また、内田先生の作品ばかりで、申し訳ない。

ようやく、「街場の教育論」を読み終えた。正確に言えば、ずいぶん前に今のところまでは読み終わっていたし、最後まで読んだわけでもないので、読み終えてはいないのかもしれないが、最後の章は、しばらく読みそうもないので、終了。

「教育論」なので、私から紹介したいこと、伝えたいことは余りなさそうなのだが、自分としてしっかりと捉えておきたいと考えたことを、自分の手で書き出しておきたいと思った。特に「グローバル資本主義と原子化」のくだりは、考えさせられるものがある。


ーーーーーーーーーーーーーー
読書ノート
日付:2009/5/2

タイトル: 「街場の教育論」 作者: 内田 樹
ISBN 978-4-903908-10-6


「キャンパスとメンター」より

「学び」というのは自分には理解できない「高み」にいる人に呼び寄せられて、その人がしている「ゲーム」に巻き込まれるというかたちで進行します。この「巻き込まれ」(involvement)が成就するためには、自分の手持ちの価値判断の「ものさし」ではその価値を考量できないものがあることを認めなければいけません。

自分の「ものさし」を後生大事に抱え込んでいる限り、自分の限界を超えることはできない。知識は増えるかもしれないし、技術も身につくかもしれない、資格も取れるかもしれない。けれども、自分のいじましい「枠組み」の中にそういうものをいくら詰め込んでも、鳥瞰的視座に「テイクオフ」することはできません。

「学び」とは「離陸すること」です。
それまで自分を「私はこんな人間だ。こんなことができて、こんなことができない」というふうに想定していた「決めつけ」の枠組みを上方に離脱することです。自分を超えた視座から自分を見下ろし、自分について語ることです。


「踊れ、踊り続けよ」より

ブレークスルーというのは自分で設定した限界を超えるということです。(中略)「限界」をつくっているのは私たち自身なのです。(中略)「こんなことが私にはできるはずがない」という自己評価は謙遜しているように見えて、実は自分の「自己評価の客観性」をずいぶん高くに設定してます。自分の自分を見る眼は、他人が自分を見る眼よりもずっと正確である、とそう前提にしている人だけが、「私にはそんなことはできません」と言い張ります。でも、いったい何を根拠に「私の自己評価の方があなたからの外部評価よりも厳正である」と言えるのか。これもまた一種の「うぬぼれ」に他なりません。


「『いじめ』の構造」より

(前略)学校というのは、子どもたちを「外界」から隔離し、保護することをそn本質的な責務とするものです。学校と「外の社会」の間には「壁」がなくてはならない。子どもたちを外から守る「壁」がなくてはならない。学校は本質的に「温室」でなければならない。これは異論のある方も多いと思いますけれど、私の譲ることのできない教育観です。

学校教育を破壊したのは、学校と社会を隔離してきたこの「壁」が崩壊したからです。教師たちも親たちも教育行政もそして子どもたちも、みんなが「グローバル資本主義」の信奉者になってしまった。そして学校の内側と外側の温度差がほとんどなくなってしまった。

「モジュール化」というのはビジネスの用語で、(中略)つまり、マニュアルの決まった小さい作業ユニットに分けて、それを小分けにして売り買いをする。(中略)モジュール化には思いがけないピットフォールがありました。一つはあまりにモジュール化が進行すると、作業内容そのものが「ブラックボックス化」することです。

「クリエイティヴ」というのは、自分の仕事に固有名の「タグ」がつき、それがもたらす報酬はすべて自分に占有権がある、そういう仕事のことです。つまり、「クリエイティヴ」という言葉は「モジュール化された」とほとんど同義として理解されている。


グローバル資本主義と原子化

「自分らしさ」は「商品購入行動」でしか表現できないというイデオロギーが支配的なものになったのは、八〇年代から後のことです。それまで消費単位は家族でした。家族が消費単位であると、消費行動はあまり活発ではありません。消費に先立って「家族内合意」が必要となるからです。(中略)結果的に十分な所得がありながら、誰一人満足しない消費行動が妥協点になる。これは家族全員にとって不愉快な結論であると同時に、マーケットにとっても不愉快な結論です。モノが売れないからです。
それゆえ、マーケットはこの消費行動の最大の抑制要因である「家族内合意形成」というプロセスをこの世からなくす方法を考えました。簡単ですね。家族を解体すれば良い。家族全員がそれぞれの「好み」に応じて商品購入行動を展開するならば、消費行動は急激に加速する。消費単位のサイズを小さくすればするほど消費活動は活発になる。
そうやって、官民挙げての「自分らしく生きる」キャンペーンが以後二十年にわたって展開することになります。
自分らしく生きるということは、要するに誰の同意も必要とせず商品選択を自己決定できることである、と。私が言っているんじゃありませんよ。中教審から『BRUTUS』まで、フェミニストから電通まで、全員がそう唱和したのです。

(中略)消費行動に際して同意が必要な他者との共生は「よくないこと」であるということについての国民的合意がいつのまにか成立しました。非婚化、晩婚化、少子化というのは、この合意に基づく論理的な帰結です。

(中略)初等中等教育が荒れだしたのは、まさに「自分らしさ」イデオロギーが官民挙げてのキャンペーンの中で展開しはじめたときと同期しています(思えば、それは中曽根内閣が全国民に「1000ドル外貨を使って商品を買え」と獅子吼したとき、臨教審が現在の「教育改革」のグランドデザインを完成させたとき、バブル経済の始まったときでした)。これを「シンクロニシティ」と言わずしてなんと言えばよいのでしょうか。