多紀連山 郷土の誇り 聳え立つ

八幡神社社叢

音羽谷川堰堤

上流に音羽の滝がある

杉林

火とぼし山登山口

音羽谷入口

大沢ロマンの森

八幡神社擁壁

禄庄城址山

第二次丹波攻めの様子

光秀シリーズで登った山々

篠山ロータリークラブ記念事業碑

多紀連山、三岳連峰は篠山盆地の護りのように屹然と聳え立つ、わが郷土のシンボル

火の見櫓 城下町の 見守り塔

郡山の火見櫓

1680年(延宝8年)に城下町の大半を焼き尽くす「延宝の大火」が発生しました。この大火を教訓に、当時の藩主・本多忠平によって城下町の要所4か所に設けられたのが「火見櫓」の始まり

現在の櫓は当時の姿を再現した復元建築ですが、下部は今も消防団の詰所として利用されています

延宝の大火を経験した城下町では、防火体制の強化も重要な役割だったと伝えられています

景観建築賞中村酒造

平成2年第2回景観美観賞奨励賞
 

 

 

「箱本十三町」は、郡山城外堀の内側にある十三町内から成り、当番制の自治組織で、当番の町は特許状の入った朱印箱を置き、「箱本」と染めぬいた小旗を立て、一か月全町の治安・消火・天馬の世話をしたという

郡山は秀長の職人保護政策により、南都(奈良)と並ぶ大和の酒造業の中心となった。秀長の頃から江戸時代にかけて、郡山に酒造業者は30前後あったが、明治以降は衰退が著しく、この中村酒造は郡山最後の酒造業者であった。屋号を「セキヤ」といい200年以上の伝統を誇った

夢現地蔵菩薩

良玄禅寺

江戸時代初期に郡山城主となった本多政勝の菩提

明治3年長崎浦上から86名のキリシタンが流配(流罪)され収容された

浦上四番崩れ:慶応3年(1867)隠れキリシタンとして信仰を守り続け、キリスト教信仰を表明した浦上村の村民たちが江戸幕府の指令により、大量に捕縛されて拷問を受けた。間もなく江戸幕府は瓦解するが、幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府の手によって村民たちは流罪とされた
 

古刹魔尼寺 昔の光り 今何処 

天台宗安楽律法流の寺

山号は喜見山(きけんざん)

古来より信仰の対象として崇められてきた摩尼山の山頂付近に開創された古刹であり、山頂の立岩は帝釈天降臨の霊地とされている

寺に伝わる『摩尼寺帝釈天王縁起』(弘化3年・1846年筆写)によれば、平安時代の初め頃、高草郡の産見(うぶみ)長者が喜見山(摩尼山)に登ると、立岩に帝釈天が降臨し、

「今よりこの峰に鎮座して衆生を救い、なかんずく五障の身である女人を済度しよう」と告げた

長者はこの地に精舎を建て、それを承和年間(834年頃)、円仁(慈覚大師)が再興したのが摩尼寺の起こりであるという

寺はその後中腹に遷移、さらに豊臣秀吉の焼き討ちに遭い荒廃していた寺を、江戸時代初期に池田光仲・光政によって、鳥取城の鬼門にあたる現在の山裾に再建されたものである

帝釈天降臨伝説や継子落しの滝の伝説は、地形や古い地名から考察すると、元は山筋を隔てた円護寺方面に纏わる伝説であったのを、

江戸期から第二次世界大戦前にかけて隆盛を極めた摩尼寺の伝説として伝えられるようになったものとする説が存在する

麓から仁王門を経て本堂まで303段の石段が大正元年(1912)に敷かれた

石段脇には石塔が列していたが、昭和18年鳥取大震災で倒壊した 

また境内から帝釈天降臨伝説の立岩(鐘楼・三祖堂跡)、奥の院(洞穴)、賽の河原(楼門跡)へ至る山道が整備されている現在、奥の院の寺跡が調査研究されている

現在、奥の院の寺跡が調査研究されている