崇神帝 ヤマト王権 基盤成す

崇神天皇 山辺道勾岡上陵 拝所

第10代崇神天皇

日本書紀での名は、御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)

全国では第16位の規模の古墳で、4世紀前半頃(古墳時代前期前期)の築造と推定される

祭祀、軍事、内政においてヤマト王権国家の基盤を整えたとされる

実在が確認できる最初の天皇とされ、(御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)の名も伝わる

考古学上、治世時期は3世紀後半から4世紀前半と推定されるが、近年発掘の進む纏向遺跡との関係からその存在に注目が高まっている天皇の一人である

稚日本根子彦大日日天皇(開化天皇)の第二皇子。19歳で皇太子となる

母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)で後の物部氏の系譜に連なる

異母兄に彦湯産隅命(迦具夜比売命の祖)

異父兄に彦太忍信命(磐之媛の祖)

異母弟に彦坐王(神功皇后の祖)

古事記は同母妹として后と同名の御真津比売命を記す

父帝が崩御した翌年の1月13日に即位

2月16日に従妹の御間城姫を皇后とし、活目尊(後の垂仁天の)や倭彦命らを得た

即位3年、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に都を移した

即位5年から7年にかけて疫病が流行したが、大物主神などの神々を祀ることで治めた

即位10年、武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の反乱を鎮め、四道将軍を各地に派遣した

即位12年に戸口を調査して初めて課役を科したことで御肇国天皇と称えられている

即位65年、任那から朝貢があった

即位68年、崩御

天守台 大和一望 国治め

逸話三悪:将軍足利義輝を暗殺、主君三好長慶を謀殺、大仏殿を討したのか?

※他の二人は、斎藤道三・北条早雲

郡山城址会館

「言継卿記」「柳生文書」「多聞紀日記」にとるとウソ

久秀の出世

大阪府高槻市の地侍から三好長慶に登用、外交などで手腕(村住民の10~15%がサムライ)

本国寺(日蓮宗)の大旦那、毘沙門天(多聞天)を信仰

若草山・春日山

従四位下、桐御紋など主家や将軍家並待遇

柳沢神社本殿

柳生宗巌を登用、妻広橋保子の兄弟と修南院・松林院・東北院や法隆寺の人脈

天守台から西方

林宗二に奈良における饅頭屋の専売権、松屋久政と茶会

御神木・大クスノキ

多聞山城(奈良市指定文化財)を築城

柳生文書では体阿弥や狩野氏が動員、多門院日記、四階ヤクラ

永禄8年(1565)三好義継が将軍義輝を殺害、しかし家臣団が分裂

柳沢神社本殿

松永久秀・久通+織田信長、足利義昭

三好三人衆+筒井順慶(筒井城を奪還1566、藤政から得度し順慶)、足利義栄

柳沢神社瓦屋根

故夫人 藤原氏之墓 表示され

随願寺・榊原政邦・光夫妻墓所

越後村上藩第2代藩主、播磨姫路藩主(榊原家6代当主)

榊原政邦は宝永元年(1704)に村上藩(新潟県村上市)から姫路藩に入封しました

政邦は藩政改革に尽力する一方で領民の道徳と倹約を奨励する「読書条目」を発布し名君として讃えられました

又、宝永4年(1707)に駿府城(静岡県静岡市)修築工事を担当するなどの功績もあり従四位下に列しています

享保11年(1726)、52歳で死去すると遺言により増位山に葬られ、享保14年(1729)に江戸で死去した光夫人も遺言により同所に葬られました

榊原政邦と夫人の墓は昭和61年に姫路市指定史跡に指定されています

光夫人の父は鍋島光茂公

分家の旗本榊原家の榊原勝政(榊原康勝の庶子。1,000石)の子の榊原勝直(1,000石)の長男として誕生する

若くして嗣子なく没した榊原本家の政倫の養嗣子となり、越後村上藩を相続、その後に姫路藩に転封となる

榊原政邦およびその正室と側室実相院の墓は、随願寺にある

政邦と正室の希望によりここに葬られ、また実相院の墓もあり、実相院の墓は夫人病治癒祈願の墓としても祀られている

享保11年(1726) - 死去、享年52

巨樹が菩提を見守っている

樫の木かな?