小牧山 在城4年 稲葉山へ

陽が落ちる前に小牧山城に登城できた

信長家中の小牧山移転の際のエピソードがある。清須から北方へ移転するという噂が織田家中で囁かれ、誰もが不服に思っていた

そこで信長は一計を案じ、小牧山よりさらに北方の丹羽郡二ノ宮山(現在の愛知県犬山市楽田地区二ノ宮の本宮山)に城を築き移転すると布告した。当然、清須城内は反対一色となった

信長は反対意見が十分に出た頃を見計らい、家中の意見を吟味した結果として、二ノ宮山よりは清洲城に近い小牧山への移転に変更することを申し渡した

すると今度はほとんど反対意見もなく、皆が小牧山への移転に同意したという

この計略は人間心理を巧みに利用したものであり、似たようなエピソードが古今東西に存在するため真偽は不明であるが、文明年間以来、約80年間にわたって守護所として栄え、家臣らが各々の屋敷を持つ清須から他の地へ移ることへの抵抗が大きかったことが推測される

平成22年(2010)の発掘調査により、本丸部分から信長の家臣、佐久間信盛を指す可能性の高い「佐久間」と墨書された石垣の石材が出土した

奉行の丹羽長秀一人が築城の全てを取り仕切ったわけではなく、家臣団にそれぞれ資材調達や作事の分担があったことがわかる

また、信長が家臣を競わせ築城を進めさせたと推測する説がある

従来小牧山城は、後述のように4年間しか使用されなかったため、従来は「美濃攻略のための(土塁などの簡素な作りによる)仮住まいの城」と考えられていたが、平成16年(2004)からの試掘調査で城の主郭の四方を石垣で囲んだ本格的な城であることが判明し、当初信長は長期滞在も考えていた可能性が指摘されている

山麓南側から西側にかけては、清須から移転させた城下町が形成された。移転後、織田軍は小牧山城を本拠地として美濃への侵攻と調略を繰り返し、永禄10年8月15日、美濃斎藤氏の本拠地であった稲葉山城は落城

信長は稲葉山城に拠点を移し城下町の機能を全て移転させたため、小牧山城は約4年間で廃城となった

国宝の 千手観音 秘仏なり

天正13年(1585)には羽柴秀吉による紀州征伐にあって本堂を残して諸堂が焼失し、二代目の梵鐘を奪われている

天正16年(1588)の文書によれば、当時は本堂と鎮守社が残るのみであったという

明暦元年(1655)に紀州藩主徳川頼宣の援助で本堂の屋根葺き替え等の修理が行われ、仁王門、三重塔などの諸堂塔は近世を通じて徐々に整備されていった

創建時は法相宗だったが後に真言宗となり、承応元年(1652)に天台宗に改宗している

昭和53年(1978)以降、数次にわたって発掘調査が行われ、奈良時代の金堂、塔、中門、講堂、回廊の跡が検出された

中門の左右から伸びる回廊は敷地を長方形に囲み、講堂の左右に達していた

回廊で囲まれた伽藍中心部には、東に塔、西に金堂が向き合って位置する筑前国観世音寺型の伽藍であった

現存する仁王門、三重塔、本堂は、それぞれ奈良時代の中門、塔、講堂の跡に建てられている

なお、このような伽藍配置が整ったのは8世紀半ば頃のことで、創建当初(8世紀初頭)は、講堂の位置に寺の中心となる仏堂があり、塔、金堂等は後から整備されたものと推定されている

道成寺本堂には南向き本尊と北向き本尊の2体の千手観音像を安置していた

木造千手観音立像 1躯・木造菩薩立像 2躯(国宝伝月光・月光菩薩)

重要文化財・木造千手観音立像及び木心乾漆千手観音立像

常念仏堂

 

 

秀長公 大和郡山 城主

郡山城 松陰堀跡・石垣

西側の「麒麟曲輪跡」が整備され松陰堀跡の石垣や堀の中も綺麗になってスッキリ、以前は見えなかった「緑曲輪跡」側の石垣が凄く良く見えるようになりました

竹林橋跡から内堀

柳澤神社

月見櫓趾でボランティアさんにガイドをお願いしました

10世紀後半、郡山衆が雁陣の城を築いたという記録が郡山城の初見とされる

奈良時代には薬園が営まれていた

郡山城は、秋篠川と富雄川の中間に突き出た西京丘陵南端上に位置する

平山城として明智光秀や藤堂高虎らが普請に携わり、筒井順慶や羽柴秀長らの主導によって改修された

奈良は良質な石材が乏しかったため、奈良一帯の各戸に五郎太石20荷の提供を義務付け、寺院の石地蔵や墓石、仏塔なども徴発され石垣石として使用された

中には、平城京羅城門のものであるといわれる礎石が使われていたり、8世紀ごろの仏教遺跡である「頭塔」(奈良市)の石仏が郡山城の石垣の中から見つかっている

17世紀初頭、増田長盛が改易された後一時廃城となるが、水野勝成入封時に徳川幕府によって改修を受けた

その後は譜代大名が歴代城主を務め、柳沢吉里の入封後は柳沢氏が明治維新まで居城とした

南志見十三郷の字名が記されたうちわ