ようやく、福岡伸一著「生物と無生物のあいだ」を読了した。
いつものいけない癖?で、8割くらいのところまで読んで、相当の長い時間に渡り放置してしまった。話題の書であり、会社の複数の仲間からも勧められ、帯に書かれた推薦文によれば「こんなおもしろい本を、途中でやめることなど誰ができよう」という作品であるにも係わらず、また途中で変に満足して止まってしまったのだ。
この作品は、紛れもなく名著なのだと思う。生命の不思議や生物というモノがまさに奇跡的な存在であることが、とでもドラマチックに描かれていて、ある種の興奮さえ覚えるし、大きな驚きがそこには著されている。
この手の著作を部分的に抜き出してみても普通は余り意味はないのだろうが、それにしては印象的な言葉が散りばめられている。
つまり生命は、「現に存在する秩序がその秩序自身を維持していく能力と秩序ある現象を新たに生み出す能力を持っている」
秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。
生命とは動的平衡にある流れである
ある意味それにも増して多くの人が驚かされるのは、生物学者である著者の福岡伸一氏の文章ではないだろうか。留学していた頃のエピソードを随所に効果的に絡めながら話が展開して行くし、その端々で見られる文学的な表現も素晴らしい。
ニューヨークからボストンに研究室を移動した私は、しばしば、マンハッタンを懐かしく思い出した。マンハッタンの光と風。(中略)
しかし、この街には、ニューヨークで私を鼓舞してくれた何ものかが欠けていると感じられた。ボストンに住んでしばらくたったある日、私は徹夜実験を終えて実験棟から早朝の街路に出た。芝生はしっとりと朝露を含み、透き通った空には薄い雲が一筋たなびき朝焼けの茜色に染まっていた。あたりは静けさに包まれていた。
そのとき、ニューヨークにあってここに欠落しているものが何であるかが初めてわかった。それは振動(バイブレーション)だった。街をくまなく覆うエーテルのような振動。
別の推薦文には「優れた科学者の書いたものは、昔から、凡百の文学者の書いたものより、遙かに、人間的叡智に満ちたものだった。つまり、文学だった。(後略)」とある。ここまで大げさに言わなくても良いとは思うが、こう言われて、レオナルド・ダビンチのことを思い出した。うろ覚えだが、確かこんな詩を聞いたことがある。
この水は最初の水
この水は最後の水
今私の手に触れた水は、もう二度と触れることはない
・・・・
もっと前後があったと思うが、もう30年以上、下手をすると40年くらい前の記憶だから勘弁願いたい。かなり強烈な印象で記憶に残っていたことは確かだが。
「生物と無生物のあいだ」の著者福岡氏は生物学者だから、バリバリに理系だということになる。それなのに、素適な文章を書き、素晴らしい本を記された。いや、“それなのに”という言い方は、実はまったく意味のないことなのだろう。
文系だ理系だとう言うのは、恐らく大学受験における受験教科の違いから、それに対応する高校や予備校が便宜上作り出したものでしか無いように思える。しかし、確かに中学生くらいから、いや、もっと遡ると小学生の高学年くらいから最初の分かれ道はあって、多くの子供のきっかけが“算数が苦手”を意識するあたりにあるのではないかと思う。
だから、数学が得意な理系と国語、英語が得意な文系、あるいは多くの場合、国語、英語が苦手な理系と、数学、物理・化学が苦手な文系、みたいな類型化が私たちの間にもいつのまにかできていて、大学受験のコース分けの時に、絶対的な区分をされてしまう。
その瞬間から、なんだか人間を2種類に分類してしまう、みたいな強烈な印象を時には与えてしまうような気がするが、世の中そんなにキッチリと分かれている訳では決してない。
なぜか文系に分類されている経済学なんて、どうみても数字のカオスだろうし、「複雑系」の研究では、経済学もネットワーク理論やカオス理論、ゲーム理論、さらには気象学とかと非常に近しい関係で捉えられている。
たしかに日本以外で理系だの文系だのにあたる表現を聞いたことがない。単にそれぞれの専攻、専門分野があるだけだ。どうやらこれも日本式の大学受験制度が生み出した変なラベル貼りの影響でしかないようだ。
分子生物学と国文学では同じ一人の人間が先行する学問だとは考え難いけれど、福岡先生の本を文学だと表現する人がいても不思議はない。
ただ、理系と文系という認識は、意外に私たちの中に意味もなく深く刻み込まれているように感じるのである。たとえそれになんの意味がなくても。
