、特定のタイミングを見計らって作り出される。そこでは新たに作り出されたパーツと、それまでに作り出されていたパーツとの間に相互作用が生まれる。
その相互作用は常に離合と集散を繰り返しつつネットワークを広げて行く。(中略)生命とは機械ではない。そこには、機械とはまったく違うダイナミズムがある。生命の持つ柔らかさ、可変性、そして全体としてのバランスを保つ機能—それを、私は「動的な平衡状態」と呼びたいのである。


生命とは何か?
この永遠の問いに対して、過去さまざまな回答が試みられてきた。DNAの世紀だった二十世紀的な見方を採用すれば、「生命とは自己複製可能なシステムである」との答えが得られる。(中略)しかし、この定義には、生命が持つもう一つの極めて重要な特性がうまく反映されていない。それは、生命が「可変的でありながらサスティナブル(永続的)なシステムである」という古くて新しい視点である。


生命を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、行進され続けているのである。
だから、私たちの身体は分子的な実体としては、数ヶ月前の自分とはまったく別物になっている。分子は環境からやってきて、一時。淀みとしての私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれてゆく。


生命は自分の個体を生存させることに関してはエゴイスティックに見えるけれど、すべての生物が必ず死ぬというのは、実に利他的なシステムなのである。これによって致命的な秩序の崩壊が起こる前に、秩序は別の個体に移行し、リセットされる。
したがって、「生きている」とは「動的な平衡」によって、「エントロピー増大の法則」と折り合いをつけているということである。換言すれば、時間の流れにいたずらに抗するのではなく、それを受け入れながら、共存する方法を採用している。


福岡先生の著作を読んでいると、生命というのも自体が何か奇跡的なもののように思えてくるし、ましてやその中でこうやって色々なことを考え、日々の営みを行っている私たちは実に奇跡の中の奇跡なのだと感じて、生きていると言うことに、なにかこう“感謝”のような気持ちさえ芽生えてくる。

少し大げさかもしれないが。

ようやく、福岡伸一著「生物と無生物のあいだ」を読了した。

いつものいけない癖?で、8割くらいのところまで読んで、相当の長い時間に渡り放置してしまった。話題の書であり、会社の複数の仲間からも勧められ、帯に書かれた推薦文によれば「こんなおもしろい本を、途中でやめることなど誰ができよう」という作品であるにも係わらず、また途中で変に満足して止まってしまったのだ。

この作品は、紛れもなく名著なのだと思う。生命の不思議や生物というモノがまさに奇跡的な存在であることが、とでもドラマチックに描かれていて、ある種の興奮さえ覚えるし、大きな驚きがそこには著されている。

この手の著作を部分的に抜き出してみても普通は余り意味はないのだろうが、それにしては印象的な言葉が散りばめられている。

 つまり生命は、「現に存在する秩序がその秩序自身を維持していく能力と秩序ある現象を新たに生み出す能力を持っている」

 秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。

 生命とは動的平衡にある流れである

ある意味それにも増して多くの人が驚かされるのは、生物学者である著者の福岡伸一氏の文章ではないだろうか。留学していた頃のエピソードを随所に効果的に絡めながら話が展開して行くし、その端々で見られる文学的な表現も素晴らしい。

 ニューヨークからボストンに研究室を移動した私は、しばしば、マンハッタンを懐かしく思い出した。マンハッタンの光と風。(中略)
 しかし、この街には、ニューヨークで私を鼓舞してくれた何ものかが欠けていると感じられた。ボストンに住んでしばらくたったある日、私は徹夜実験を終えて実験棟から早朝の街路に出た。芝生はしっとりと朝露を含み、透き通った空には薄い雲が一筋たなびき朝焼けの茜色に染まっていた。あたりは静けさに包まれていた。
 そのとき、ニューヨークにあってここに欠落しているものが何であるかが初めてわかった。それは振動(バイブレーション)だった。街をくまなく覆うエーテルのような振動。



別の推薦文には「優れた科学者の書いたものは、昔から、凡百の文学者の書いたものより、遙かに、人間的叡智に満ちたものだった。つまり、文学だった。(後略)」とある。ここまで大げさに言わなくても良いとは思うが、こう言われて、レオナルド・ダビンチのことを思い出した。うろ覚えだが、確かこんな詩を聞いたことがある。

この水は最初の水
この水は最後の水
今私の手に触れた水は、もう二度と触れることはない
・・・・

もっと前後があったと思うが、もう30年以上、下手をすると40年くらい前の記憶だから勘弁願いたい。かなり強烈な印象で記憶に残っていたことは確かだが。

「生物と無生物のあいだ」の著者福岡氏は生物学者だから、バリバリに理系だということになる。それなのに、素適な文章を書き、素晴らしい本を記された。いや、“それなのに”という言い方は、実はまったく意味のないことなのだろう。

文系だ理系だとう言うのは、恐らく大学受験における受験教科の違いから、それに対応する高校や予備校が便宜上作り出したものでしか無いように思える。しかし、確かに中学生くらいから、いや、もっと遡ると小学生の高学年くらいから最初の分かれ道はあって、多くの子供のきっかけが“算数が苦手”を意識するあたりにあるのではないかと思う。

だから、数学が得意な理系と国語、英語が得意な文系、あるいは多くの場合、国語、英語が苦手な理系と、数学、物理・化学が苦手な文系、みたいな類型化が私たちの間にもいつのまにかできていて、大学受験のコース分けの時に、絶対的な区分をされてしまう。

その瞬間から、なんだか人間を2種類に分類してしまう、みたいな強烈な印象を時には与えてしまうような気がするが、世の中そんなにキッチリと分かれている訳では決してない。

なぜか文系に分類されている経済学なんて、どうみても数字のカオスだろうし、「複雑系」の研究では、経済学もネットワーク理論やカオス理論、ゲーム理論、さらには気象学とかと非常に近しい関係で捉えられている。

たしかに日本以外で理系だの文系だのにあたる表現を聞いたことがない。単にそれぞれの専攻、専門分野があるだけだ。どうやらこれも日本式の大学受験制度が生み出した変なラベル貼りの影響でしかないようだ。

分子生物学と国文学では同じ一人の人間が先行する学問だとは考え難いけれど、福岡先生の本を文学だと表現する人がいても不思議はない。

ただ、理系と文系という認識は、意外に私たちの中に意味もなく深く刻み込まれているように感じるのである。たとえそれになんの意味がなくても。