短期間で 政策打ち出し 統治する

豊臣政権による大規模国替え

1585年筒井定次は伊賀へ移封

郡山には、大和・紀伊・和泉を領する秀長が、興福寺の影響下にない統治者として入城

信長が敦盛を舞う際に使った扇

奈良から7km南西の場所

城郭中心部は丘陵上、城下町は低地に位置する平山城

奈良、さらに奈良盆地を見渡すことが出来る立地

1588年箱本十三町が成立

三重の堀に囲まれた奏構えの構造、8つの虎口

中心部ほど古い石垣が残る傾向

転用石材の多用、石材徴収の記録

天守の礎石、追手向櫓の礎石、三ノ丸礎石建物など整備造成

郡山の振興、奈良の締め付け

1585年奈良での商売を禁止

1587年奈良・郡山での公事座の廃止

奈良借の実施

郡山町中(十三町)に屋地子の免除

箱本制度発足

関ヶ原後、増田長盛は高野山に追放

城番がおかれるも荒廃したとされる

城下町は健在だった模様

その後、大坂夏の陣の戦功で水野勝成が入城し城の復興に着手

以後、郡山藩には徳川譜代大名が幕末まで入城し、畿内の要所として役割を果たす

箱本制度は江戸時代も継続され、18世紀には秀長の墓所を菩提寺の春岳院と町中が協力して整備

秀長は短期間に、寺社権力の廃止、天下統一の拠点として郡山城整備、箱本制度などの政策を打ち出し、時代が変わっても継続されている

1588年、徳川家康、毛利輝元、小早川隆景、吉川元春らが来訪しています