材木は 浜から祖父が 担ぎ上げ

庭のコンクリート平面が北に下がった

祖父が浜から全て担ぎ上げた材木

増築した台所を切り離し残した

子供の頃にも大きな地震があった

地震にも大雪にも耐えた

一つひとつ村人の人力によって積み上げられた

解体は重機で一瞬

納戸の2階に米貯蔵庫

雲間に月夜

祖父が見つめているようだ

火伏の神 愛宕神社を 勧請す

愛宕神社

祭神は火之迦具士命

主要な建物は社殿・拝殿・参籠舎・神輿庫などです

名張の町をことごとく焼き尽くした宝永の大火から、火伏せの神である愛宕神社への信仰が高まりました

毎年7月24日以降直近の土曜日は愛宕の火祭りと名張川納涼花火大会が盛大に行われ、大勢の人で賑わいます

寛政、文化、天保、数度にわたり遷宮・修復を重ねてきた

昭和24年台風水害のため新町橋流出、架け替えにあたり神域狭隘、かつ低地となり現在の景勝の地に鎮座した

氏子さんたちが正月の準備をされていました<m(__)m>

不老不死の 霊薬求めて 数千人

徐福公園伝承によると、徐福は秦の始皇帝に東方にある蓬莱・方丈・瀛州に不老不死の霊薬があると具申し、命を受けて財宝と共に数千人を従えて秦から東方に船出したという

その一つ蓬莱に当たるのがここ新宮とされていて、徐福はその後新宮に住み着いたという

霊峰・千穂ケ峰

ここに住み着いた徐福とその従者たちは大陸からの文化や農耕、捕鯨や漁業に関する技術を新宮の人々に伝え、ここ新宮の地で歿したと伝わる

この公園にある徐福の墓は、江戸時代の元文元年(1736)に建立されたもので、紀州藩初代藩主である徳川頼宣が儒臣の李梅渓に「秦徐福之墓」の文字を書かせたものと伝えられる

また、佐藤春夫の作詞で昭和26年(1951)に制定された「新宮市歌」では、1番に「徐福もこゝに来たりとか」と歌われている

黒潮めぐる紀の南 熊野の都新宮市
自由と真理 健康を 蓬莱なりとその昔
徐福もこゝに来たりとか 山紫に水明(きよ)く
人朗らかに情あり

かつてこの近くに北斗七星の形に造られていた7つの塚、七塚があった

これは徐福の7人の主要な従者の墓であるとも徐福が大陸から持参したものをうめた場所であるともいわれており、七塚の碑はこれを記念するため大正4年に熊野地青年会が建立したものである

徐福の墓の脇には、徐福の求めた不老不死の霊薬の正体ではないかといわれる天台烏薬の木が植えられている

公園の中には他にも新宮徐福協会による観光案内所を兼ねた「徐福売店」があり徐福や新宮市にまつわる様々なもの、「徐福茶」や「徐福ロマン」なる酒などを販売していている

毎年8月12日にはこの徐福公園で徐福を供養するための万燈祭が行われる

毎年8月8日に新宮市内の熊野川で行われる「新宮花火大会」も徐福を偲んだものである