里山は 自然と人の 支え合い

牛ケ首への分岐

急坂とのことで回避

殆どの松が枯れていた

このまま放置したら全滅かも

大谷分岐から網代港

昔は松茸山だった?

大谷分岐から300m下りた分岐

山頂稜線分岐から下りてくるとここに至る

往路では気が付かなかった

ほぼバリルートですね

牛ケ首分岐

通行止めです

凝灰岩

畑跡

沢谷

昔農夫さんが歩いた道

今は整備されているが昔は危険だっただろう

火灯し山 船航行の 目じるし山

禄庄城:標高326mにある。酒井の家老杉本の塁とされている。8間四方の本丸、段、大手門、深さ1間の堀切り、出丸などで構成されていた。杉本の屋敷、家来屋敷なども構えていたといわれる

大沢城:標高442mの奥谷山頂にある。承久の乱により相模から進出した東国武士が戦に陣取った

城主郭の 南北にそれぞれ一つの郭を配し、東に門を構え、門下にさらに郭を設置

南北に掘り切り、門跡の平地から2~3m急斜面を登ると郭が西に向かって連なり、帯曲輪が郭を取り巻いている

尾根の北と南は急斜面で敵の侵入を防ぐようになっている

明智の丹波攻めの際、敵侵入を滑落させて防ぐために急斜面に敷き詰めた竹の皮に火が放たれ、焼失落城したと伝えられる

佐幾山城:北東からの攻撃に備えた出城とされる

中世の3山城を巡る遊歩道が「中世ロマンコース」として整備されている山

頂からの眺望は絶景。3城は尾根伝いに連なっている。昔日の湖沼干拓の歴史が一望できる

戦国の世に因州から進出した波多野の居城「八上城」が霧梅に浮かぶ。眼下に大沢自治会の区域が一望できる

少し足を伸ばし、湖沼時代の舟運の目印になったといわれる「火灯しし山」(ひとぼしやま)山頂から分岐して西に向かうと、渓流の流れに沿って林間を縫うように進むなだらかなコースもあり、途中「音羽の滝」の美しい姿に出会うことが出来る

短期間で 政策打ち出し 統治する

豊臣政権による大規模国替え

1585年筒井定次は伊賀へ移封

郡山には、大和・紀伊・和泉を領する秀長が、興福寺の影響下にない統治者として入城

信長が敦盛を舞う際に使った扇

奈良から7km南西の場所

城郭中心部は丘陵上、城下町は低地に位置する平山城

奈良、さらに奈良盆地を見渡すことが出来る立地

1588年箱本十三町が成立

三重の堀に囲まれた奏構えの構造、8つの虎口

中心部ほど古い石垣が残る傾向

転用石材の多用、石材徴収の記録

天守の礎石、追手向櫓の礎石、三ノ丸礎石建物など整備造成

郡山の振興、奈良の締め付け

1585年奈良での商売を禁止

1587年奈良・郡山での公事座の廃止

奈良借の実施

郡山町中(十三町)に屋地子の免除

箱本制度発足

関ヶ原後、増田長盛は高野山に追放

城番がおかれるも荒廃したとされる

城下町は健在だった模様

その後、大坂夏の陣の戦功で水野勝成が入城し城の復興に着手

以後、郡山藩には徳川譜代大名が幕末まで入城し、畿内の要所として役割を果たす

箱本制度は江戸時代も継続され、18世紀には秀長の墓所を菩提寺の春岳院と町中が協力して整備

秀長は短期間に、寺社権力の廃止、天下統一の拠点として郡山城整備、箱本制度などの政策を打ち出し、時代が変わっても継続されている

1588年、徳川家康、毛利輝元、小早川隆景、吉川元春らが来訪しています