九鬼氏の祖 藤原氏とあり 九木に住む
旧九鬼家住宅主屋1階は、壁が漆喰と板張りで仕上げられており、格子戸や障子が嵌められた和風様式で、2階は壁が漆喰で仕上げられ、窓は鎧窓という洋風の造りになっている
山の九鬼・海の九鬼
鎌倉時代には志摩国の荘園として九木荘があった
九鬼水軍で知られる九鬼氏の発祥地であり、初代・藤原隆信は北朝の攻撃を受けて伊勢国佐倉(現・四日市市)から当地に移り、当地の地名を取って九鬼氏を名乗ったとする説がある
隆信の代から九鬼水軍はあり、熊野灘で海賊行為をしていたが、3代・隆房の次男・隆良が波切(現・志摩市大王町波切)に進出し、城砦を築いた
戦国時代には九鬼嘉隆が戦国大名に成長して鳥羽城主となった
江戸時代には紀伊国牟婁郡に属しており、紀州藩領の尾鷲組に区分されていた
九鬼漁港は天然の良港であり、風待ちのために諸国の廻船が入港した
天保10年(1839年)完成の『紀伊風土記』には、「本国三の大湊ありて是其一なり。諸国廻船常に茲に停泊して最繁昌なり」と書かれている
天明元年(1781年)から文久元年(1861年)までの間に、幕府領から江戸に送られる御城米船が214艘も九鬼漁港に入港しており、内海屋や播磨屋などの舟宿が17軒あった
九鬼の名前の由来は、熊野灘沿岸には、市木・木本・二木島・三木里など木の付く地名が続いており、修験者が九番目に開いた修験道の地を意味するのではないかという説がある
波切砦よ呼ばれる九鬼城が存在した
能登宮 古代能登人が 住んだ土地
等彌(とみ)神社 能登の宮とも 呼ばれけり・・・幸師
延喜式神名帳に掲載されている大和国城上郡等彌神社
明治時代までは能登宮と呼ばれていました
第62回式年遷宮
伊勢神宮から移築した鳥居
創建年代は不詳であるが、社伝によると当社は古より鳥見山に鎮座していたとされる
鳥見山は初代天皇である神武天皇が、即位後の神武天皇4年春2月に皇祖神及び天津神を祀った場所である霊畤(まつりにわ)と伝えられる
意富加牟豆美命(おほかむづみのみこと)
桃の神様として知られる
神武天皇ゆかりの地として観光スポットにもなっている等彌神社ですが、桃で思い出すのが卑弥呼で話題の纒向遺跡です
祭祀に使われたのではないかとされる木製仮面や大量の桃の種が、纒向遺跡から出土しています
豊かな社叢
日本の国土と、神話に登場する数多くの神々を生んだ夫婦神といえば、伊邪那伎命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)です
そして、桃の実に「意富加牟豆美命」という名前を授けたのは伊邪那伎命だと言われます
即位後初めて皇祖天神を祀ったという日本書記の記述から大嘗会の起源であり、初の舞台ともされている
万葉集巻8-1549 紀朝臣鹿人 歌碑
射目(いめ)立てて 跡見(とみ)の岳邊の
なでしこの花 総手折り
われは行きなむ 奈良人のため
神宮大宮司 二條弼基書
跡見の丘のナデシコの花よ。その花をたくさん手折って私は持って行こう。奈良にいる人のために。 ここで歌われている「跡見の丘」は桜井市・外山・忍阪・浅古に囲まれた「鳥見山」とされている



































