宇佐八幡 薬園新宮 勧請す

薬園八幡神社

薬園八幡神社は奈良時代(710年~794年)の749年(天平勝宝元年)に宮中に仕える大宮人の為に造られた薬園(薬草園)があった塩庄(塩町の御旅所)に創建されたと言われています

「続日本紀」によると藤原広嗣の乱の平定と第45代・聖武天皇の病気平癒祈願、更に大仏造立に協力する神として、大分・宇佐八幡宮から八幡大神が勧請され、

平城京九条大路の南、梨原宮の薬園新宮内に建てられた神殿に祀られ、7日の悔過行(けかぎょう)が行われました

その後八幡大神は東大寺(手向山八幡宮)に遷されたが、薬園新宮内の神殿でも祀り、薬園八幡神社の起源になったと言われています

その後東大寺領薬園荘の守護神とされ、郡山城が築城された際に現在の場所に移されました

ちなみに郡山城は平安時代(794年~1185年)後期の1162年(応保2年)に郡山衆が雁陣の城を築いたのが起源とも言われ、その後筒井順慶・豊臣秀長・増田長盛などが入城した際に改修されたと言われています

なお薬園八幡神社は誉田別命(ほんだわけのみこと)・息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)を祭神として祀っています。薬園八幡神社は地元で「やこうさん」と呼ばれています 

摩尼山は 因幡天台 拠点なり

南面し、桁行三間梁間四間、入母屋造桟瓦葺で正面に千鳥破風を飾り、軒唐破風付の一間向拝を付す

正面一間を外陣とし、堂内後寄りに仏壇を据えて内陣を広くとる

向拝や内外陣境、仏壇廻りは龍や鳥獣、雲や波形の彫刻で高密度に飾り、時代的特徴を良く示す

縁起書によれば、天正9年(1581)羽柴秀吉が鳥取城渇殺に伴い魔尼山を焼き討ちし、戦火で荒廃した境内を元和3年(1617)池田光政が再興したとする

2010年の発掘調査では上層整地土最下層から15~16世紀の備前焼や青磁香炉などが出土している

摩尼山は久松山から距離は近く、因幡国天台宗の拠点であった

阿部恭庵「因幡志」は「秀吉公這回寺を焼払い玉ひしは今の摩尼寺にはあらず、奥の院の谷にありしを焼き討ちせられたるにて後に今の境内再興したるなり」と記している

秀吉が焼き討ちした摩尼寺は山頂に近い「奥の院」にあったとみている

2013年より山麓の境内構造物の調査に移行いたところ、前住職が病気と高齢を理由に引退を宣言したため調査は中断された

2014年より大雲院住職の兼務寺となっている

本堂・山門・庫裏・善光寺如来堂・三祖堂・閻魔堂・仁王門の調査を終えている

寺は無住になってしまったが、傷みが激しく早急の保全対策を講じる必要があり、登録文化財・登録記念物に向けての活動に着手する必要がある

この素晴らしい歴史と文化が後世に遺されることを切に願いたい

祭り囃し 熱い思いが 込み上げた

29日キリコ興し

尊利地浜集会所広場

シャギリ(鉦)

初めて叩いたのは小学校入学前

ボンボリ

上ダシ・白山宮

中ダシ「浮き字」

篤友恭「友は恭しく篤い」

2016年水無月祭りで使用した提灯

奉納絵馬「地球平和を見守る龍」

倒壊した拝殿から無傷で救出された

倉庫が手狭なため、神輿とキリコ2本は処分された

昭和30年代に大阪在住の天野さん(集落出身)が寄贈したキリコ

二重災害を乗り越えた住宅

浜田区長夫妻

白山神社で憩う女性