参加者の 2名の菩提寺 黄檗寺

歌ケ崎御廟

郡山第2次本多藩主、本多忠常(1661-1709)の墓で、市指定文化財

初代藩主・本多忠平の実弟

延宝5年(1677)従五位下、能登守に叙位・任官する

元禄8年(1695)、兄の死去によりその養嗣子として家督を継いだ

元禄12年(1699)、城下町の大火、江戸屋敷の火事、京都御所の造営などによる再建・造営費用などで出費が重なり、藩財政が窮乏化した

黄檗宗 恵日山「発志禅院」

釈迦如来を本尊とします。郡山城主本多忠常が1709年(宝永6年)4月14日)に没し、その菩提を弔うため、嫡嗣本多忠直が王龍寺(奈良市二名町)の住職古篆(こてん)に開山させた

本多忠常は、徳川四天王と呼ばれ家康に仕えた本多忠勝に連なる子孫です

なんと😲本日参加者2名の菩提寺で墓もありました

大職冠の楠

クスノキの前にある標識では、幹周/5. 7m、樹高/25m、樹齢/推定500年

近くには大職冠鎌足神社がありますが、豊臣秀吉の弟・秀長が郡山入城の後、秀長は多武峰の大職冠鎌足神社を郡山城の鎮守として遷座しました

秀長の病没直前に秀吉が鎌足神社を多武峰に帰山させましたが、今も地名として大職冠は残っています

 

日没前 小牧山城 間に合うか

名鉄「犬山遊園駅」

臨溪院

成瀬家菩提寺で本堂には姫様の御駕籠が置いてあります

犬山善光寺参道

瑞泉寺には24の塔頭があったが現在は6寺

犬山線、小牧線を乗り継ぎ小牧駅へ

名古屋コーチン発祥の地

タクシーで小牧市役所へ1250円

大手口

麓から山頂へ至る大手の登城路 は、麓から中腹に至るまでは北に向かって直進し、中腹で東に直角に折れ、更に直進したのち、山頂まで 「コ」の字型の屈曲を5回繰り返します

大手の登城路では、これまでも試掘・発掘調査を行ってお り、永禄期(織田信長築城時)の登城路の状況や、永禄期以降に改修が加えられてい ることを確認しています

小牧山城の大手登城路では、山頂の 大手口からつづら折りの一番下の屈曲部に至るまで、連続して石垣を築くなど、その構造などが明 らかとなりました

徳川源明公墓碑

尾張藩中興の祖といわれた尾張徳川家九代藩主徳川宗睦源明公の墓碑

髪長媛 文武天皇 后となり

御坊駅:昭和4年(1929)鉄道省紀勢西線の駅として開業

天王寺から2:24分かかりました

特急「くろしお」を含むすべての定期列車が停車し、当駅を始終着とする列車も多い、紀勢本線の主要駅

御坊市は黒潮の影響で年間を通じて温暖多雨で、冬も霜が降りることはほとんどない

今後発生が予測される南海トラフ巨大地震の際には、最大14mの津波が到達することが予想されている

紀勢線「御坊駅」方向

九海士(くあま)の里(現在の御坊市)に住む海女の夫婦は、子宝に恵まれないことから氏神の八幡宮にお祈りしたところ、女の子を授かりました。そこで名前を「宮」と名づけました。ところが大きくなっても宮には髪の毛が生えてきません。両親は悲嘆にくれていました

ある日、母親が海に潜っていると、海底に光輝くものがありました。それは黄金色の小さな小さな観音様でした

持ち帰った観音様をお祀りして、毎日お祈りを続けていると、にわかに宮の髪が生えはじめました

髪はどんどん伸び、里の人々は宮のことを「髪長姫」と噂するようになりました

ある日、宮が黒くてつやつやした髪をすいていると、ツバメが飛んできてその髪を一本くわえ、飛び去りました

奈良の都で勢力を誇っていた藤原不比等の屋敷の軒にツバメが巣を造りました。巣から垂れ下がる長い黒髪を見つけた不比等は髪の主を探しだし、養女に迎え入れました。当時、長い黒髪は美人のあかしでした

不比等の養女となった宮は、「宮子」という名をいただき、やがて文武天皇に見初められ后となり、奈良の東大寺を建立した聖武天皇の母となりました

 宮子は黒い長い髪を授けてくれた観音様をお祀りしたいと文武天皇にお願いしました
 天皇は紀道成に命じて立派なお寺をつくらせました。それがあの道成寺だというのです