小牧山 安土城の モデルとなり

織田信長が美濃攻めの拠点として築城し、後の小牧・長久手の戦いでは、徳川家康の陣城となった

濃尾平野の独立峰である小牧山に築城された城で、信長が美濃攻めを終えるまでの4年間しか使用されなかった

このため、急造の砦に近いものと想像されていたが、近年の発掘調査の結果で、城郭を取り巻く三重の石垣(三段の石垣で一番下の段は腰巻石垣)が発見された

そして城の南部の発掘調査では、小牧山築城によって移転してきた住民によって営まれた町割も発見された

これにより小牧山城は戦時急造の城ではなく、清州城に代わる新たな拠点として築かれた城郭であることが判明した

現在は小牧山城が後に織豊系城郭と呼ばれる城郭体系の原点であるとされる

南山麓から本丸のある頂上に向かう位置には防衛に不向きな大手道が設けられている

途中の中腹から折れのある道へと変化しており、後の安土城の縄張りとの類似性が指摘されている

標高86mの小牧山頂上に本丸を築き、その周囲を三重の石垣で守りを固め、中腹も削平して数多くの曲輪を構築している

平成17年度(2005)に行われた第2次試掘調査で現在の大手道の地下に永禄期の大手道があることが発見された

永禄期の大手道は、山側谷側にもそれぞれに石積を設け、道の両端を区画していた

道幅は約5mで、道に並行して幅 20cmの排水溝を設置していた。この構造は安土城の正面にある大手道と構造的に似通っており、安土城が初見とされる大規模な大手道は、この小牧山城が最初であったと推測されている

皇后が 三韓征伐 行宮所

当神社鎮座地は昔より「やはた山」と呼ばれ、八幡大神とは特に縁が深く、又その周辺に「九海士の里九艘谷」と言う地名が残ってあり、

往古九艘谷は入江となって居たと言われ、神功皇后三韓征伐帰途の折、この地に行宮所を設け、しばし此の地に留まられた

この地を出立するに当り、9人の供の者に船1艘ずつを賜り帰宮された 

留まった9人の供の者は、その舟で漁業に努め、農耕に精出し、行宮の聖地に八幡大神をお祀りした

降って天智天皇の御宇、九海士の里の邑長「早鷹」と言う者が、嗣子なきを憂い八幡大神に祈願の末、宮子姫(髪長姫とも呼ぶ)を授かり、

姫は文武天皇の御側として仕える出世をしたと言われ、後当社の程近き地に文武天皇勅願寺道成寺は建立されて栄え、神社は荒廃した

その後改めて石清水八幡宮より神靈を勧請し、東吉田政所某なる住宅の西に一時奉齋、後八幡山の現在地に遷したと言われており

(『旧神職阪本外記天保四年書上』『続風土記』『日高郡誌』)、勧請の折、京都阪田村より阪本五郎左衛門、阪本又佐衛門随従し来り社司として代々仕えたと言われる

政所屋敷跡の東を神主屋敷と呼びその近くに禰宜坂と言う地名も今尚残っている

神仏習合により当境内地に八幡宮別当として神宮寺が建立され、延宝3(1675)年迄は眞言宗無本寺にて浄国寺と云われたが(『亨保書上』『天保書上』)、仝年天台宗道成寺の末寺となり、その後は龍宮山雲性寺と稱したが、明治3年頃焼失、その後神仏分離の為再建されなかった

八幡山の北麓に川上の阿田木社より勧請された愛徳山王子神社も鎮座していたがその後荒廃し、今はその跡を留めていない(『建仁の御幸記』『続風土記』『江川組社方書上帳』『日高郡誌』)

平成12年より氏子総意に依り、例祭日の神賑行事は形を変えて復活し、当日は盛大を極め、併せて天音太鼓の奉納、宮子姫にあやかる様にと前年度中、氏子地内で出生の女兒全員の成長祈願と「宮子姫人形」の贈呈も行なわれている

早春や 秀長公に 会いに行く・・・幸師

秀長公墓所「大納言塚」

以前訪ねた時は落葉が散り積もっていたが掃き清められていました

天正19年(1591)、郡山城内で没した秀長はここに葬られました

当初、この近くに豊臣秀吉が建てた大光院という菩提寺があり、墓地を管理し菩提を弔っていました

しかし、豊臣家が滅んだあと、大光院は京都に移され、秀長の位牌は東光寺(のちの春岳院)に託されました

その後墓地は荒廃しましたが、安永6年(1777)、春岳院の僧、栄隆<えいりゅう>や訓祥<くんしょう>が郡山町中と協力して外回りの土塀をつくり、五輪塔を建立しました

五輪塔は高さ2メートルで、地輪の表面には戒名が刻まれています

毎年4月22日には秀長の遺徳を偲ぶ大納言祭が執り行われる

戒名は「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」
 葬儀の導師は、織田信長の葬儀の導師も務めた大徳寺の古渓宗陳

葬儀に20万人が参列したという

秀長の人気は商業保護の政策にあったといわれる

大納言塚の入口に置かれている「お願いの砂」は、穴の中に砂を3回通すと願いが叶うと言われています