猛暑日や 丹波に峰に 涼し風・・・幸師

室町幕府の支配が揺らぎ始めて、下克上の風潮が全国に広がり、丹波の地がそのうねりに飲み込まれようとしていたころのはなしです
火とぼし山から禄庄・大沢城址がある山

古市地区の西方の神内村(みうちむら現在の見内)に、式内社「に尊神社」(現在の二村神社)が祀られていました

大沢八幡神社分岐

この神社の氏子は現在の今田町、古市、真南条、大沢地域、大山、南河内、北河内という広い範囲にまたがっていました

佐幾山城址へのバリルート

祭礼ともなると、遠くの村々からも参拝者が集まり、特に9月9日(重陽の節句)に執り行われる秋の例祭は非常に盛大なものでした

祭りの準備は、各村が順番で持ちまわっていましたが、大変な苦労が伴うものなのか、遠くの村が当番んにあたったときはいつも不平不満の声が出ていました

京都の音羽山になぞらえて付けられた音羽山

祭りの当日は、各村の名主が神殿に列して神事を執り行うのですが、神内(みうち現在の見内)の名主は神社鎮座地の名主ということで、一番上座に列し、次に各村の名主が座するのがならわい(方言、ならわしの意)となっていました

篠山盆地

名主は百姓であるとともに、何人かの下人を持つ武士でした

本日の最高峰

彼らは神社への年貢や人足集めなどを受け持っていたのですが、大所帯の村の名主ほど自分達は神内より多くの負担をしているのに、上座に座ることが出来ないと不満に思っていました

ここにショルダーバックを忘れた(>_<)

世の中が平穏なときは、直会(なおらい神事の後の酒宴)の席で、「どうしてか神内の名主がいつも上座に着いているのだ

夫婦杉

俺達だって・・・」と不平ごとを言う程度で済んでいましたが、世の中が騒々しくなってくると、広い地域を治め多くの戸数を支配する名主たちの間には、自分が一番の上座についてもいいはずだとの思いがだんだん強くなってきました

文明14年(1482年)秋の例祭には、そういった日ごろの思いが頂点に達し、直会の半ば、濁り酒に心地よく酔いしれたころ、またもや席順について口論が始まりました

ヤマモミジの名勝・音羽

住職 歴史を繋ぐ 役目あり

春岳院第27代住職・薮中真弘師

高野山真言宗・如意山「春岳院」

本尊は阿弥陀如来

 

創建年代、開基は不明だが、鎌倉時代の石造塔が現存することから鎌倉時代中期に創建されたとする説がある

当初は「東光院」と称したが、豊臣秀長の菩提寺となって以降は、その戒名(大光院殿前亜相春岳紹栄大居士)から春岳院と号するようになる

確か石塔に聖武天皇勅願の文字があったので奈良時代に存在していたのかも

元禄12年(1699)1月26日の郡山大火から類焼

その後宝永8年(1711)に再建された護摩堂が本堂として現在残っている

各種切り絵授与料1200円

七重石造塔

聖武天皇の祈願造立との言い伝えが残る

『豊臣兄弟!』の放送を見据え、築315年の建物を今年1月に改修した

堂内には、本尊の阿弥陀如来(室町時代)をはじめ、足利尊氏の持念仏と伝わる千手観音や密教諸仏が安置される

秀長肖像画:落款印より狩野派絵師・梅軒員信の作

天明8年(1788)藩主柳沢保光が200回忌を執り行った際に新調されたものと考えられている

秀長の位牌、秀長像、肖像画、藩主伝記、『箱渡し日記』、それら古文書を納めた御朱印箱がある

秀長に取り立てられた藤堂高虎は、祭祀が疎かになることを憂え、大光院を京都大徳寺の塔頭へ移した
 

その際、秀長の位牌が託され、大納言塚の管理も委ねられたのが東光院だった

生誕400回忌を記念して造られたという木造の秀長像

里山は 自然と人の 支え合い

牛ケ首への分岐

急坂とのことで回避

殆どの松が枯れていた

このまま放置したら全滅かも

大谷分岐から網代港

昔は松茸山だった?

大谷分岐から300m下りた分岐

山頂稜線分岐から下りてくるとここに至る

往路では気が付かなかった

ほぼバリルートですね

牛ケ首分岐

通行止めです

凝灰岩

畑跡

沢谷

昔農夫さんが歩いた道

今は整備されているが昔は危険だっただろう