濃密な 日程こなし 帰途に着く

10日間帰省最終日

8月3日9:14分R249打越坂

工事は延々と続いている

兼城から輪島港湾

稲舟海岸

浚渫工事

県道1号線「市ノ瀬猿谷」崩壊地

河原田川「熊野地区」崩壊地

2年半で工事は終わったようです

遠隔操作で重機を動かしていた

旧「のと三井」駅舎

南志見「ひまわり畑」

南志見広場

能登ザウルス&能登復興

筒井氏は おん祭六党 筆頭格

大和の対立構造と筒井氏の台頭

大和の派閥

おん祭六党:筒井氏と戌亥脇党、十市氏と長谷川党、越智氏と散在党、箸尾氏と長川党、楢原氏と南党(葛上党)、万歳氏・高田氏と平田党

二つの門跡:筒井氏ら一条院方、古市氏・小泉氏など大乗院方

竹林門

南北朝の戦い:筒井氏ら北朝方、越智氏ら南朝方

大和永享の乱(1429ー39)井戸氏・筒井氏VS豊田氏・越智氏

畠山管領家(河内・紀伊守護)の内紛

筒井氏は政長、越智氏は義就

応仁の乱(1467ー78)にも影響

東軍:義政、細川勝元、畠山政長、成身院光宣、筒井順永、後土御門天皇、尋尊

西軍:義視、山名宗全、畠山義就、越智家栄、古市澄胤

極楽橋

河内守護代の遊佐氏と連携

順永、娘を遊佐長直に嫁がせる

内堀

順尊:京都で死去

順興:国人一揆を主導、官符衆徒棟梁の世襲化、椿尾上城を築城

順昭:遊佐長教の養女を妻に迎え三好長慶・根来寺杉坊明算と連携、北大和を平定

天地の神にぞ祈る 朝なき乃 海のごとくに波たたぬ世を・・・昭和天皇御製

柳澤神社

仙石氏 美濃より移封 そば広め

本丸東隅櫓跡

天正8年(1580)、秀吉の弟・秀長による但馬侵攻で有子山城が落城し、山名氏による但馬支配は終わった

その後、有子山城には秀長、青木秀以らが入り、1585年(天正13年)から前野長康、1595年(文禄4年)から小出吉政が城主となった

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは吉政が西軍に属したが、弟の小出秀家が東軍で戦ったため、小出氏の所領は安堵された

1604年(慶長9年)、吉政が岸和田へ移ると、子の小出吉英が出石を継承した

吉英は有子山城山麓の居館を改修して出石城を築き、山上の有子山城は廃城となった

築城と前後して城下町も整備され、現在の出石の町並みの基礎が形成された

感應殿

出石藩主仙石氏の祖権兵衛秀久公を祀っています

公は美濃の人で、豊臣秀吉に仕えて功があり洲本、高松の城主となり一時勘気を受けて浪人しましたが、小田原攻めで奮戦し小諸城主に返り咲きました

その豪勇のほどは大盗賊石川五右衛門を捕らえた豪傑として伝説化されています

藩祖仙石秀久は出石入城の際、信州一のそば打ち名人を伴い蕎麦を広められました

仙石氏は、公のあと子の忠政が信州上田に移り玄孫政明が宝永三年(1706)に出石に移封されて五万八千石を領し以来廃藩まで七代163年間続きました。明治に入って旧家臣らによって本丸跡に公を祀る感應殿が建立され今日に至っています