要城 3氏が争奪 した城

秀吉が城番をしていた横山城

ササユリが咲いていた

永禄4年(1561)、浅井長政が対六角氏用の防衛拠点として築城させた。城主には一門の浅井井演を任命した

浅井氏は勢力を伸張して坂田郡から犬上郡まで勢力を広げるが、元亀元年(1570年)、織田信長と交戦状態になり、再び横山城の重要性が高まった

横山城は美濃の関ヶ原から浅井氏の本拠地である小谷城の西側を通る北陸脇往還街道のすぐ脇に立地するうえに、小谷城から6-7kmほどの距離しかないため、信長は重要な前線基地として横山城の攻略を目指した

姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破った信長はすぐさま横山城の攻略に着手、時の城主三田村国定は降伏し、落城した

信長は城番として木下秀吉を任命

秀吉はここを拠点として浅井氏攻略を行った

天正元年(1573年)9月に浅井氏が滅亡すると、秀吉は浅井郡・坂田郡の支配権を与えられ、本拠地として長浜城を築城、横山城は廃城となった

美濃・近江国境の防衛線を突破した織田軍は、浅井氏の本城である小谷城との分断を目的に横山城を包囲

木下藤吉郎秀吉・柴田勝家・池田輝政らの攻撃により横山城将の大野木土佐守は開城・逃亡し、信長は秀吉を横山城の城番として配置しました

翌1571年(元亀2年)には浅井長政の箕浦城攻めに対応すべく、竹中重治(半兵衛)を横山城の守備として秀吉自らが100騎あまりを率いて出兵

同年8月には大風が吹き、塀や矢倉が損壊するという被害をこうむっています

九鬼家家老 養子となり 家督継ぐ

明治初期に建てられた全国でも数少ない「擬洋風建築」の建物です

兵庫県指定重要有形文化財に指定されています

2階は通常非公開ですが、年間約6回特別公開を行っています

九鬼隆範(りゅうはん)の足跡

九鬼隆範は天保6年(1835年)三田藩の鉄砲隊長を務めた越賀六兵衛隆影の三男として三田屋敷町に生まれる。幼名範三郎のち範三 

藩校造士館で学び、嘉永6年(1853年)には伊豆韮山の江川太郎左衛門(幕府の砲術師範)に入門し、砲術、用兵学を学ぶ 

元治元年(1864年)に勝海舟が開いた海軍塾に入り、佐藤政養(与之助)に指導を受ける。佐藤は西洋砲術と測量術を学び、のちに「日本鉄道測量の父」と言われた人で、佐藤との出会いにより隆範の一生に大きな影響を受ける 

明治3年(1870年)三田藩家老九鬼伊織(隆継)の長女やすと結婚し、家督相続の養子になる

明治3年(1870年)に佐藤政養に従って日本鉄道局に入り、日本で初めての新橋-横浜間の鉄道建設の測量や設計に携わる。明治5年(1872年)に新橋・横浜間が開業した 

明治7年(1874年)には大阪・神戸間の開業に携わる 

明治9年(1876年)頃、三田屋敷町に旧九鬼家住宅を建てる 

以降、長浜-敦賀港間や東京・髙﨑・前橋間など数多くの鉄道の測量や設計に従事し、明治26年(1893年)に鉄道局を定年退職(59歳) 

その後、日本鉄道会社に勤めるが、明治35年(1902年)頃、三田に戻る

 明治41年(1908年)三田にて永眠

河西は 古代能登人が 住んだ町

タブノキ?

岩を包み込むように立っている

急な階段

今も末裔が住む

山全体に石仏を配置

ご利益がありそうな石段

お稲荷さん

谷東へ下りる

鳥見山、河西地区

山裾を流れる小川

金光教桜井教会

母が若い頃信仰していた

磐余山