いつものいけない癖?で、8割くらいのところまで読んで、相当の長い時間に渡り放置してしまった。話題の書であり、会社の複数の仲間からも勧められ、帯に書かれた推薦文によれば「こんなおもしろい本を、途中でやめることなど誰ができよう」という作品であるにも係わらず、また途中で変に満足して止まってしまったのだ。
この作品は、紛れもなく名著なのだと思う。生命の不思議や生物というモノがまさに奇跡的な存在であることが、とでもドラマチックに描かれていて、ある種の興奮さえ覚えるし、大きな驚きがそこには著されている。
この手の著作を部分的に抜き出してみても普通は余り意味はないのだろうが、それにしては印象的な言葉が散りばめられている。
つまり生命は、「現に存在する秩序がその秩序自身を維持していく能力と秩序ある現象を新たに生み出す能力を持っている」
秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。
生命とは動的平衡にある流れである
ある意味それにも増して多くの人が驚かされるのは、生物学者である著者の福岡伸一氏の文章ではないだろうか。留学していた頃のエピソードを随所に効果的に絡めながら話が展開して行くし、その端々で見られる文学的な表現も素晴らしい。
ニューヨークからボストンに研究室を移動した私は、しばしば、マンハッタンを懐かしく思い出した。マンハッタンの光と風。(中略)
しかし、この街には、ニューヨークで私を鼓舞してくれた何ものかが欠けていると感じられた。ボストンに住んでしばらくたったある日、私は徹夜実験を終えて実験棟から早朝の街路に出た。芝生はしっとりと朝露を含み、透き通った空には薄い雲が一筋たなびき朝焼けの茜色に染まっていた。あたりは静けさに包まれていた。
そのとき、ニューヨークにあってここに欠落しているものが何であるかが初めてわかった。それは振動(バイブレーション)だった。街をくまなく覆うエーテルのような振動。
別の推薦文には「優れた科学者の書いたものは、昔から、凡百の文学者の書いたものより、遙かに、人間的叡智に満ちたものだった。つまり、文学だった。(後略)」とある。ここまで大げさに言わなくても良いとは思うが、こう言われて、レオナルド・ダビンチのことを思い出した。うろ覚えだが、確かこんな詩を聞いたことがある。
この水は最初の水
この水は最後の水
今私の手に触れた水は、もう二度と触れることはない
・・・・
もっと前後があったと思うが、もう30年以上、下手をすると40年くらい前の記憶だから勘弁願いたい。かなり強烈な印象で記憶に残っていたことは確かだが。
「生物と無生物のあいだ」の著者福岡氏は生物学者だから、バリバリに理系だということになる。それなのに、素適な文章を書き、素晴らしい本を記された。いや、“それなのに”という言い方は、実はまったく意味のないことなのだろう。
文系だ理系だとう言うのは、恐らく大学受験における受験教科の違いから、それに対応する高校や予備校が便宜上作り出したものでしか無いように思える。しかし、確かに中学生くらいから、いや、もっと遡ると小学生の高学年くらいから最初の分かれ道はあって、多くの子供のきっかけが“算数が苦手”を意識するあたりにあるのではないかと思う。
だから、数学が得意な理系と国語、英語が得意な文系、あるいは多くの場合、国語、英語が苦手な理系と、数学、物理・化学が苦手な文系、みたいな類型化が私たちの間にもいつのまにかできていて、大学受験のコース分けの時に、絶対的な区分をされてしまう。
その瞬間から、なんだか人間を2種類に分類してしまう、みたいな強烈な印象を時には与えてしまうような気がするが、世の中そんなにキッチリと分かれている訳では決してない。
なぜか文系に分類されている経済学なんて、どうみても数字のカオスだろうし、「複雑系」の研究では、経済学もネットワーク理論やカオス理論、ゲーム理論、さらには気象学とかと非常に近しい関係で捉えられている。
たしかに日本以外で理系だの文系だのにあたる表現を聞いたことがない。単にそれぞれの専攻、専門分野があるだけだ。どうやらこれも日本式の大学受験制度が生み出した変なラベル貼りの影響でしかないようだ。
分子生物学と国文学では同じ一人の人間が先行する学問だとは考え難いけれど、福岡先生の本を文学だと表現する人がいても不思議はない。
ただ、理系と文系という認識は、意外に私たちの中に意味もなく深く刻み込まれているように感じるのである。たとえそれになんの意味がなくても。