小牧山 岐阜城攻める 前線基地

小牧山築城以前は尾張村を開拓した尾張氏の地であった

元々天照国照の神聖な場であった事が確認されている

現代の発掘結果等から、寺院などの宗教関係の施設も存在していたと考えられている

また間々観音に残る縁起(寺院の沿革)では、「元は小牧山に寺院(間々観音)があったが、織田信長の命によって、現在の地に移設された」とある

また、間々観音は正式には「飛車山龍音寺」であるが、この「飛車(ひくま)山」は小牧山の古い呼び名のひとつであるとされる

信長は、永禄3年5月19日の桶狭間の戦いに勝利した後、念願の美濃国併呑を実現すべく、早くもその3ヶ月後から美濃攻めを開始した

永禄5年には徳川家康と清須城においていわゆる清州同盟を結び、尾張国東側の脅威が消滅した

これによって、信長は全力で美濃国を攻める体制を整えるために、美濃国に近い尾張国北方へ本拠地を前進する策が実施可能となった

この新しい本拠地に選ばれたのが、広大な濃尾平野の中に孤峰を保つ小牧山であった

丹羽長秀を奉行として小牧山山頂に城を築き、永禄6年(1563)7月には主要兵力を小牧山の城に移した

『定光寺年代記』に拠れば城は信長により「火車輪城」と名付けられた

御野立聖蹟

陸軍特別大演習で昭和天皇が統監として行幸なされたことを記念した石碑です

紀伊路歩く(いく) 枝垂桜と 道成寺・・・幸師

天音山「道成寺」本尊は千手観音

新西国三十三箇所第5番札所

道成寺創建にまつわる「髪長姫伝説」(宮子媛)や、能、歌舞伎、浄瑠璃の演目として名高い「安珍・清姫伝説」で知られる

この伝説は、平安時代中期に編纂された『第二本国法華験記』にすでに見える古い話である

 

拝観の際には縁起堂で「安珍清姫」の絵巻物を見せながらの絵説き説法が行われる

寺伝によると、大宝元年(701)に文武天皇の勅願を受け、義援僧正を開山として紀大臣道成によって建立されたという

別の伝承では文武天皇の夫人で聖武天皇の母にあたる藤原宮子の願いによって文武天皇が創建したともいう(この伝承では宮子は紀伊国の海女であったとする考証もある)

これらの伝承をそのまま信じるわけにはいかないが、当寺境内の発掘調査の結果古代の伽藍跡が検出されており、出土した瓦の年代から8世紀初頭には寺院が存在したことは確実視されている

また、これも発掘調査から8世紀中頃には筑前国観世音寺(大宰府市)型の伽藍であったことも確認されている

昭和60年(1985)に着手した本堂解体修理の際に発見された千手観音像も奈良時代にさかのぼる作である

当寺に残る仏像群は大半が平安時代初期から中期のもので、この頃は寺勢さかんであったと推定される

また、現存する本堂は正平12年(1357)の竣工で、正平14年(1359)には二代目の梵鐘が製作されている

永慶寺 転封に際し 移転され

黄檗宗・龍華山「永慶寺」

大和郡山藩主菩提寺

享保9年(1724年)、甲斐国が幕府の直轄領となり、柳沢家は大和郡山へ転封されました

これにより、永慶寺も現在地に移転することとなりました

ただし、寺領の安堵は得られず、甲府の永慶寺は廃寺となります

吉保夫妻の遺骨は、甲州市の恵林寺へ改葬されました

柳沢吉保とその正室・曽雌定子の坐像が安置されています。これらの像は、木造で彩色が施され、目には玉眼が入れられた精巧な造りとなっており、江戸時代の仏師・大下浄慶(常慶)およびその子である次郎右衛門・杢右衛門によって制作されました

吉保像は黒袍に束帯姿、冠をかぶり笏を持つ格式高い姿で表現され、太刀を帯びています

方、夫人像は五衣・紅袴を身にまとい、右手に横扇を携え、鏡を備えています。両像とも、永慶寺の香厳殿という仏間に安置されています

恵林寺にも吉保像が伝わっており、永慶寺像と様式や大きさが一致していることから、柳沢家の転封に伴い、同一の仏師が一対で製作したと考えられています

永慶寺は、柳沢吉保の信仰と文化への思いが形となって残る貴重な寺院であり、その歴史は甲府から奈良へと時代を超えて継承されてきました

仏像や太刀といった文化財に込められた願い、寺院の移転に込められた歴史の流れを今に伝える場所となっています