伊射奈岐社 崇神帝御代 創建

崇神天皇陵西側の天神山古墳西側に鎮座

本来は東方の「ノゾキ」と称するところにあったそうです

創建・由緒は詳らかではありません。社伝によれば崇神天皇の御代に創建したと伝えられています

当元々は現在地の東方500mほど、崇神天皇陵(行燈山古墳)の後円部の南東側、櫛山古墳前方部南側の地尊池西側の「ノゾキ」と呼ばれる小字にあった

寛永十八年(1641年)に二代目柳本藩主が現在地に遷座したと言われています

柳本藩主の織田氏は殊更に当社を殊更に崇敬し、柳本の総鎮守としてのみならず、柳本藩社として庇護しました

現在は御祭神として「伊奘諾命」「伊奘冉命」の二柱を祀っていますが、江戸時代以前は「楊本天満宮」と呼ばれ、「菅原道真公」と「法性房」(道真の仏学の師とされる天台宗の僧)が祀られる天神信仰の神社でした

大正三年(1914年)刊行の地誌『大和志料』によれば、当社には古くて朽ちているものの衣冠束帯と僧形の二躯の神像が伝わっており、

前者は道真公、後者は法性房と伝えられるとする一方、当社の神官は前者を伊射奈岐神、後者を伊射奈美神として社名も「伊射奈岐神社」に変更したが謂れは無いとしています

当時の神官がそのように主張した根拠は不明ですが、式内社「伊射奈岐神社」は現在も一般に当社であるとされています

江戸時代中期の地誌『大和志』は式内社「伊射奈岐神社」の所在は不明としつつも或いは柳本村の「三輪祠」だとしています

現存しない神社なので不詳ですが、柳本に式内社「伊射奈岐神社」があったとする何らかの伝承があったのでしょうか

延喜式』神名帳を見ると、「イザナギ」と名乗る式内社は大和国に三社、摂津国に一社、伊勢国に一社、若狭国に一社、淡路国に一社、阿波国に一社の計八社があり、畿内とその周辺にまとまって鎮座しています

イザナギ・イザナミの二神は記紀神話において「国産み」という極めて重大な役目を負っており、

さらにイザナギはアマテラス、ツキヨミ、スサノオの「三貴子」の誕生に関わるなど、指折りの重要な神として描かれています

かしイザナギ・イザナミの二神は元は淡路島を中心とする海人の信仰したローカルな神で、これが神話に取り入れられたとする説があります

元はそうした海人が海を離れ、大和国における陸の拠点の一つとして祀ったのが式内社「伊射奈岐神社」だったのかもしれません

興福寺 同門同士(義昭・順慶) 手を結ぶ

永禄11年(1568)義昭幕府が成立

久秀の娘と信長の嫡男信忠が祝言・・・初耳

付藻茄子を進呈

極楽橋

順慶の降伏は拒否され筒井城から没落

元亀元年(1570)三好三人衆・本願寺・朝倉氏・浅井氏・六角氏・延暦寺が蜂起

足利義昭は順慶を調略、松永久秀が三人衆方へ、順慶が辰市の戦いで勝利し城を奪還

天守台

将軍義昭の凋落

元亀4年・天正元年(1573)義昭・久秀・朝倉氏・本願寺・武田氏VS信長

「尋憲記」:筒井陽舜 順慶(中略)当国ノ表

「多聞山方」に「中坊飛騨・古市・布施・万歳・鷹田・楢原・龍王+市山城、楊本、細井戸、山田、秋山、柳生、狭川、簀川、仁木」

義昭が槙島城を退去

久秀も多聞山城を明け渡す

順慶は母を人質として信長に提出

天正2年(1574)順慶が岐阜で年頭の挨拶、信長の親戚と祝言、久秀は出家し「道意」

高麗僧 慧便に命じ 開基する

増位山梅林、害獣防止柵

害虫に侵されて伐採されています

根っこも掘り起こされている

本数は疎ら

森は豊か

こちらは大丈夫の様です

『播州増位山随願寺集記』(乾元元年・1302年成立)所収の寺伝によれば、厩戸皇子(聖徳太子)が高麗僧の慧便(えべん)に命じ開基した増位寺が前身であり、後に行基によって中興されたという

放生池

放生池

記念碑

碑文

増位山虚無僧の碑