豊岡城 戦国守護 山名氏

神武山「豊岡城跡」

別名:亀城

永享年間(1429〜1441)、山名持豊(宗全)により、此隅山城の出城として、標高約49mの亀山に木崎城(城崎城)が築かれたとされる

山名氏のもとでは、山名四天王に数えられた垣屋氏が配されたとする

天正8年(1580)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉による第二次但馬征伐で但馬国の山名氏が一旦滅ぶと、秀吉配下の宮部継潤が2万石で入城した

宮部氏は、城崎を豊岡と改め、城を改築したとされる

このとき城下町も整備され、これが現在の豊岡の町の基礎となった

天正11年(1583)、木下助兵衛尉、天正12年(1584)には尾藤知宣、天正13年(1585)には2万2千石で明石則実、文禄4年(1595)には福原直高(長尭)と城主が替わった

なお、いずれも代官とみられている

慶長2年(1597)、杉原長房が2万石で入封した

豊岡藩三代・重玄に嫡子なくして無子改易となり、一旦廃藩となったため、豊岡城は廃城となった

寛文8年(1668)、丹後国田辺から京極高盛が3万5千石で入封し、再度豊岡藩が置かれる

城主大名の格式ではなく、山城の維持費もかかるため、山の麓に陣屋(豊岡陣屋)が建築され、藩政は陣屋にて行われた

現在、豊岡城跡一帯は神武山公園として整備されている

ともしび会 能登復興へ メッセージ

私たちが企画をして取り組むサロンは半年が経った9月末で終了、その後は、金蔵地区皆さんの取組みとしてサロンを継続してくださっている

私たちは、その取組みに参加させていただくという形になった

現在は、CS-Tokyoが主体で行っているプログラムに協力する形で金蔵の夏の「能登復興の願い-ともしび会-」に参加している

また、東京からできる支援として、「能登復興の願い-ともしび会-」で使用するキャンドルの瓶を飾るメッセージを都内で集め、金蔵に送っている

昨年は1100枚を超えるメッセージが寄せられたと

ある地区の社会福祉協議会では、能登について考えよう!という講座を開催し、改めて能登半島地震について学ぶ機会を設け、ワークショップとしてメッセージを作成するという取組みを行っている

東京からできることは限られてはいるが、能登について考える機会や触れる機会をこれからも様々な方々に提案していきたい

( 加納佑一:東京ボランティア・市民活動センター)

預かって来たメッセージをカップに被せる亀井さん

困難の山を能く登り越える

その先に見える光

遠くから届ける光

秋篠川 平城京 船着場

大和郡山九条町

高倉大明神 三輪大神 玉椿大明神

平城京西市船着場跡

平城京西市跡

奈良時代当時この付近一帯に巨大な市場がありました

秋篠川から市場に物資を運ぶための運河が造られていた

秋篠川は造営時に条坊にあわせ直線化された人工河川です

1200年前にも咲いていたでしょう

藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世中の慶雲4年(707)に審議が始まり、和銅元年(708)には元明天皇により遷都の詔が出された

恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年(天平17年)には、再び平城京に遷都された

弘仁元年(810)、平城上皇によって平安京を廃し平城京へ再び遷都する詔が出された。これに対し嵯峨天皇が迅速に兵を動かし、平城上皇は剃髪した(薬子の変)。これによって平城京への再遷都は実現することはなかった

奈良口・明治天皇駐輩之蹟(ちゅうひつぎょし)

1908年(明治41年)11月14日、明治天皇は陸軍特別大演習の閲兵式の様子をご覧になりました

平城京の入り口だったのでしょう