東大寺 開眼法会で 導師務め

印度婆羅門僧菩提僊那供養塔

僊那:奈良時代の渡来僧(704-760)

現在の南インド出身

唐に滞在中に日本僧の招請を受けて天平8年(736)に訪日

天平勝宝4年(752年)に東大寺大仏殿の開眼供養法会で婆羅門僧正として導師を務めた

弟子の修栄が撰した『南天竺婆羅門僧正碑』『東大寺要録』中の「大安寺菩提伝来記」に伝記が残されている

唐では長安の崇福寺を拠点に活動していたようで、唐滞在中に日本からの入唐僧理鏡や第十次遣唐副使中臣名代らの要請により、 天平8年(736年)に訪日した

菩提僊那ら3人の僧は5月に大宰府に赴き、8月に難波津を経て、行基に迎えられて平城京に入り、左京の大安寺に住し時服を与えられた

菩提僊那は華厳経の諷誦に優れ、満呪にも通じていた。その密呪は、菩提僊那から日本僧の弟子へ伝授された

菩提僊那は、聖武天皇、行基、良弁と共に東大寺の「四聖」としてその功を称えられている

天平宝字4年、大安寺において西方を向いて合掌したまま死去した

翌年、登美山右僕射林に葬られた

 

霊山寺 三重塔 重文

天平6年(734年)、聖武天皇は行基に命じて登美山に大堂を建立させ、国家的な祈願寺としての歩みが始まりました

さらに天平8年(736年)、来日したインドのバラモン僧・菩提僊那が、登美山の地勢が故郷インドの霊鷲山(りょうじゅせん)に似ていることから、この寺を霊山寺と名付けたと伝えられています

聖武天皇からは「鼻高霊山寺」の寺額を賜ったとされ、ここに霊山寺の名が確立しました

平安時代には、空海(弘法大師)が霊山寺を訪れ、登美山に龍神を感得したと伝えられています

これを契機として、奥之院に大辯才天女尊が祀られ、霊山寺は法相宗の寺院でありながら、真言密教の要素を併せ持つ二宗兼学の寺院となりました

鎌倉時代には僧坊が21か寺を数えるほど栄え、現在に残る本堂や三重塔といった優れた建築が造営されました

兵火を免れたことで、建築や仏像が良好な状態で伝えられている点は、霊山寺の大きな特色です

行者堂

近世には江戸幕府の朱印寺として一定の寺勢を保ちましたが、明治時代の廃仏毀釈により一時衰退します

その後、昭和26年(1951年)に独立して霊山寺真言宗を称し、今日に至っています

谷を挟んだ南側の斜面には三重塔(重要文化財)が建ち、檜皮葺き・高さ約17メートルの優美な姿を見せています

塔内初層には、五大明王図や仏涅槃図などの極彩色壁画が描かれ、保存状態の良さでも高く評価されています

婆羅門僧正僊那遺跡

鈴屋地区 二重災害 雪景色

2025.2.23(日)・9:43分町野町上鈴屋

アップしそびれていました(>_<)

家屋の倒壊と山の崩落、9月には豪雨災害

鈴屋地区の奥には寺山集落がありますが、この時点では通行止めで立ち入りできませんでした

西も東も大崩壊

山間を流れる鈴屋川は、珠洲市との境にある宝立山が源頭です

何軒か家が建っているが復旧は困難を極めるでしょう

父の知人がいたようだが情報は無い

悲惨な状況は雪で隠されている

地震発生から1年1ケ月、日曜日も雪の中を復旧工事

青空が覗いた

山頂部から崩壊

水山、松ケ瀬山にも登り状況を確認したい

県道40号線

震災前に珠洲市との境界にある寺山、北山最深部の集落を訪ねた

道路が復旧したら宝立山まで訪ねてみたい

大規模工事が行われており引き返しました

ふるさとの形は変わりますが、形を変えて22世紀に残して欲しい