高吉は 名君の誉れ 名張宗家

浄土宗心光山松壽院「西方寺」

御本尊:阿弥陀如来

寛永3年(1626)頃、藤堂高吉公が伊予の今治より名張に移封の際に、その妻 慶法院殿、重臣 小澤家を始め30余家が菩提寺と定めて堂宇を現在地に移転しました

中興開山は還誉上人代(2世)7世園誉上人の時、12世説誉上人の時に堂宇が再建され現在に至ります

 

名張市指定文化財として「キリシタン文書」があります

名張藤堂氏の祖・藤堂高吉は、津初代藩主藤堂高虎の養子であったが、当初後継者と目されていたが、高虎に実子・高次が生まれると、高吉は疎んぜられるようになり、高次の命で
名張に領地を与えられ名張藤堂氏が始まった

高吉は名張の振興を図り、名君と呼ばれた

その高吉の側室が慶法院で、名張藤堂2代目長正は慶法院の子

紀元前 大陸から 3000人

約2200年前、徐福は霊薬を求めて渡来しました

3000人の童男童女を連れ渡来し、この地に自生する「天台烏薬(てんだいうやく) 」を発見しました

しかし気候温暖、風光明媚なこの土地に魅かれ、ついに永住の地と定め、農耕・漁法・捕鯨などの技術を伝えました

徐福は斉(中国)の出身で、秦の始皇帝に方士(仙術者)として仕えた

紀元前3世紀に始皇帝の命令で、不老長寿の霊薬を求めて、熊野に渡来したと伝えられている

この時徐福は数千人の童男童女、金銀珠玉、五穀、器財とともに、蓬莱という島に向かって船出し、現在の阿須賀神社のあたりに上陸した

その背後の蓬莱山には、徐福が採取したという「天台烏薬」とよばれる薬草が生育している

熊野地1丁目1番地

千穂ケ峰

材木は 浜から祖父が 担ぎ上げ

庭のコンクリート平面が北に下がった

祖父が浜から全て担ぎ上げた材木

増築した台所を切り離し残した

子供の頃にも大きな地震があった

地震にも大雪にも耐えた

一つひとつ村人の人力によって積み上げられた

解体は重機で一瞬

納戸の2階に米貯蔵庫

雲間に月夜

祖父が見つめているようだ