有子山 険しい直登 心して

国の史跡「有子山城」

続日本百名城

天正2年(1574)、山名祐豊が築城したとされる

一時、六分一殿として知られた山名氏は元来此隅山城を居城としていた

永禄12年(1569)、織田信長配下の羽柴秀吉の攻撃を受け落城したため、堺から帰国した有子山に城が築かれた

六分一殿:源姓新田氏族山名氏。山名郷(現在の群馬県高崎市山名町周辺)を本貫として山名三郎と名乗ったことから、山名氏を称した。全国66か国のうち11か国で山名氏が守護領国となり「六分一殿」と呼ばれた

ロープ場が何カ所かあります

観光気分では無理です!

北第六曲輪跡まで直登が続きます

スニーカー以上は必携

雨天時は登るのは止めましょう

落城した此隅城が「子盗」(此隅)を連想させることを嫌って「有子」と名付けられたという

山頂に主郭があり、主郭の西方に6段の階段状の郭、主郭の東南に千畳敷と呼ばれる郭が置かれた

稲荷社 市民とともに 城護り

本丸西隅櫓

1696年(元禄9年)、小出英及が幼くして死去したため小出氏は無嗣改易となり、翌1697年に松平忠周が入封した

1706年(宝永3年)、忠周の転封に伴って仙石政明が信濃上田から入封し、以後は廃藩置県まで仙石氏が出石藩を治めた

江戸時代後期には藩内の権力争いである仙石騒動が起こり、1835年(天保6年)に藩の石高は5万8千石から3万石へ減封された

有子山稲荷神社

最上段の本丸のさらに一段高い場所にある曲輪稲荷郭に1604年の築城時から現在地に鎮座する城の鎮守

城郭内にありながら、江戸時代から身分を問わず参詣が許可されていた

城の麓から始まる石段の参道には、37基の鳥居が並び、157段上った右手に稲荷郭があり、その奥に社殿がある

井戸

御神木

境内から出石城下

本丸東隅櫓跡

興福寺 武家を支配する 権力 

順慶の誕生:天文18年(1549)藤勝(後の順慶)、父順昭が延暦寺入寺

祖霊社

多聞日記に「光ル物」「狐」により「狂気」、3年前の「もかさ(天然痘)」治療?

大クスノキ

天文19年(1550)「棟梁藤勝殿」、順昭が筒井に帰り28歳で死去

御神木

逸話「元の木阿弥」:盲目の僧侶を順昭の影武者にしたのか?

天守台石垣

慣用句自体は当時あるが、順昭を指すのは元禄11年(1698)「元禄太閤記」

実際は沢氏や三好長慶との関係強化

内憂:興福寺と連携する福住宗職VS河内勢力と結ぶ筒井順政(順慶の祖父)

古市氏・越智氏の反発、河内の安見宗房のもとに出奔、その後援で復帰

遊佐氏の娘と婚姻、福住宗職が出家

逆さ地蔵石垣

外患:三好長慶VS安見宗職

永禄2年(1559)松永久秀筒井攻め

「大乗院家奉行方引付」戌亥脇衆、超昇寺入道、宝来、郡山辰巳以下松永弾正

忠人数引入」、「山中衆、山田、多田、福住、古市以下弾正忠同心也」

柳生宗巌をはじめ多くの大和衆が順慶を見限り久秀に味方、筒井城から没落

永禄6年(1563)興福寺が久秀を「官務(衆中之棟梁)」と公認

興福寺が順慶を見限る、順慶にとって久秀は宿敵

追手向櫓