宗睦公 藩政改革 財政難

尾張徳川家九代目徳川宗睦の墓碑

1800(寛政11)年1月14日、享年67で死去した名古屋藩第9代藩主・徳川宗睦の墓所である

大手道を登る途中にある

太平洋戦争後の名古屋市復興計画で藩主菩提寺の建中寺が縮小され、歴代藩主の墓所も整理されるなかで、郷土史家の嘆願もあって宗睦の墓は小牧山に移転された

宗睦は1761(宝暦11)年、父の8代藩主・徳川宗勝の死去により跡を継いだ

父同様に才能に優れ、名古屋藩の「中興の祖」と言われている

藩政改革では新田開発や殖産興業政策,治水工事,刑法改正など多くの成功を収めている

また、文化面では藩校・明倫堂を創設して藩の教育普及に努めた

しかし、このような改革を行い過ぎた結果、宗睦の晩年には財政赤字が見え始め、物価騰貴など経済の大混乱を助長してしまった

これを解決するために藩札を発行したが、これがかえって物価騰貴など経済の大混乱を助長してしまった

男子3人が早逝したため後継者問題で苦労したようです

小牧山城 虎口跡

土塁跡

天主が姿を見せた

御坊市に 六王子跡 遺りけり

愛徳山王子跡

熊野三山への参詣道「紀伊路」に設けられた熊野九十九王子社の一つ

御坊市藤田町吉田の八幡山の北麓に位置する

建暦2年(1212)に後鳥羽院庁が紀伊国在庁官人等に宛てた『後鳥羽院庁下文』によると、紀伊国日高郡にある薗宝郷は、地主永命なる人物の寄進にもとづき熊野山新宮領と認定されている

薗宝郷の北限境界が愛徳山王子が所在していた周辺と考えられる

明治時代に八幡神社(御坊市湯川町吉田)に合祀された

『後鳥羽院熊野御幸記(明月記)』(建仁元年(1201)10月10日)において、連同持(善童子)王子の次に「・・次又愛徳山・・」とこの王子社の名が初めて記されており、鎌倉時代初期には所在していたことがわかる

『明月記』(元久2年(1205)正月1日)に「・・盛範愛徳山王子修造功・・」と熊野別当家の一族盛範が愛徳山王子を修造した功によって賞せられた記事があり、仁和寺蔵の『熊野縁起』(嘉暦元年(1326))には、准五体王子に位置付けられるなど鎌倉時代を通してかなり重要な王子であった

近世の記録を見ると、享保十年(1725)江川組社方書上帳に「愛徳山王子一社、是は往古より有来り候処及大破、慶安四年(1651)御尋被為遊其節境内三十間四方に被仰付、社鳥居御制札共御立被遊候其後御制札等朽損申候」とある

さらに安永(1772~1780)ごろの吉田村書上にも同文で末段に「社鳥居大破におよび有之候」と附記している

御坊市には熊野九十九王子のうち、善童子(ぜんどうじ)王子、愛徳山王子、海士王子、岩内(いわうち)王子、塩屋王子、上野王子があります

愛徳山王子は吉田八幡神社のある八幡山の北の麓にあり、海士王子は南の麓にあります

八幡山城:吉田金比羅丸の居城。吉田氏は土生城主逸見氏や、日高川筋で50ヶ村を領していた山崎城主川上則秋と姻戚関係を結んで、共に南朝方として戦ったが、北朝方であった牟婁郡芳養荘を本拠とする湯河氏が日高平野に進攻してきたため、吉田氏らは没落したと思われる

雲生寺跡:天台宗の寺院。山号は龍宮山
吉田八幡神社の神宮寺。旧日高郡矢田荘吉田村にあり、創建時期は不詳だが、神社が造営された時に建立されたものと思われる

参加者の 2名の菩提寺 黄檗寺

歌ケ崎御廟

郡山第2次本多藩主、本多忠常(1661-1709)の墓で、市指定文化財

初代藩主・本多忠平の実弟

延宝5年(1677)従五位下、能登守に叙位・任官する

元禄8年(1695)、兄の死去によりその養嗣子として家督を継いだ

元禄12年(1699)、城下町の大火、江戸屋敷の火事、京都御所の造営などによる再建・造営費用などで出費が重なり、藩財政が窮乏化した

黄檗宗 恵日山「発志禅院」

釈迦如来を本尊とします。郡山城主本多忠常が1709年(宝永6年)4月14日)に没し、その菩提を弔うため、嫡嗣本多忠直が王龍寺(奈良市二名町)の住職古篆(こてん)に開山させた

本多忠常は、徳川四天王と呼ばれ家康に仕えた本多忠勝に連なる子孫です

なんと😲本日参加者2名の菩提寺で墓もありました

大職冠の楠

クスノキの前にある標識では、幹周/5. 7m、樹高/25m、樹齢/推定500年

近くには大職冠鎌足神社がありますが、豊臣秀吉の弟・秀長が郡山入城の後、秀長は多武峰の大職冠鎌足神社を郡山城の鎮守として遷座しました

秀長の病没直前に秀吉が鎌足神社を多武峰に帰山させましたが、今も地名として大職冠は残っています