越の国へ(北陸道) 大彦命 派遣す 

全長242メートル、後円部径約126メートル、前方部幅約135メートル

西側に築かれた崇神天皇陵1号堀

東側の2号堀より一段低く設計されています

国際かんがい排水委員会(ICID)は、「崇神天皇陵堀」を世界かんがい施設遺産に認定しています

世界かんがい施設遺産とは、灌漑の歴史・発展を明らかにし理解醸成を図るとともに、かんがい施設の適切な保全に資するために、歴史的なかんがい施設を国際かんがい排水委員会(ICID)が認定・登録する制度です

行燈山

国内では56施設が登録されており、奈良県内においては初の認定

この地域では慢性的な水不足に悩んでいたことから、江戸時代末期に柳本藩が自費で改修工事を行い、堀を幕府規定よりも規模拡大するとともに用水利用の権利を獲得

穴師山

当時の水田約140haにおいて、従前からあるため池では賄えなかった水不足が解消され、食料生産の安定・強化、貧困解消に大きく寄与しました

この功績を讃えるため柳本自治連合会など地元有志により、藩主の子孫を招いた「藩主祭」が100年以上にわたって毎年開催され、歴史が継承されております

古くからこの地で農業を営み、施設や歴史を守り育んだ先人たちの並々ならぬ努力、そして、それを継承し現在も地域を支えている

山辺道勾岡上陵 拝所

背後はアンド山

和珥氏祖神 祀りし神社 赤阪比古

天理市和爾町「和爾坐赤阪比古神社」

御祭神は「阿田賀田須命」「市杵島比売命」

『延喜式』神名帳には大社に列せられ、古くは有力な神社だったようです

創建・由緒は詳らかでありませんが、当地は古代氏族の和珥氏が拠点を置いた地であり、近隣に鎮座する二社の和爾下神社と共に和珥氏が祖神を祀ったものだったことが考えられます

和珥氏は孝昭天皇の皇子である天足彦国押人命を祖とする氏族で、春日臣・大宅臣・粟田臣・小野臣・柿本臣・壱比韋臣など16氏に分かれた一大氏族です

『新撰姓氏録』には大和国神別に大国主の六世孫、阿太賀田須命の後裔であるという「和仁古」が登載されています

和珥氏は文字通りワニをトーテム(氏族の象徴)としていた人々とも考えられ、一説には安曇氏と同様の海人族だった、もしくは安曇氏や宗像氏などと同族であるとする考えもあります

和珥坂下伝承地道

古事記や日本書紀には、和邇坂下(和珥坂下)あるいは和邇坂とよぶ地名があります。日本書紀神武天皇に関する記述には「和邇坂下に巨勢祝(こせのはふり)という者あり」とあります

これは神武天皇が大和を平定した際に逆賊として倒された巨勢祝という土豪が、和邇坂下に所在していたことを示しています

石槨あり 有明の峰 古墳かな

増位山山頂を下りハイキング道へ

池

有明の峰

貞観17年(875)に在原業平が、また建久4年(1193)に西行法師がこの峰に登ったという

共に古歌が残つている

古墳

麓の豪族の首長の墓?

元は土で覆われていたのだろう

遺骨や副葬品があったものと思われます

石壁を組み上に大きな石を載せている

中世末ここに構居があつて領主は安芸法師休無(小寺職隆の弟)であつたが、天正元年八月十二日別所長治に攻め落された前期増位随願寺が焼かれて三百余人が嵐山に居住したのもこの時のことである

有明山構居跡

「地蔵院」とも称し、黒田職隆(もとたか)の弟(高友)が「安芸法印休無(きゅうむ)」(休夢)と名乗って、ここを姫路城の北の守りとしていた

ピークの木に赤テープ

天正元年(1573)8月12日、三木の別所長治800騎が増位山を襲い、寺を破却、随願寺僧侶ら200余人が嵐山(現在の景福寺山)に避難した

和歌や茶にも秀でた休夢は後にお伽衆として豊臣秀吉に仕えている

有明山構居跡はこの上で、東西30m、南北18mの削平地、東、南、西の三方に堀、西に土塁が残る

森林浴

高木樫の木